集落(邑、村、大字)の始まりを探る 越後国頚城郡西浜・奴奈川郷の古代史 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 現在、日本各地に見られる大字は、江戸時代には「村」と呼ばれており、すでに江戸時代の始まる頃には確実に存在していたことが知られている。しかし、それより先の室町時代や鎌倉時代のこととなると、ほとんど分からない。関係する文字史料が存在する市町村はきわめて少なく、さらに平安時代のことともなれば、奈良や京都などごく限られた地域にしか史料はない。ただ例外的に、国衙や郡衙のあった場所から木簡に書かれた文字が出土することはあるが、そこに書かれていることはごく断片的である。

 そのため、日本全体については、なにがしかのことは分かってはいても、特定の地域における歴史を具体的に描くことは、絶望的に難しい。それでも、なんらかの推定を行うことは、不可能ではない。

 例えば頸城郡の場合、古代の官道にほぼ4里(約16km)ごとに置かれた駅家の名前が知られており、滄海(おうみ)、鶉石(うずらいし)、名立(なだち)、水門(みなと)、佐味(さみ)などの地名は、今でも残っている。ただ水門(みなと)の名前は微妙であり、今の直江津港あたりだから、残っているといえば残っていると言えそうだが、<みなと>は普通名詞だから何とも言えないようにも思う。佐味は、多分、現在の犀潟であろう。

 その他には、周知のように、古事記に出雲のヤチホコの神の夜這いを受けた奴奈川姫であるが、この奴奈川(布川)は、郷名としても登場し、ずっと後になると<奴奈川保>として登場する。<保>ということは、この地域が国衙や郡衙(の官吏)の営む荘園のような存在になったことを示している。

 私の知る限り、その他の地名については、いつ登場したのかを知るための史料はない。ただ天和3年の検地帳に記載されている各村の戸数から判断すると、江戸時代より前の時代、つまり室町時代には天和検地帳記載の村が存在したことは確実である。それは、人口が増加し、百姓家が分家を出す率が比較的安定していたため、村内の戸数から判断して、草分が定住し、開墾をはじめた時期についておおよその推定ができるからである。また日本列島全体における人口増加率の推定も、役に立ちそうである。

 また日本全体では、幸運にも平安時代、鎌倉時代、室町時代における集落の変遷を知るための史料(地図)が残されている地域がいくつかある。それらの建久によれば、後世の史料に記載される集落がすでに平安時代に同じ場所で姿を現していることが確認されている。つまり、3世紀中ごろの邪馬台国・卑弥呼の時代から700~800年経過した平安時代の末ともなれば、人口は10倍以上に増加しており、今日の字(江戸時代の村)に対応する集落が形成されていたと考えても間違いないようである。

 私の郷里の場合には、上記の駅家の一つであった鶉石が史料に現れる最も早い時期のものであるが、それについで最も早い時期の史料は<溝尾>(みぞお)の例である。それは室町時代の初期、足利義満将軍の時代に建てられた社(若宮)の棟札に描かれている。これを建てた神主家は船田氏(屋号=筑後)であり、この家はおそらく溝尾村の草分的存在であり、その開墾者の一人であったと推定される。すでに室町時代の初期に居住していたことから推定しても、すでに鎌倉時代にはこの地に居住していたと思われる。村内には、このいわば総本家から分家したと思われる家々が存在している(人口減少が進んでいるため、正確には、いたというべきか)。これと同じように早い時期から居住し始めたのが、村内の神明神社の神主家である佐藤氏(屋号=大隅)であり、この総本系からも10数戸の家々が分家によって生まれている。また明治の神社合祀まで白山神社があったが、これは室町時代に当村に居住し始めた日馬治郎右衛門が応永21年にそれまで島道村に同家の守神として鎮座していたものを溝尾に遷座したと伝えられる。村内には、これら船田、佐藤、日馬の他の名字を名乗る家もあるが、これらの家は後の時代に居住し始めたと考えるのが順当であろうと思う。一方では、日馬氏のように室町時代になってから分家に際して溝尾村に居住しはじめたような家もある。しかし、他方、上記の2神主家の祖先が鎌倉時代を超えて平安時代にまでさかのぼって居住していたことを示すような確実な文献史料が残っているわけでもない。

 

 私の知る限り、もう一つかなり早くから存在していたと認められる村(大字)は、槙(まき)である。これは必ずしも史料的根拠をもって言うわけではないが、槙は「牧」(マキ)ではなかったかと思う。というのは、5世紀に日本列島で馬が飼育されるようになってから、全国で、しかしとりわけ東国に馬を飼育する官牧が置かれたことが知られているからである。その中でも特に有名なものが信濃と上野、甲斐などの官牧であるが、これらの地に多くの牧が置かれた理由の一つは、馬の食べる牧草の供給にあったと思われる。つまり、これも簡潔に言えば、黒ボクドと呼ばれる土壌がこれらの土地には多いが、この土壌が牧草の生育にとって最適だったからである。それに加えて、海岸から内陸に深く入った土地では、船による輸送が困難または不可能であり、牛馬による輸送が重要となりつつあったからでもある。そこで、官朴の記載のない越後でも、牧で馬を飼育することは盛んに行われたはずである。生態系的な用語を使えば、原(ハラ)や野(ノ)と呼ばれるような土地では、水利に煩わされることなく、牧が置かれたであろう。新潟県では、旧巻町、牧村(現上越市)などの牧に由来すると想定される地名は多くある。有名なところでは、親鸞上人の妻・恵信の文に、「とひたのまき」という地名が出てくるが、この地名は、本来、「火田の牧」(ひたのまき)であったのが、火が飛字で書かれるに及び、「とびた」と読まれるに至ったものと思われる。事実、その付近は古代に山焼きが行われたと思われる「ひた」地域であり、しかも古代の牧では牧草の育ちをよくするために山焼き(火田)がよく行われていたからである。

 ずいぶんとまわり道をしたが、鶉石駅家には常時馬が置かれていたが、当然、そのための馬は他所で育てられていなければならない。槙は牧だったというのが、私の多分に推測を交えた結論である。

 この槙についても、古くから人が住み着いていたことをうかがわせるもっと確実な史料がないわけではない。

 同字にある耕田寺の古伝によれば、同寺は鎌倉時代の初頭に建てられたとされている。はたしてどこまで信じられるかわかない話であるが、まったくの創作とも思えない。それによれば、後鳥羽天皇の頃、義経が奥州に逃げる途中、静御前が亀若丸を産んだという。これがのちに村田九郎次郎となった。ある日、一艘の船が磯部に流れ着いたが、その船中には弘法大師作の地蔵菩薩と女児が乗せられていた。女子は<ころく>という者に養育させ、村田九郎次郎は一宇を建立して地蔵菩薩を奉置したという。これが耕田寺の始まりであるが、当初は孝伝寺であり、真言宗であったという。(後日談であるが、それから400年後、上杉謙信が没したのち、近隣の門徒たちが押しかけ、浄土真宗への改宗をせまったが、曹洞宗に改めることになったという。よくわからない話ではあるが、真言宗から真宗への改宗はよく聞く話であるが、改宗をせまったという話は他に聞いたことがない。)なお、村田九郎次郎が真言僧になったのか、それとも別の真言僧がやって来たのか、詳しいことはわからない。ともあれ、この伝承から考えれば、すでに鎌倉時代の始まる頃には、槙にも、人々の居住していたことが自ずから知られるであろう。

 その他の集落についても、鎌倉時代あるいは平安時代にまでさかのぼることを示すような史料がないわけではないが、上記のものと大同小異であり、ここでは略すことにする。