蘇我氏の史実 系譜・出自など 2 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 蘇我氏の祖とされる満智(前回は満致と書いてしまいましたが、正しくは「智」でした)が百済の木刕満致(または木満致などと表記される)と同一人物だったのではないかという考えを紹介しましたが、これをめぐっては賛成の意見もあれば、否定的・批判的な意見があることは言うまでもありません。ただ、ここではあまりに簡単に否定する向きもあるので、少し天邪鬼的な気分で、木刕満致=満智説の可能性を追求してみたいと思います。

 前回も述べたように、満智=満致説を唱えた歴史家として門脇禎二氏があげられますが、彼一人ではなく、外にもたなかしげひさ氏、黒岩重吾氏(作家)、鈴木靖民氏などの人々がいます。また山尾幸久氏は、満智=満致説を明示的に唱えているわけではありませんが、満致が当時(多分雄略時代)の日本(倭国)で対朝鮮政策の中心にあって活躍した人物であることを説得的に明らかにしています。ここでは主に門脇氏と鈴木氏の立論に立脚する形で、紹介を続けてゆきたいと思います。

 

 さて、前回は、『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(475年)の記事が満致を語る際に決定的であり、それより180年前の事として、つまり近肖古王時代の事として記述されている日本書紀の記事は、十干十二支を3運(180年)繰り下げる必要があるという見方(山尾氏、平野氏)に立ち、それらすべてが475年前後の出来事として整理できることを示し、その場合、まさに木(刕)満致が満智その人である蓋然性がきわめて高いことを示しました。いずれにせよ、木刕満致が当時の倭国の中心地、つまり奈良盆地またはその近隣(近畿)にいて、対外政策の中心にいたことはほぼ間違いないと断定できると思います。

 そこで、次に蘇我氏の系譜について、何か確実に言えることはないかを考えることにしたいと思います。

 

 まず、もう一度よく知られている蘇我氏の系譜を挙げてみます。満智ー韓子ー高麗ー稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿。よく知られている系図です。しかし、日本書紀を読めばすぐに分かることですが、稲目に至るまでの代がいわゆる縦系図であり、しかも男性の名前が連なっているだけです。言うまでもありませんが、これは簡略化した系図ではあっても、現実の系譜ではありません。そもそも男だけでは子を設けることができないことは言うまでもなく、現実の系譜は上に向かっても、下に向かっても、横に向かっても複雑に広がっています。もちろん、そんなことは誰でも知っています。しかし、知っていながら、史料に描かれている縦系図のようなものを見ていると、それが現実に見えてくるのではないでしょうか? これは一種の職業病です。

 私なども wikipedia などで古代天皇家の系譜を見ていると、複雑で頭がクラクラしてきますが、現実の系譜はもっと複雑です。試しに、私(ego)から遡及する系譜、下降する系譜の簡単なモデル図を図示してみます。かりに祖先に重複がないとした場合、祖先の数は倍倍と増えてゆき、4代遡るだけで16人になります。下降する場合、子の数が違うので、一般化は難しいのですが、かりに2人(一男一女)とすると、三代目(曾孫)は8人になります。さらに、これに姻族が加わり、その血族が加わってきます。それらを総合した系図は、あまりに複雑になりすぎ、一つの図に表すことなどは到底不可能です。

 その上、古代の豪族・首長層は、多くの場合、複数の配偶者を持っていました。継体天皇の場合には、たしか皇后・妃合わせて8人ほどいたかと思います。その子たちは何人いたのか、数えるのもいやになるほどです。もとより、これらを一つの系図に示すことは不可能です。しかし、系図に示すことはできなくても、実際の歴史上の系譜は実在物です。

 

 私が言いたいのは、実際の系譜関係ははるかに複雑で、ある歴史的人物がいたら、その親族関係は上下と横に複雑に広がっていたということです。そして、日本書紀などに記されるのは、そのほんの一握りに過ぎないということです。社会人類学では、ある一定の領域の社会内部で内婚(endogamy)が行われる場合、当該社会は、遠近の親族関係で結ばれた血縁的氏族のような様相を示すとされていますが、これは当然日本の古代社会にも当然ながら当てはまります。しかも、日本は双系制の社会(朝鮮半島もしかり)であり、婿が嫁のもとに訪れる訪婚が行われていたとされています。たしかに、国(国家=政治的社会)が形成されるとともに、男性が政治の前面に出てくる傾向が強まったことは否定できないでしょう。しかし、それは女性(妻、母)側の親族が意味を持たなかったというわけではありません。実際、私たちは、蘇我稲目が娘たちを将来の天皇に嫁がせることによって外戚となり、強大な力を得たと教えられてきました。もしそれが事実ならば、同じことは蘇我氏にも当てはまるといわなければなりません。

 

 ということで、もし木刕満致が畿内で朝鮮半島を中心とする外交を軸に絶大な政治力を行使していたとするならば、まず河内に、そして奈良盆地の高市郡に満致の渡来と同じ6世紀中ごろから多数居住するようになっていた朝鮮系渡来人たちと密接な関係を築いたに違いありません。西漢氏(河内居住の百済・加羅系渡来人)、東漢氏(大和、特に高市郡居住の渡来人)、秦氏(京都盆地居住)との密接な関係、また当時すでに往時の力を失っていたとはいえ、いまだに勢力を維持していた葛城氏(これも一家族ではなく、葛城郡を本拠地とする諸勢力の集合体です)とも同様な密接な関係を築いていったに違いありません。関係構築の一つの方法は何らかの事業の協働によるものであり、また別の方法は姻戚関係の構築によるものです。

 

 たしかにこれは憶測にすぎません。しかし、<満智ー韓子ー高麗ー稲目>というようなひからびた骨のような抽象的な系図に比べれば、はるかに生き生きとした系譜に近いとも言えます。しかも、日本書紀の記述の中には、それらの痕跡、とりわけ姻族関係の構築によるものを指し示すものがあるように見えます。

 その場合、焦点は蘇我稲目にあったと考えられます。しばしば人は、蘇我稲目宿祢が大臣になり、また姻族関係を通じて天皇の外戚になったから強大な権力を得たと言います。たしかにそれは事実でしょう。しかし、その前に大臣になり、天皇の外戚になることができたのはどうしてでしょうか? そのための何らかのステップがあったに違いありません。その痕跡は見つけられるでしょうか? 満智=満致説を否定する人は、その説明をほぼ放棄しているように見えてしようがありません。  (続く)