橋本増吉と内藤湖南の地名比定を批判する | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 魏志倭人伝に記載されている30のクニグニと狗奴国については、それが日本列島内のどの地域にあたるのか、古来、様々な地名比定が行われてきた。そのうちでも、九州説に立つ橋本増吉の地名比定と、大和国説に立つ内藤湖南の地名比定がよく知られていよう。この地名比定は、邪馬台国、すなわち女王・卑弥呼の王都がどこにあったかを知る上でも、かなり重要な問題だったことは言うまでもないが、研究史上、あまり重要性を認められていないようにも見える。私は、その理由の少なくとも一つが両者による地名比定がはらむ問題性にあったと考えている。そこでここにあげた両人の比定を少し詳しく検討しておきたい。

 このような地名比定を行うには、いくつかの基準または前提条件をよく検討しておくことが必要であるように思われるが、そうした条件については、両者の比定を批判・検討しながら、示してゆくこととする。

 

1 どのような地名表を用いるか? 郷名の問題性(基準1)

 多くの地名研究者が指摘してきたように、地名というものは、人々の記憶の中に長らく存在しつづけるものらしい。実際、飛鳥時代に知られていた地名の多くが今日でも記憶され、実際に使われてもいる。しかし、それと同時に新しい地名が時代とともに生まれてきていることも事実であり、きわめて短い歴史の地名もある。また小地名が大地名に発展してゆく歴史もあれば、忘れ去られて行く地名もある。

 さて、両者の地名比定を見てまず気づくのは、その中に相当数の郷が含まれていることである。

 ところが、ここで魏志倭人伝の時代(180年~247年?)に後(飛鳥時代)の郷名が存在したであろうかという疑問がわく。

 たしかに里(郷)名は、飛鳥時代に評(郡)とならんで使われていたことは確かであるが、西暦200年頃に果たして存在していただろうか? 周知の通り、里(のち郷)は、おおむね1,000人ほどの人口から構成されていたとされている。戸数からすると、50戸ほどであるが、その場合の「戸」というのは、人為的にいくつかの家族(または世帯)を合わせて一つの戸に編成した形跡があり、普通にイメージする家族の数から言えば、一家族(戸)=5人として、200家族(戸)ほどになるかもしれない。ただし、当時の一つの里(郷)は、平均して3つほどの小集落から成り立っていたので、一集落は60~70家族(戸)ほどとなる。これは江戸時代の「村」(明治時代の大字)ほどの規模である。

 しかも、これは飛鳥時代の状態であり、西暦200年頃には、飛鳥時代の郷を構成する集落のもととなる集落は、存在していたとしても、もっと小規模であったに違いない。いま妥当と思われる人口推計にしたがって、200年から飛鳥時代にかけて人口が数倍に増えたとするならば、一集落の規模は、10戸ほどとなる。

 要するに、こうした人口規模は、魏志倭人伝に記載されるクニグニのものとしては、あまりに小規模であり、そうした小地名が国名に使われていたとは到底考えられないといわざるを得ない。

 実際、倭人伝の最初に紹介される対馬国から不弥国までのクニグニの戸数は千戸から2万戸を数えており、かつそれらのクニグニの名称も疑いなく飛鳥時代にあったことが確実な国郡名から説明できるのであり、そこには郷名などの<小地名>は一つも含まれていない。

 

 ところが、私には信じられないことだた、橋本・内藤両氏の比定には、きわめて多くの郷名(そしてそれ以外の小地名らしきもの)が含まれているのである。

 このように郷名を比定表に取り入れなかった理由は明白であろう。まず橋本氏の場合には、29ヶ国(重複が疑われる奴を除いた数字)をすべて筑紫国と肥国の2ヶ国(後には4ヶ国)に求めていた。しかし、彼は対馬国~奴国が例外なく島(国)名と郡名に対応しているのに、外の24ヶ国の所在地については3ヶ国を除いて国または郡の中に見いだすことができなかった。そこでやむなく、郷名にまで手を伸ばさざるを得なかったのであろう。郷数は、郡のおよそ10倍ほどもあり、その中には類似音の郷がなんとか見いだされたからである。(しかし、それとて怪しいものが相当するあるが、この点は省く。)この橋本氏の場合、比定地とされる郷は11例にのぼっている。これを<不可>と判定すると、残りは13ヶ国となる。

 

