<能生>地名の歴史 発音「ナフ」と漢字表記に関する国語学的説明 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 昨日は、<能生>という地名が<ナフ>(na-hu)に由来することを述べ、その概略を説明した。

 これについて成案がなったのは昨年であり、きっかけとなったのは、この地名に「生」という漢字がついていることである。しかし、いくつかの問題点を感じて若干の検討を行ってきた。ここでは、それを踏まえてより詳しく検討してみたい。(最初に昨日の要点を記してから、いくつかの新しいことを述べたい。)

 

 <能生>は<能>の字だけでも、「のう」と発音できるのに、なぜ「生」の字が加わっているのか? それを説明したものを、私はいままで耳にしたことも、書いたものを読んだこともない。しかし、日本全国を見回してみると、「生」の続く地名はかなり多い。例えば、竹生、麻生、丹生、羽生、等々である。これらの地名の「生」は、現在では「う」の音を現すために使われているように思われているかもしれないが、歴史的には決してそうではないことが知られている。

 試しに手元の古語辞典(大野晋他2名編『岩波古語辞典)を引いてみると、「ふ【生】」の説明として次のように書かれる。

 「(草木などの)群生する場所。「芝ー」「蓬(よもぎ)ー」など。多く多く接尾語的に使われる。「白爨(かし)のーに横臼(よこす)」を作り」<記歌謡二>、「生、フ」<名義抄>」

 

 <生>の字がなぜ「フ」と訓じられるのか、私には理解できないが、ともかく「フ」と発音される語があり、それが何かの群生する場所であることは間違いない。上記の竹生、麻生、丹生、羽生の生が現在「ウ」音のように使われているとしても、古くは「フ」音であったことは間違いなく、これは国語学上の事実として昔から知られていたことである。

 であれば、能生の「生」もそのように考えるべきであろう。

 だが、<能が群生する>というのは意味が通らない。これは何かある他の物が群生する地であることをしめしていたが、ある時に音だけを借りたに違いない。その物とは何か? 野ではないだろう。考えられるのは、<ナ>しかなく、それは菜であろう。この菜も古い言葉(倭語、和語)であり、上記の古語辞典では次のように説明されている。

 「②【菜】葉・茎・根などを食用とする草本。「この岡にー摘ます子」(万一)「菜、ナ・クサヒラ」<名義抄>」

 今日に比べると、菜の示す対象はかなり広いようであり、今日ではむしろ山菜といったほうが近そうに思われる。

 

 私には、今日の能生町の白山神社あたりの地(かつては、山崎といったらしい)や、あるいは能生川を挟んで西側の布引の地あたりに山菜が群生している様子が目に見えるような気がするが、それは置いておこう。もちろん、これで一件落着というわけにはいかない。何よりもまず、この想定が果たして国語学的に説明できるかどうかが問題となる。そこで、以下では、この点について少し検討してみたい。

 

 さて、江戸時代も本居宣長の頃から、古代国語の音韻についての学問的研究が始まり、さらに明治期以降、この領域における研究が画期的に発展したことは、少なくとも国語学者の間では常識となっている。そして、普通の人が聞いたら、「えっ」と驚くような発見も少なくない。その一つは、古代八母音説であり、また「は」行音の歴史的変化である。

 「は」行音は、ローマ字で表記すれば、ha, hi, hu (または fu), he, ho であり、これ以外に発音しようがない。しかし、この音は、奈良時代までは「パ」行音であったことが明らかにされている。したがって母(はは)は、奈良時代には「パパ」だったわけである。そんな馬鹿なと思う向きもあるかもしれないが、古代漢字音の研究や、古代サンスクリット語の発音の解説文を詳しく分析した結果、それは間違いない事実であることは証明されている。このようなパ行音発音がどこまで遡るのかについては、ここではあまり関係ないが、付言しておくと、魏志倭人伝の倭国のクニグニの地名表記から推測して、やはりパ行音であったことがほぼ間違いないことが分かっている。したがって、かりに能生が奈良時代に「ナフ」として存在していたら、その発音は、「ナプ」(na-pu)だったことになる。

