旧能生町・小見の古代史を考える | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 能生川河口から2km余り遡上すると左岸に鶉石があり、その隣りに大字小見がある。

 だいたい私の想像するところ、この鶉石から小見のあたりが弥生時代から古墳時代にかけての能生谷地域の開墾の出発点あるいは拠点ではなかったかと思う。そう考えるにはふたつばかりの理由がある。

 一つは、このあたりにはあまり注目されるような弥生遺跡はなく(というより発掘されておらず)、それでも海岸に近い井上遺跡(海洋高校のあたり)には、翡翠工房だったと思われる遺跡が発掘されているが、この地は高台上にあり、おそらく加工された翡翠は西に向かって運ばれていったであろうと推測される。それは、越中、越前、出雲を通り、最終的には朝鮮半島に輸出され、鉄材を買うための交換財の役割を果たしていたのであろう。こうして輸入された鉄素材は、水田開発のための用具の材料ともなり、当地だけでなく、頸城平野の開墾に役に立ったであろう。ちょうど2~3世紀の頃には、北陸新幹線・上越妙高駅の近くに越後国では最大の釜蓋遺跡(集落跡)が営まれていたが、この地が上越地域(旧頸城郡)の農業開発の中心地であった。ともかく、井上遺跡は翡翠工房であり、開墾の拠点ではなかった。

 ちなみに、北陸新幹線の工事が行われたとき、工事に先立って考古学調査が実施されたので、私は何か発見があるのではと期待を持っていたが、二つの遺跡(角地田遺跡、平遺跡)でも、期待されたほどの発見はなかったようである。例によって報告書が出ており、その図を一部改変して示す。だが、この図からも分かるように、調査地点は、私が思うっているような弥生遺跡包含地からはそれており(それは、沢に入ったところの微耕地ではない)、そもそもあまり期待できない地域だったように思う。

  (『北陸新幹線関係発掘調査報告書Ⅸ 角地田遺跡 平遺跡』)

 

 

 

 

 次に、考古学遺跡が多く発掘されており、よく調査されている地域と類似の開発パターンを当地の場合もたどったと思われるからである。通常、稲作は、水利の便のために、また飲料水を確保するために、河川の流域に求められるが、大きい河川の両側は当初氾濫原をなしており、そこに肥沃な沖積平野があったとしても、水田を営むことはできなかった。有名な吉備の国でも、多くの弥生集落は相対的に小さい足守川の流域に営まれており、しかも山側に近く、沢からの水を利用できる微耕地にあった。能生谷の場合も同様であり、沢からの水が水田用としても飲料水としても利用できる鶉石・小見あたりの沢に入ったあたりの微耕地に集落が置かれたとかんがえるのが道理にかなっている。実際、このあたりは江戸時代になってからも、石高(米の生産量)の最も多い地域であった。

 最初、ここに入ってきた耕作民がどんな人であったかを正確に知ることはできる由もないが、大雑把な推測をすることはできるかもしれない(それがあたっているかどうかは、神のみぞ知る、である)。

 想像力をたくましくすると、大字名の小見(おみ)は、青海(おうみ)と同根から知れないと思う。青海は、記・紀では海民族の名として知られており、古事記では、神武天皇が日向から大和に向かう途中、瀬戸内海で海路の案内をすることになったシイネツヒコの後裔・後に国造となった大和直の子孫とされている。私はあまりこうした系譜をそのまま100%信じることはしないが、海民(航海、漁業、船による輸送の従事者)であり、陸に上がった人だったことは認めてもよいかもしれない。その痕跡は、瀬戸内海から近江国を通り、青海から中越、下越(新潟市)にまで伸びている。

 とはいえ、海民といえば、九州志賀島の安曇族もこのあたりまで足を伸ばしていたようである。安曇(あずみ)の名を持つ人々は、瀬戸内海を離れ、愛知県の渥美(あつみ)半島に名を残しているが、それにとどまらず、そこから内陸に入り、信州・松本市にまで達している。穂高神社は、この安曇族の祭る穂高神の鎮座する社であり、安曇郡の中にある。一作年始めて訪れたが、神社の境内にはいまでも船が置かれていた。もう一つ、この地と渥美半島との結びつきを示すものがある。それは出現期(3世紀頃)に松本市に築造された前方後方墳の巨大な弘法山古墳である。すでに3世紀末には松本市あたりに大古墳を築く力を持つ首長層(豪族)が形成されていたわけであるが、こうした前方後方墳は、東海地方に特有の墳墓形式と推測されており、これは松本の古代集団が伊勢湾岸の集団と交流していたか、それとも伊勢湾岸から三河・遠江を通り、天竜川を遡ってやって来た集団であったと推測されている。ちなみに、これに関連して注目されるのは、上越市の上記の釜蓋遺跡の集団もまた東海地方の人々と係わっていたことである。そのことは、赤く美しい東海のパレス土器=S字甕がこの釜蓋遺跡でも発掘されていることからも知られる。近年の考古学研究の示すところでは、この3世紀頃に東海系の土器がいっせいに信州、上毛野(群馬県)、越後に向かって動いているが、これは両地域相互間の交流または人々の移動が活発に行われたことを示すものであると言う。