 一方、内藤氏の場合には、郷名および神社名など国郡以外の地名がなんと15例に達している。29ヶ国から一般的に認められている上記5ヶ国の比定地(対馬国~奴国)を除く24ヶ国のうち、これだけの比定が怪しいのである。これを<不可>と判定すると、残るのは9ヶ国となる。しかし、近畿説に立つ内藤氏の場合、比定表に含まれる国郡の数はかなり多くなり、かなり容易く妥当な国郡を見つけられそうだが、郷にまで手を伸ばさざるを得なかったようである。その理由もはっきりしている。かれは、24ヶ国から投馬国(経由地)と邪馬台国の外のクニグニが<遠絶の傍国>という字句に拘泥し、それらの国を大和より東の伊勢・志摩、近江、尾張、三河、遠江などに求めたからに他ならない。だが、例外が2つあり、いずれも大和より北部九州(起点)に近い吉備国の国と郡(合計2ヶ国)が比定地とされている。(この理由は私には不明である。)

 ともかく、これらの15例も<不可>とするべきであろう。すると、残りは9ヶ国となる。

 

2 発音、特にp音の問題 (倭語音の変遷)

 比定にあたっては、当時の倭音と漢音がどのような音であったのか、を検討する必要がある。漢音については、現在の北京音ではなく、3世紀の当時の発音を詳しく検討する必要があることは言うまでもない。それと同時に、倭音の状態、そして変化も知らなければならないこともあえて言うまでもない。とりわけ注意を要するのは、当時の倭音のp音が現在までに大きく変化して、h音(ハ行音)に変わったことである。最初に、この点から、残った国郡比定に絞って両者の比定を見ておこう。

 橋本説については、この点で問題となる事例はないように見える。

 だが、内藤説にはいくつかの問題点が見られる。

 ・好古都 これは倭音の「ココト」(kakoto)のような音を漢字で表記したものと推定される。(母音の問題はあとで触れることにする。)日本語のハ行音(倭音のパ行音)ではない。しかし、美濃の各務(カカム)郡と方県(ハコアガタ)郡とをあげており、後者のハ(倭音のパ)が抵触する。

 ・不呼 これは現代音の「フコ」、倭音の「プコ」のような音の漢字表記と推定される。これを内藤は、美濃国不破(フハ)郡にあてるが、k音とp音とで一致しない。不可である。

 

3 発音 その他の音価の不一致

 私は、倭音と漢音が完全に一致することはありえないと思っている。倭音には倭音の癖(バイアス、特徴)があり、漢音には漢音の癖がある。母音の場合、当時の倭音が5母音か8母音かは知るよしもないが、いずれにせよ、倭音の母音の発音時の口内の位置が漢音のそれとかなり異なっていたことは言うまでもなく、そのため倭音のア、ウ、オがそれぞれ漢音のそれに近い母音で表現することになり、一対一の対応は求めるべくもない。子音の場合にも、特に歯音系の発音に倭語と漢語ではかなり相違があり、その相違を正確に知ることは難しい。おそらく「支」は、倭語のジやシのような音ではなく、キのような発音だったと推定される。また「邪」は、ジャやザのような音ではなく、ヤに近い音だったであろう。スペイン語でも、lla は地域や人によってジャとも、ヤとも発音されるので、両者の音は近かったのであろう。

 また現在でも横浜を横浜市と言ったりするように、普通名詞の「市」は付けても付けなくても通じるが、同じようにツ(津)やキ(城、柵)を表す語などは、あってもなくても通じた可能性があると思う。

 さらに、前にもたびたび書いたが、倭語の松浦を倭人はマツラと発音していたと推定されるが、そのツは、はっきりした母音を伴うツ(tsu)ではなく、むしろ<マッラ>(mats'ra)のような発音だった可能性がある。ちょうど16世紀のポルトガル人が「浅草」を Asaxa(アササ)のように書いたようなものである。そこで、漢人がそれを入声を使って末羅(mat-ra)と書いたのには、理由がある。もしツの音のために漢字一字を用いたならば、<マツーラ>のように聞こえたかもしれない。

 したがって、あまりに厳格に一対一の対応を求めるのは、厳しすぎるかもしれない。

 しかし、異なる音価、例えばm音とn音を、n音とk音などを無批判に同じ音価として扱うべきではないだろう。例えばかつて本居宣長は「狗奴国」を「熊襲」であろうなどと言ったが、クナ(kuna)のn音と、クマ(kuma)のm音はまったく異なる音である。

