郷土史断章 古代・鶉石駅家の立地の「謎」 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 古代日本の律令制国家が全国各地に官道を設置したことは、今ではよく知られている。道幅はかなり広く(おそらく現在日本海沿岸をはしっている国道八号線よりも広い)、かつおよそ16kmごとに駅家(うまや)を置いた。そして、その駅には官吏が使うための馬が普通の駅家で5頭ずつ置かれることが規定されていた。

 越後国では、越中との境川を越えると、滄海(青海)駅家があり、ついで鶉石駅家、名立駅家、水門(直江津)駅家、佐味(犀潟)駅家、・・・と続いたとされている。

 ところで、このうちの鶉石駅家であるが、現在でも糸魚川市(旧能生町)に大字鶉石(江戸時代は鶉石村)があり、その地に駅家があったのであろうと考えられている。

 ところが、地図を見るとわかるように、他の駅家が海岸に近い地点に位置しているのに対して、鶉石は若干海から離れた内陸部に位置している。地図で計測すると、海岸からおよそ2.3kmほど内陸に入った位置にあることがわかる。そこで、これまで様々なことが言われてきた。曰く、何らかの事情で、能生川を渡ることが難しかったのではないか。曰く、古代の北陸道(官道)は、海岸ではなく、山間を通っていたのではないか。曰く、古代には鶉石駅家は海岸の近くにあったが、その後、現在の地点に移動したのではないか。といった具合である。

 しかし、親不知のあたりはともかくとして、起伏の少ない海岸近くに道を通せるのに、果たして起伏の激しい山間を通らなければならなかったであろうか、という疑問が生じる。また古代に海岸近くにあった鶉石駅家が現在の地に移動したという説にしても、いったい何が移動したというのであろうか? 駅家が移動したというのでは、疑問に対する答えにはならず、そこに居住していた人が現在の地に移動したと考えても、地名まで移動できるものだろうか、という疑問が生じる。だが、かといって、現在の能生川の状態を前提とする限り、海岸から遠い地点を渡川点としなければならないほど、水量の多い・深い川ではない。かりに過去の大地震によって土地が隆起したとしても、鶉石あたりの川は、海水面より20mほども高く、それだけの隆起があったとは思えない。もちろん、古代から現在までに海退があったとしても、それほどの海退があったとは思えない。

 そこで、疑問は疑問のままであり、何らかの事情があったのだろうと考えておくしかないようにも思う。

 しかし、もしかしたらというもう一つの可能性がないわけではないかも知れないと思うようになった。それは、川の入江が現在の私たちが想像する以上に内陸に入り込んでいた可能性である。日本の他の土地の事例でも、思った以上に入江が内陸深く入り込んでいた実例はあるようである。もしそうならば、現在は、なだらかになっている谷の両側の山から川にむかってかなりの傾斜があったことになる。別の言い方をすれば、深く抉れていたことになる。

 だが、これは単なる推測であり、妄想にすぎないかもしれない。状況証拠であれ、何かそれを示唆するものはないであろうか?

と思いつつ地図を眺めると、気になる地名がないわけではない。一つは指塩(さしお)という大字があることである。ずっと以前に、ある人の話に「大昔ここまで汐(潮)が来ていた」という話を聞いたこともあるが、ここは海岸から4~5kmも内陸に入っており、まさかと思っていた所でもある。ただ、それだけではなく、その北西辺に柱道と大道寺という地名があり、これは古い時代に広い官道が走っていたために付けられた地名と見えなくもない。しかし、そうすると古代官道(北陸道)は、鶉石から指塩、柱道、大道寺あたりを通って海岸線につづいていたことになるが、このようなことはありうるだろうか?

 それに深く入り込んだ入江は、その後、土砂によって埋もれてしまったことになるが、こちらはどうだろうか?

 確かに古来から洪水は頻発しており、そのたびに土砂が河川を埋めていったことは確かであろう。

 当地に残されている文字史料によれば、その後地元で長く語り継がれた洪水が少なくとも2度はあったことが知られる。一つは、「卯の満水」と呼ばれるものであり、延享4年(1747年)8月19日の大雨の後に同地域を襲った洪水である。記録によれば次のような状態だったという。

 「洪水漲溢して能生谷東西の岸を浸し依って村にては田畑は勿論人家を流され、亦は山崩れの為に家屋を潰され、あまつさへ人馬の即死等前代未聞の危変なり。・・・殊に溝尾村神明川溢れて家数21軒石砂を以て押し潰す。下倉村にても人馬の即死有り.島道村にては新左衛門の後山崩れて助左衛門の妻即死す。亦柵口村始め飛山までは勿論中ノ口村より鷲尾村川原迄は平地に青色たるもの更になし。何ぞ条をつくたがき大雨にて能生谷も東西の山に一時に技崩れたるたる事にて言語に絶したる始末なり。」

 これに関連して祖父から聞いた話では、私の生家から数十メートル離れた所にも家があったが、この時の洪水で土砂の下になり、その後、そのあたりに出来た池をのぞき込むと、埋もれた家の屋根が池の底に見えたという。これは明治になってからの話であり、その通りならば、江戸時代中期の農家が今もそこに埋もれたままになっているはずである。

 ともあれ、この時の大洪水で、それまでかなり平坦だった村内に高所が生まれ、その高低差は、上に紹介した埋もれた百姓家の件から推定しても、一度の洪水によって高さ10メートル以上に達する土砂が堆積したのではないかと想像される。

 

 もとより、この洪水が最初で最後のものであったわけではない。史料に書き残されているところでは、応永元年(1394年)というから、室町時代の初期にまで遡るが、この年5月にも大洪水があったという。船田神主家の祖先の一人・船田筑後正の藤原義忠の書いた「岩崎大明神縁起」には、次のように記されている。

 「応永元年5月11日早天より大洪水にて鶉石郷満。水若宮権現内欠落流れ殊に初開峯山嵜へ川打付山崩落流失民家多く流る。此日夜半の頃大地鳴動して初開峯山嵜抜落、如大山なる。大岩頭出て堰となり、大水悉く東の方閉妨遣利村方の老若男女漸安堵の思ひを成す。・・・・」

 これより前の時代にも大洪水があったはずであるが、おそらくごく普通の小さい大字で、室町時代の文書が出てくるだけでも稀なことと考えなければならない。

 

 大洪水のことはともかくとして、ここに記した事、特に入江が内陸深く入り込んでいたため、海岸付近では渡川できなかった(というより川ではなく、入江だった)可能性については、あくまで私の推測にすぎない。しかし、一つの可能性としては充分にありうるのではないかと思う。これを確認するためには、川とその周辺を掘り返すボーリング調査を実施しなければならないであろうが、もちろんそのような事が行われることはまずあり得ない。