日本書紀の紀年と神功紀~継体紀の朝鮮関係記事 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 木満致(または木刕満致)が蘇我満智と同じ人物ではないかという仮説について書いているが、それに関連して日本書紀の朝鮮関係の記事が問題となり、また書紀紀年も問題となるので、それに触れておきたい。といっても、繰り返し述べているように、これらについては素人なので、何か新しい確定的な事を言うことができないことは言うまでもない。とはいえ、いくつかの重要な点には触れられるのではないかと思う。

 

 日本書紀の紀年が古い時代に遡れば遡るほど、実際より時間(年)が延長されていることはよく知られている。そこで、書紀の紀年を実際の年代に相応しいものに訂正するには、記事の中に確実な史実と思われるものを見つけ出し、それを定点にして修正することが行われてきた。

 よく知られているのは、神功紀の中に<景初3年の女王・卑弥呼の魏への遣使>、<泰初4年の女王・トヨの遣使>が記されていることである。史実としては、それぞれ239年、266年のこととされている。ところが、日本書紀の紀年上でも、それは239年と266年に対応している。つまり、日本書紀の修史局は、魏志倭人伝を読んでおり、その実年代も把握していて、書紀の紀年に当てはめたことが確実である。

 しかし、だからといって、他の年代もそのまま信頼できるとは言えないことは勿論である。例えば日本書紀には、朝鮮の史書『三国史記』に記されている百済などの王の名前が記されているが、それらの王が日本書紀に登場する記事の書紀紀年はまったくずれている。が、『三国史記』中の(近)肖古王と時代とは、ちょうど120年(つまり十干十二支の2運)だけずれていることが知られる。そこで、例えば神功紀や応神紀の記述は、120年ほど繰り下げることによって実年代になるのではないかと想定される。例えば、神功55年(書紀紀年=255年)の記事は、実際には375年頃の事を書いたのではないかと考えられることになる。日本書紀ではこの年に百済の(近)肖古王が没していると書かれているが、これは『三国史記』375年に(近)肖古王が没したという記述にぴったり符合する。また百済から贈られたとされている石上神宮の「七支刀」には「泰和4年・・・為倭王旨造」の銘が入っているが、この年は369年であり、また『三国史記』の372年に百済王が倭王に贈ったという記事とも符合する。

 しかし半ば通説化しているこの仮説にも疑問がある。というのは、他のいくつかの点で符合しないことがあるからである。

 その一つは、雄略紀20年(西暦475年頃)、高句麗が百済を攻撃し、その中で百済の蓋鹵王が死に、その後に文周王となる子を擁して木満致(木刕満致とも書かれる)が「南行」したことにかかわる。この木満致の親は、百済の将軍・木羅斤資であるが、この斤資が日本書紀ではなんと神功紀49年(書紀紀年=249年、訂正369年)に登場するのである。いくら何でも親が100年も前の人物というのはおかしい。その上、日本書紀が引く『百済記』の「壬午」の年(442年に相当!)に木刕斤資が登場し、さらに応神紀25年(書紀紀年245年、訂正365年)にはその子・木満致が登場する。木満致は百済の国政を牛耳っていたいとされている。

 この時期配列の奇妙なちぐはぐは、かつて平野氏が提起し、山尾久幸氏も提案しているように、120年繰り下げる通説を修正し、さらに60年を繰り下げることによってしか、解消されない。しかも、この操作によって、目から鱗が落ちるように、事態をすっきり理解できるようになるのである。つまり、

 

 木羅斤資  神功紀49年(249年、訂正369年) ⇒ 再訂正    429年  ×近肖古王の時代 ⇒ 〇毗有王の時代

                         『百済記』壬午(442年)

 木満致   応神紀25年(294年、訂正414年) ⇒ 再訂正    474年  ×腆支王の時代  ⇒ 〇蓋鹵王の時代

       『三国史記』                    475年  高句麗の百済攻撃により蓋鹵王死

                       (木満致は、文周を擁して南行。倭国と行き来する。)

 

 これはいろいろな点で符合するところが多い。というのは、4世紀には百済は高句麗とせっぱくした敵対関係になく、むしろ両者は(ある思惑からだが)融和していたことが明らかである。そして、5世紀の後半に入り、高句麗はさかんに百済を軍事的攻撃対象にする。もともと応神紀25年(474年に訂正)の記事は、翌年の百済王戦死の記事と一つながりのものであったらしいのである。それを何か別の修史上の目的があって、無理に4世紀後半にもってゆき、百済の王名も変えたらしい。

 ともかく、この時、百済は高句麗に対抗する目的から倭国の王に接近したと思われる。当時の倭国王とは誰か? 言わずと知れた、宋に接近していた「倭の5王」の武である。この日本書紀では雄略に相当するとされている大王は、百済の要請に応えたらしい。それは順帝の昇明二年(478年)宋に送った上表文に示されている。

 「渡りて北のかた95国を平ぐ。・・・百済をよぎり船舫を装治す。・・・而るに句麗は無道にして、見呑を図り欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。」

 彼が自称したとされる「使持節・都督倭百済・・・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」の爵号は単なる称号にとどまらない意味を持っていたはずである。

 

 それにしても、日本書紀の修史局は、このように紀年をまげ、また対応する朝鮮半島の諸王の名前を変え、史実を変えてまでも、こだわる事情があったのだろうか? もちろんあったに違いない。ここでは詳細は他日を期すこととするが、それは倭国(7世紀後半のある時期からは日本国)が朝鮮半島に早くから統治の根拠・理由を持っていたことを示したかったに違いない。蘇我氏滅亡後の中大兄(のちの天智)や鎌足ら当時の国政担当者の国際情勢の見誤りと不適切な対応によって、日本は7世紀末にかつてない危機を迎えることになるが、それに対する対処の一貫だったと見るのが穏当であろう。もっとも百済や高句麗が政変によって政権の統一を打ち建てたにもかかわらず、結局のところ滅亡したのに対して、日本はそれを逃れることができた。それには、海によって遠く隔てられていたことの他に、唐の周辺地域の反乱によって唐の日本討伐計画が実施されなかったことが大きく作用したようだが、結局、唐からの侵攻がなかったことを知っている我々と異なり、外的危機を感じざるを得なかった当時の人々には、状況はまったく異なって見えたのだろう。