 以上の点に注意しながら、両説を検討しよう。

 

 橋本説。

 ・投馬国(筑後・三ヌマ郡) tuma とminuma. 最後のマが一致するだけであり、到底、比定できるとは思えない。不可。

 ・已百支(肥後・合志郡) おそらく已ではなく、己(g音)としたのであろう。また支をシと読んでいる。そこでそれぞれ kopaki、gapasi となり、条件つきでかろうじて可といったところだろうか。

 ・郡支(肥前・小城郡) 郡は「都」とする意見もあるが、郡とすれば gun-ki 。一方、小城は oki 。先には「支」をシのように読んだはずだが、今度は「キ」と読ませている。漢語 g音が倭音のア行またはワ行音に対応するのかが不確実であり、不可とするしかない。

 ・対蘇(肥後・阿蘇郡) tui-so と a-so となり、これも漢語の t 音 と倭語のア行が一致しておらず、不可。

 ・華奴蘇奴(肥前・神崎郡) kanasana とkanzaki 。これも疑問が多く、特に末尾の na と ki を対応させるのは無里筋というものだろう。不可。

 ・鬼(肥前・彼杵郡) gui と sonogi 。これは最後の g 音が一致しているものの、一致例とするのは無里。不可。

 ・為吾(筑後・生葉郡) wui-ga と i-ku-ha 。そもそもどこが似ているのか分からない。不可。

 ということで、7つのうちおまけで可とした一件を含めてほとんどが不可。

 生き残ったのは、邪馬台(筑後・山門郡)、斯馬(肥前・志摩郡)、弥奴(肥前・三根郡)、支維(肥前・基イ郡)だけとなってしまった。しかし、これは音検定を通っただけであり、その他の条件に照らすと怪しいものが多いことは言うまでもないかもしれない。

 例えば志摩郡であるが、これは伊都国に比定される怡土郡と隣合っている郡であり、とても遠絶の地とは言えない。また支惟国に比定される基イ郡も末盧国の東方にある小郡であり、遠絶地ではない。弥奴国に比定された三根郡とてそうである。

 かくして筑後平野の、これといった遺跡のない山門郡だけがぽつんと残される寂しい結果となったしだいである。

 

内藤説。

 こちらは、残された7ヶ国、つまり国または郡に比定されたものについては、あまり大きい問題はないように見える。一応列挙すると、

 ・邪馬台(大和国) yamato

 ・斯馬(志摩国)     sima

 ・弥奴(美濃国)     mino

 ・鬼奴(伊勢・桑名郡)guino と kuwana (kwana)

 ・巴利(尾張または播磨)pari と o-pari またはpari-ma

 ・支惟(吉備国)    kiwi と kibi

 ・烏奴(備後・安那郡) una と anna

 

 もちろん気になる点がないとは言えなくもなく、まず巴利を播磨とした場合、マ(-ma)の脱落が問題となろう。また支惟の wi 音をビ音にあてることが妥当かも問題となりそうである。しかし、wi と bi は、発音時に唇を瞬間的に近づけるという点で似ており、ありえなくもないと思われる。

 内藤説の場合、先にも述べたように、外の多くのクニグニを大和以東の地に求めているが、吉備を例外とするならば、越の国屋四国のクニグニを含めてもよさそうなものである。その場合、 伊邪(伊予国)、対蘇(土佐国)、姐奴(讃岐国)、躬臣(越国)などを追加することができたであろう。その場合、少なくとも5ヶ国+7ヶ国+4ヶ国の合計16ヶ国(半数以上)が有力な比定地となったように思われる。

 なお、この場合、一般に認められている北部九州の比定地が対馬島と壱岐島の2島(国)を除くと、例外なく郡だったのに対して、本州・四国では旧国名が多くなる。しかし、これは玄界灘沿岸地域がかなり人口密度の高い地域であったのに対して、本州と四国がさほどではなかったことに関係しているように思われる。

 
むすび
 最後につけ加えておく。岩波文庫版の中国正史日本伝(1)をまとめた石原道博氏は、注で、これらの比定地を紹介しながらも、<ほとんどあてにならない>旨を書いている。確かにそうであろう。しかし、地名比定を行ったのは、この二人だけではない。ほかの研究者が行った比定の中には、かなり<あてになる>ものがあるように思われる。客観的・学問的で、評価に耐える比定を行うためには、古代の漢字音にとどまらず、遵守すべきいくつかの原則があることを強調しておきたい。