 古代のことははっきりと分からないことが多いが、遅くとも弥生時代の末期から古墳時代の初期には、私たちの郷里にも西の方から人々がやって来て住み着き、水田耕作を始めたと考えても間違いではないであろう。

 当地には、出雲(ヌナガワ姫の所にやって来た大国主)からの集団の移動もあったことであろう。

 出雲の集団が越の国まで進出してきていたことは、考古学的には、上記の翡翠のこともそうであるが、弥生時代終末期に出雲で築造されるようになった四隅突出型の墳丘墓が越国(東の端は富山県)でも築造されていたことに端的に示されている。また文献上では、古事記のヌナガワ姫説話に示されているが、隣の富山県でも江戸時代(18世紀前半)の説話として、大国主神があるときに出雲を発出して越国に至り、そこでイスルギ神をめぐる姉倉姫と能登姫の壮絶な争いを仲裁したという話を伝えている(喚起泉達録、肯撰泉達録)。どうやら越中や越後ではそれぞれの山(倉)にお姫様が住んでいたらしく、当地にやって来た出雲神は彼女らと結婚したり、喧嘩を仲裁したりしたらしい。

 ともあれ、九州勢力も、瀬戸内海勢力も、出雲勢力も、当地に入ってきたことは間違いないように思われるが、当地では、なぜか出雲神がダントツの人気を誇っている。これは、古事記を喧伝した本居宣長翁の『古事記伝』(18世紀末)のためであろうか。

 

 参考のために「小見白山社 縁起」(写)を挙げておく。これが何時書かれたものかは、私にはわからないが、本居宣長翁以前に書かれた可能性は高い。そこには主に能生川左岸の地を中心に、泰平寺(大平寺)、布引、鶉石、小見、門前、磐平と続き、大沢谷、大沢嶽・鉾が岳・権現嶽に到る集落や山々が紹介されている。(地名、山名などを太字で示す。)ここに挙げられている集落がより早い時期に開発された土地だったのではないかと思われる。

 

小見白山社縁起

奴奈川保鶉石郷大沢谷仁(ニ)大沢嶽止(ト)言者高志之峯是矛乃嶽ト言。昔伊弉諾尊伊弉冉尊所知大八洲時故豚天瓊矛以称矛之峯此峯八方正面ニシテ大滝八小滝八合テ六十四滝有由言伝。常里近所氷雪絶ヘズ高山也。是ヨリ流出川布川ト言。亦大川ト言、能生川是也。此峯ヲ追之山ト言。亦神通之峯トモ云。東方金蓋山権現山ト言。亦夜星山ト言。是皆大沢嶽ノ続也。昔大巳貴少彦名尊薬草ヲ苅邪鬼ヲ責給故ニ追沢嶽ト言。此山ノ北方ニ大成(ナル)岩穴有是。地神高志奴奈川姫有大巳貴尊妃ト成給所大巳貴神待設ノ舘也ト言。亦胎内括リト言。有大巳貴少彦名命共ニ巡行諸国悪魔降伏ノ時越後国邪鬼欲計夜星武以テ身野輪山為威域国神女娶高志奴奈川媛為妃生建御名方尊。是児伝健八才而遂除夜星武時大巳貴尊八十才而次巌移身蔭御身長五尺八寸御腰廻五尺。出雲国仁所去追沢嶽権現山ニ広拾間余源三間半宛窪間石於以テ築木立大留所多有。是大巳貴神婿入時、上下供奉神舎也ト言伝。亦奴奈川水上富来乃口ト言所有入口八尺許開成磐穴也。是於福加口ト言。一丁斗入天滝有り此所ニ天奴奈川媛御誕生有。亦生長乃時御衣織玉布場也共言。最神寂タル霊地也。依之此谷於今能生谷ト申。此続ニ大小乃池二ツ有。弟乃池ト言。此地於今池乃平ト言。広所也ニ神此池仁天身曽貴志賜処ト言。是与利(ヨリ)此方見下シ賜布仁(フニ)可愛石貳ツ山足乃山崎ニ小ク見エ賜布トテ爰仁下里此石仁御足留賜。是今大石乃元ト言。是石上ニ祠有熊野権現之社ト称。亦一ツ乃右乃前ニ祠有。是於伊夜日古大明神ト申也。彼可愛右小ク見エ賜布故加(か)比里於小見邑ト言。爰与利五六町西ニ石見エル。則鶉石也。是母袋権現ト称、今天神地神乃十二神祭天十二権現ト称。是鶉石也。爰仁亦白鳥ト言所有之鶉石加是ヨリ四五町亥ノ方ニ吉キ平地有小山也。是布引ト言。奴奈川姫御衣ノ布ヲ乾玉布所ト言。其山下仁村有之ヲ大平司村ト言。此東五六丁波能生町北陸道駅也。右御足留賜二ツ石乃前山崎仁宮柱大ク立天鎮女座所乃神伊弉諾尊大巳貴尊菊理姫命以天白山大権現ト称。小見邑産土神也。爰仁亦東方ニ磐平ト言家立有リ。西ニ門前ト言家立有リ。是於両門前ト言。小見邑一村也。

   

越後国頸城郡能生谷小見村

     白山大権現略縁起如此伝有者也
 

                     神主敬白