6世紀の百済・新羅・伽耶と倭国 史実と日本書紀の筆法 | 書と歴史のページ プラス地誌

書と歴史のページ プラス地誌

私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 5世紀に続いて6世紀の朝鮮半島関連記事についても、日本書紀の記載が奇妙で不可思議な文章で満たされていることには変わりないといってよい。

 できるだけ簡潔に言うと、6世紀初頭の朝鮮半島には、百済と新羅という統一国家の地のほかに、まだ統一するに至っていない伽耶諸国の地があった。ただし、伽耶の地では、クニグニの連合が現れており、北の大伽耶連合、そして南の金官国を中心とする連合があったという意見が説得的に思われる。

 ところが、6世紀に入り、北から大伽耶連合(ハヘ国)が南の金官国に進出しようとする出来事があり、西からは百済が進出し、さらに東から新羅が進出して、最終的には6世紀半ばに旧加羅地域は新羅領に編入されることになった。この新羅に編入された旧加羅地域の出身者、金ユシンが新羅による朝鮮半島の統一に大きく貢献することになったことは、韓流ドラマでも描かれており、日本でも広く知られるようになったようである。

 ところで、こうした歴史の動きに対して倭国は、どのようにかかわったのであろうか? あらかじめ結論的に言っておけば、倭国が何もかかわるところがなかったということはできない。とはいえ、倭国が朝鮮半島に対する直轄支配領を有していたとか、強力な政治的利権を有していたということはできない。ただ、上記の朝鮮半島の三地域(百済、新羅、伽耶)プラス高句麗が相互に対立しながらも、時には当面のライバルに対して合従連合したり、敵対したりすることがしばしばあり、海を隔てた倭国に対しても合従・通好を求めてくることもしばしばであった。そして、その際、百済や新羅が「調」(みつき)をもたらす代わりに、それに伴う「見返り」を求めたことは当然であった。通好・合従というのは、決して一方的な従属・朝貢関係ではなく、「見返り」を求める。日本書紀では、「調」(みつき)を倭国に対する一方的な従属のように記述されているが、実際には「見返り」を要求してきているにすぎない。したがって十分な「見返り」を期待できない場合には、「調」を停止するのが当然であり、また「見返り」を提供したくない場合には、「調」を受け入れない。所詮は、それだけの関係である。では、その「見返り」とは何か? 説明するまでもなく、兵士、より正確に言えば「傭兵」である。これらの兵士が朝鮮半島の地では、統治国の送った軍団として機能するのではなく、百済や新羅の軍内でその指揮下に入るのがオチであった。

 ところが、日本書紀の筆法では、「調」は朝鮮半島諸国の倭国に対する従属関係を示すものとして描かれ、送り込んだ兵士は倭王の命令下にあったものとして描かれる。こうして日本書紀の読者は、研究者も含めて、まんまとその筆写に騙されることになったわけである。

 

 というわけで、6世紀初頭の継体紀の時代に入っても、不可思議な朝鮮半島記事は続く。

 継体紀6年条

 (a) 百済が使いを送り、調を奉り、、また上表して上咃唎・下咃唎・沙陀・牟婁の4県を願った。咃唎の国守(押山)が奏上し、百済に与えるべき理由をあれこれ述べた。(b) 物部大連アラカイを勅使として百済の使に伝えようとしたとき、その妻が神功・応神に遡る由来を述べ反対した。また病気にかこつけて伝えないように諫めた。そこで別人に勅を伝えさせ、百済に4県割譲を伝えた。(c) 安閑(当時は大兄皇子)があとになってそのことを知った。驚き、改めるように令を出し、日鷹吉士を遣り、百済の使に伝えた。しかし、百済の使は、一度賜った勅に背いてよいのかとも、天皇の命のほうが思いとも言い、百済に帰った。

 7年条。(d) 百済は、2人の将軍を遣わし、押山に副えて,五経博士を奉った。また奏上して、「伴足皮(ハヘ)国が私の国(どこの国か?)の己汶の領土を奪いました。どうか元の通りにして欲しい」と言った。

 (e)朝廷に百済の姐弥文貴将軍が新羅人・安羅人2人・伴足皮の2人を召し連れてきて、詔を賜り、己沙・滞沙を百済に賜った。また伴足皮国が使者を送り、己汶の地を乞うたが、賜わらなかった。

 10年条。(f)百済は、物部連を己汶に迎えてねぎらい、(百済)国に入った。群臣たちが丁寧に慰問した。(g)百済は、将軍を遣わして物部連に従わせて来朝し、己汶の地のことを感謝した。

 

 この記事は、他の記事に比べると理解しやすいかもしれない。しかし、(b)(c)の記事は、くどくどしい割に内容がなく、結局、反対意見があったにもかかわらず、4県が百済に与えられたという内容に変わりはない。しかも、私の前の記事で書いたように、倭国には上記の4県を他の国に与えるための前提条件がない(倭国がそこを支配していたわけではない)。

 (d)は、内容的には新しいが、伴足皮(ハヘ)、つまり北の大伽耶が南の金官国の己汶の地を奪ったことに対して、元状回復(つまり金官国内の独立の地に戻す)ことの意味が不明である。私の国とあるが、どこの国に戻すのか? まさか倭国ではないだろうが、それなら金官国か、それとも独立の地か? 続く(e)はもっと奇妙である。倭国の朝廷は、己沙と滞沙をなんと百済に与えたという。いったい何の理由があって百済に与えたのか? 何の理由説明らしきものもない。

 

 しかし、魔訶不可思議な記事ではあるが、史実を前提として考えれば、奇妙、不思議なことは何もない。

 要するに、北の大伽耶も南の金官国も当時はまだ加羅諸国内の連合はあったとしても、独立のクニだった。ところが、まず北の大伽耶が南の己汶に進出し、その時に、百済が進出して自己の勢力圏に組み込んだのである。倭国はそれに関与していたとしても、上記の「調」と「見返り」(傭兵の提供)の関係としてであったことは確かである。

 ところが、日本書紀の筆法にかかると、あたかも倭国が百済に己汶の地を与えたかに描かれる。おそらく物部連は、そのような見返り(兵士の提供)のお礼をうけたことであろう。これが日本書紀を読んだときに受ける違和感・もやもや・奇妙さ・<余計な話がいりくんでいて筋がわからない感>の理由である。要は、倭国が朝鮮半島に政治的権利を持っていたことを示そうとして、百済三書の記事をつぎはぎして生まれたのが、日本書紀の朝鮮半島関係の記述である。このように読めば、謎は解ける!

 

 同じことは、もっとのちの話にもあてはまる。6世紀中葉、百済が進出した伽耶諸国は新羅の進出するところとなり、その領土に組み込まれる。その時にいわゆる「任那復興会議」が百済の一大プロジェクトとなるが、それはあくまで百済のプロジェクトであり、それを超えるものではない。もとより、倭国も百済の要請に応じて将軍・兵士、吏使を送り込むことはあったであろうが、それ以上でも以下でもなかっただろう。

 もっとのち、7世紀後半には、倭国(途中から日本国)は、百済と連合して、唐・新羅連合軍と戦うことになり、そして大敗する。その時も百済との連合であり、それ以上でも以下でもないことは言うまでもない。