私の郷里・旧越後国頸城郡能生は、特記されるような歴史的事件もない・ごく普通の田舎にすぎないが、昔から気になっていることがあるので、それについて書いて見たい。それは飛山(ひやま)という大字のあることである。
飛山は、能生川の上流にあり、日本海に注ぐ河口からは10数キロメートルにあり、川の流域に点在する村落の中では最上流に位置している。田圃があるのもこの集落の周辺までであり、そこから上流には集落や田圃を営むほどの平地はない。
飛山という地名はすぐ近くにもう一つあり、こちらは能生川の隣りの谷筋を流れる名立川の最上流に位置している。二つの飛山を区別するために、能生川の最上流の飛山は西飛山といい、名立川の最上流の飛山は東飛山という。両者は地図上では隣接しているが、相互に往来出来るような道があるかどうかは知らない。江戸時代には、これらの字は「村」であり、それぞれ西飛山村、東飛山村であった。
さて、これらの「ひやま」であるが、漢字の「飛」字で表記されているために、そこから連想される山崩れなどを連想することもできるかもしれないが、私はかなり前から「火」(ひ)ではなかったかと思っている。つまり、焼畑のための山焼きが行われていたことから付けられた地名ではないかと思っている。
このように焼畑や山焼きから生まれた地名と思われるものは、全国に見られる。有名なところでは、かつて肥(ひ)の国と呼ばれており、風土記にも登場する肥前・肥後があり、豊後(大分県)には日田(ひた)があり、また飛騨(ひだ)も焼畑・山焼きの「火」に関連していたと考えられている。
山焼きを行う理由は、必ずしも一つではなかったようであり、古くはヨーロッパやロシアでも、焼畑は土壌に植物を育てるのに必要な養分を与えるために行われていた。新潟県の最北部では、カブを育てるために山焼きを今でも行っているという話は、同地出身の学生からも聞いたことがある。また山焼きの後に牧草がよく育つこともあり、消毒効果もあるので、牛や馬の放牧を行うところでは、よく行われていたという。そういえば、中学生の頃に西飛山からさらに上手の山中に遠足にいったことがあるが、牛や馬が放牧されていたのを見たことがあった。当時はまだ山中に放牧地があったわけである。また、これは必ずしも実証されている話ではないかもしれないが、蕨や薇などの山菜が山焼きの後ではよく育つという。
西飛山が開拓されたのは、文字史料によれば、せいぜい室町時代のことらしい。「能生資料」の飛山の部に記されているところでは、楠氏の一族・日馬(くさま)太郞左衛門が能生川を遡って飛山に至り、開墾したという。この人の子孫の家は、「谷地」(やち)と呼ばれ、少なくとも私の若い頃にはあったが、いまも同家があるかどうかは定かではない。別の文書によれば、この人は、詮光という人の長男であり、成光という名であり、旭間(日馬とも草間とも書く)太郞左衛門を名乗り、「飛山に隠居」と記されている。また大字島道にあったお寺(礼信寺)の文書によると、成光は左衛門尉幸慶(出家して祐玄という)という人の長男であり、飛山開拓後に弟の祐慶に家督(礼信寺?)を譲ったと言う。系譜に若干の異同があるが、ともかく、これは寛正年間の頃という。つまり、1460~1466年の頃だから、室町時代のことであり、いわゆる応仁の乱の起こる直前の頃の話である。
それから200年後に行われた天和の検地では、約20戸が数えられているから、戸数はやく50年に2倍になるほどの割合で増えていったことになる。
私がちょっと気になるのは、以上の飛山開拓史のページにもあるが、それだけでなく、ある口碑伝説にある。これは、開祖の日馬太郞左衛門が能生川を遡りながら釣りをしていると、ミヤウジ川が能生川へ流れ注ぐところにシャモジが引っ掛かっていたので、この谷川に沿って飛山に至り永住の地と定めたという、話である。
民俗学者の宮本常一氏(『山に生きる人びと』)によると、このようにシャモジ(また椀や箸)が流れて来たので、その常瓜生に人が住んでいるにちがいないと考えて、さらに遡上し、永住の開拓地とするといった伝承は、ほかにも西日本のいくつかの地で行われているという。
だが、よく考えて見ると、不思議と言えば不思議な伝承である。すでに上流に人がいたのであれば、それはどんな人であろうか? 開拓して草分になろうとする人ならが、まだ人のいない未開拓地を探すのが道理というものではないか? ところが、これに対して、宮本氏は、シャモジを流した主は、焼畑農耕または山焼きを行ってはいたが、水田稲作には従事していなかった人、つまり縄文時代から狩猟採集の他に焼畑を行ってた日本列島古来の人々ではなかったかという意見を提示する。
いうまでもなく、これは日本民俗学の祖ともいうべき柳田国男の「山人」の思想である。彼は、当時、ようやく明らかになりつつあった日本人の形成論に注意を注ぐとともに、日本の先住者たる縄文人と、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経て日本列島に渡来した人々の交雑が生じ、現在の日本人のプロト型ともいうべきものが成立したことに大いに興味をいだいていた。しかも、彼はこの交雑が基本的には既に終了してはいるものの、いまだに完全には完結しておらず、まだ完全には交雑しきれていない先住縄文人の子孫たちが何らかの形で残っているのではないかと考えるに到っていた。柳田は、後期になると、この初期の思想から離れ(完全に捨て去ったかどうかは不明だが)、主に自らの関心を南の島々に寄せるに到った。が、宮本は、それを捨てきれなかったということになる。
室町時代とえば、以前の編年観では、九州で弥生時代がはじまってから二千年ほど、東日本では千年と何百年か経過した時代であり、長いといえば長いが、完全な交雑の時期としては必ずしも長いとは言えないようにも思われる。