5世紀以前の時期に関する日本書紀の朝鮮半島関係記事の「不可思議」 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

  日本書紀の中には、倭国内の出来事にとどまらず、主に朝鮮半島を中心とする外国に関する記事が書かれている。したがって日本を読めば、当然、それらの記事をも読むことになる。

 ところが、である。倭国の国内関係の記事は、その内容の真偽は別として、文章の意は通っており、すんなり理解できる。これに対して、記事が朝鮮半島に関する箇所に移ると、状況が急変する。というのは、ストーリーが急に複雑になり、筋がはっきりしなくなる。倭国・朝廷の政策にかかわることについて述べるかと思えば、急に百済に跳び、任那に跳び、新羅に跳び、しかも、大筋に係わりのない「逸話」が挿入される。私の頭は朦朧としてきて、急に読む気が失われてくる。史実か否かは別として、とにかく話の筋をつかもうとして、ノートにメモを取り、頭の中を整理しようとすることもある。しかし、整理すればするほど、そこに書かれている事柄相互の関係が朦朧としてきて、余計に分からなくなることが多い(多すぎる)。これは一体いかなる事情によるものであろうか? 答は一つしかないと思うが、これは結論にまわそう。

 その前に一例を示しておこう。神功紀46年条~49年条の一連の記事である。

 46年条。(倭王が)斯摩スクネを卓淳国(伽耶国の一つ)に送った。卓淳国の王が言うには、<百済の人・久氐らがやってきて、「東方に貴国(日本のこと)があることを聞き、われわれを派遣した、道を教えていただきたい」と言った。そこで「交通が開けていないので、分からないが、大船がないと行けない」と答える。そこで久氐らは「一度帰って船を用意します。もし貴国から使いがあったら、知らせて欲しい」と言う。>このように聞いた斯摩スクネは、従者を百済の肖古王に使わした。

 *この条の前に、43年条として「正始4年(西暦266年)の倭国女王の晋への遣使」のことが書かれているので、日本書紀紀年では266年の出来事となるが、百済・肖古王が登場するので、それより2運(120年)繰り下げ、西暦386年頃のこととするのがかつての通説であった(ただし、三国史記では(近)肖古王はすでに没しており、辰斯王にかわっている)。しかし、時期のことを除けば、内容は理解できる。

 47年条。(a)翌年、百済王が久氐らを遣わし、朝貢してきた。(b) その時、新羅の調の使が一緒にやって来た。神功と応神(当時は太子)が喜んだ。(c) 二国の貢物を調べたところ、新羅のものには珍物が多く、百済のものは劣っていた。百済の久氐にその理由を尋ねると、「道に迷って新羅に入ってしまったとき、新羅人が私たちを捕らえ、貢物を取り替えてしまいました」と言う。(d) 神功と応神は、新羅の使いを責めるとともに、天神に神意を問うと、千熊長彦を新羅に送り、調べさせるとよいという教えを得た。

 49年条。(e)荒田別と鹿我別を将軍として兵を整え、卓淳国に到った。その時、ある人が「沙白・蓋盧を送り増兵を請え」というので、木羅近資とササノコに命じて沙白・蓋盧と一緒に派遣した。ともに卓淳国にいたり、新羅を破った。(f) そして比自火・南加羅・トク国・安羅・多羅・卓淳・加羅の7ヶ国を平定した。兵を移して西方古奚津に至り、耽羅を滅ぼし百済に与えた。(g) 百済王の肖古と皇子・貴須が兵を率いてやって来た。比利・ヘ中・布弥支・半古の4邑が自然に降伏した。(h) こうして百済王父子、荒田別、木羅近資は一緒になり、喜んだ。千熊長彦と百済王は百済国に行き、ヘ岐山、古沙山にのぼって磐の上で誓いをたてた。百済王は言った。「磐の上で誓ったのだから、千秋万歳に絶えることはない。春秋に朝貢しよう。」

 

 何とも不可思議な記事というしかない。

 ストーリーの発端は、百済が倭国にはじめて朝貢してきたとき、新羅が百済の朝貢品をちょろまかしたという出来事という。ところが、倭国の神功と応神は、神意を問い、兵卒を新羅に送る。だが、派遣された軍はすぐには新羅を攻めず、援軍を頼む。援軍の依頼先はなぜか明記されていないが、文脈からすれば百済の軍である。そして卓淳国から攻撃に移る。ところが、物語の中心になるはずの新羅については、「新羅を破った」というだけで、具体的な戦果は完全にスルー。さらに不思議なのは、(f)と(g)の段である。なぜか、新羅ではなく、加羅諸国(7ケ国)を平定し、西方は古奚津に至り、耽羅を滅ぼし、おまけに百済に与えたという。その上、百済の肖古王と皇子・貴須が兵を率いてやってきたら、比利など4邑が自然に降伏した、という。これでは、新羅討伐ではなく、加羅討伐ではないか? しかも、平定された7ケ国の中には、倭国に朝貢しはじめたばかりの友好国・卓淳国まで含まれている。

 

 このような不可思議で、奇妙奇天烈なストーリーが出来上がってきた背景は、実は、今ではよくわかっている。

 日本書紀の編者たちは、けっして机上でフィクションを創作したわけではない。もしフィクションだったならば、もっとすっきりした面白い物語を作り上げることができたであろう。そうではなく、彼らには依拠した史料があった。それは日本書紀の記述が明らかにしているように、『百済記』や『百済本紀』『百済新撰』の百済三書である。これらの史料は、5世紀以降に倭国に渡来した人々(とその子孫)が書き表したものであり、確かに事実無根のものではないと思われる。しかし、彼らの記憶があいまいとなっていたことも考えられるが、それ以上に、倭国における自分や自分の一族の地位のために、恣意的に改変した部分があったことを考えなければならない。それに加えて、日本書紀の編者は、日本が古来から朝鮮半島を政治的に支配する歴史的淵源があるというイデオロギーにもとづいて編纂を行なっていたことが明らかだからである。彼らは、フィクションとして創作したのではないとしても、そのイデオロギーを史書によって確立するために、様々な記述を混ぜ合わせ、連続する出来事を二つの時代に分けたり、様々な操作を加えた跡がうかがえる。

 上記の神功紀47年条~49年条でも、あまり表にださずに百済軍の関与を挿入しているが、それが日本書紀編集者の歴史家としてのせめてもの<良心>というものであったかもしれない。

 

 かつて、戦後私たちが学校で日本史を学んだときでさえ、日本が古代に朝鮮半島に「任那」なる殖民地を有しており、それを経営していたといった歴史が教えられていたように記憶しているが、70年代以降の文献批判によって、そのような理解はしだいに姿を消してきている。

 文献批判・史料批判、そして健全な常識と良識が必要な所以である。