 ところが、平安時代(794年~1180年頃)になると、この発音が急速に変化した。パ行音がハ行音に変化したことがその一つである。「ナフ」という語があったなら、その音が今日の音 na-hu (またはna-fu)に近づいてきたのである。ちなみに、それ以前の時代、日本にはハ行音がなかったが、カ行音はあった。そこで、漢語では 歯音のk音のような音も、h音のような音も倭語ではカ行の音とする以外に方法がなかった。ちょうど、現在の日本語で、英語の v 音も、th(θ)音もないので、バ行で間に合わせたり、サ行音で間に合わせたりするようなものである。「われ思う」(I think)が英米人には「われ沈む」( I sink)となったりするようなものであろう。ともかく、そこど、h音系の「好」(現代北京音h音系)も、k音系の「古」も、音は等しくカ行隣ってしまっている。要するに、平安時代にいたって、はじめて日本語にハ行音が出現したということになる。

 

 だが、変化はそこにとどまらなかった。語頭のハ行音は、そのまま h行音のような音で発音されたが、語中のハ行音がワ行音化しはじめたのである。ここでは、その理由を解説している閑はないが、事実としてはそうであり、いくつかの具体例を示せば、納得できるであろう。

 そうした実例の一つは、藤原氏の藤原である。これが名字となる前に藤原という地名があったはずであるが、その発音は、奈良時代までは、"pujipara" <プジパラ>のようであり、平安時代になってから"hujihara”または"fujifara”<フジハラ>のようになったとされる。ところが、p 音の h 音化が生じるとまもなく、語中 h 音の w 音化が進んだ。"hujihara"がさらに<フジワラ>のようになったのである。もう一つ例をあげると、川は、最初 kapa であり、次にkaha (または kafa)となり、さらに kawa (カワ)となった。これを国語学では、「ハ行転呼音」と呼んでいるというが、これが生じた詳細な理由もここでは省略する。ただし、後で述べることと関係するので、一つだけ言うと、発音を容易にするためであるという。確かに「カハ」より「カワ」のほうが言いやすい。

 したがってわれわれの「ナフ」も ”nawu”(ナウ)のようになったはずである。ただし、私は正確には理解できないが、wu 音を平安時代人が発音できたか判断できない。現在の日本人も、英語の狼(wolf)を正確に発音できない人は多い。つい「ウルフ」(ulf)のような発音になってしまうのである。が、それはあまり関係ないだろう。

 問題は、これにつづいてまた発音の変化が生じたことである。それは「アウ」を「オー」のように発音するようになったというものである。上記の例で言えば、麻生が asa-pu → asa-hu → asa-wu →asoo のような変化をたどった歴史が再現できるわけである。同じように、nawu (または nau)が noo のように変化したと考えるのはまったく自然のことである。

 ちなみに<アウ>が<オー>となる例は、古今東西枚挙にいとまがない。古くは、古代ローマ帝国の逸話がある。ある皇帝(名前は忘れてしまった)が当時のローマ市民がしているように 単語中の -au- を -o- (オー)と発音していた。ところが、侍従に「アウ」と発音するように注意される。すると皇帝は、本来 -o- となっている単語(例えば locus の o まで <アウ>と発音し、ラウクスのように言ったという。

 日本国内でも、能生町に近い旧青海町も古代の表記では、滄海(アフミ)であるが、現在の表記は青海であり、読みはオウミとなっている。若干脇道にそれるが阿、私の義兄は祖先が近江国の出身であり、名字も近江という。もちろん、発音はオウミである。ただし、実際にはオミと聞こえるくらいに、オ音が短く発音されるが、それが発音しやすいのであろう。

 

 ということで、ナフがノウと発音されるようになったとしても、何らの国語学上の難点はない。難点どころか、多くの疑問に答えてくれる。それに意味上も問題なく、また最初に述べたように、なによりも<生>字が付く理由も説明できる。

 

 ただ一つ問題が残るとしたら、それはなぜ<能>字が使われたのかという点だけであろう。しかし、これについても次のように推測できるのではないかと思う。

 上段で言及した古代国語の8母音説(橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二編』岩波文庫)では、奈良時代までノ音には甲乙の二種類があり、<能>は乙類のオを表現したとされる。そして現在の知見では、乙類のオは、現在の日本語のオとウの中間のような音価を持つらしい。つまり<能>はノとヌの中間音だったということになりそうである。もし能生がもととも<ナフ>であり、その漢字表記が<ノー>に変化する移行期に採用されたとするば、甲類のノではなく、乙類が使われた理由も説明できそうである。要するに、能生の漢字表記は奈良時代ほど古くはないが、平安時代に入ってからの時期、しかしその比較的早い時期に行われた可能性が高いと結論されることになろう。