韓の地と倭の地 スケールの比較 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 3世紀の<韓の地>と<倭の地>が話題となるとき、それぞれの地図が示されることが多い。しかし、なぜか、両者が一つの地図にまとめて示されることが稀である。そこで、ここでは両者を一つのスケールで表し、観察してみることとした。

 下図には、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)のおおよその位置(推定)と、魏志に記されている国数と戸数が示されている。

 

 

 この図からもわかるように、三韓を合わせた面積は、西日本よりは狭いが、おおよそ日本の九州と中国地方を合わせた面積ほどに等しい。この地に、74国、14~15万戸の戸数があると述べられている。この他に朝鮮半島全域では、中国の2郡および濊の国があり、したがって戸数も14~15万戸よりはるかに多い。(ここでは、2郡の人口統計の推計値は省くことにする。)

 ところで、問題は日本列島のほうであり、もし魏志が女王国=邪馬台国を盟主としていた倭国連合が北部九州の地にあったと仮定するならば、ほぼ弁韓ほどの空間にかなりの数のクニグニと人口が詰め込まれていたことになる。中国史書では、<旧100余国、今使訳通じるところ30国>とあるが、もし実際に存在したのは100余国であり、そのうちの30国が中国(または朝鮮半島における郡治)と通じていたとするならば、弁韓と同じ面積ほどの狭い領域に国と戸(世帯、人口)がぎっしりと詰め込まれていたことになる。かりに30国、15万戸としても、相当なものである。まさに寿司詰めといえる。

 かつて作家の松本清張氏は、邪馬台国九州説に立ち、したがって当時の「倭国」も北部九州に制限されると考えていたが、その際、中国史書の記述する戸数がまったく架空の数字で信用できないと断じたのは、その意味では、正当であろう。わずか100km×5、60kmの狭い領域内に当時それだけの国や人口があったとは到底考えられないからである。

 だが、そうだとしても、そのような意見が魏志を書いた陳寿の考えに反することも明白である。というのは、陳寿は、倭国が韓半島と比べてもかなり大きい領域に広がっていたと考えており、それは、多くの論者の説くように、否定できないからである。陳寿は、女王国=邪馬台国が<水行20日陸行1月>もしなければ行けない「遠絶」の地であると書いており、またそのことを確認するかのように、女王国が会稽東冶の東にあることを示し、自分に言い聞かせているようにも見える。

 もとより実際の日本列島は、会稽東冶の東海上までは伸びておらず、九州から東に向かって連なっている。

 そこで、かりに女王国が奈良盆地(大和国)にあったと仮定するならば、三韓の地よりは広い土地に、ほぼ面積に比例して多くの国(100国?、30国?)があることも、また韓とほぼ同数の戸数(したがって人口)があったこともリアリティを持つことになる。ここで一つの問題として、はたして当時、倭人に国の数や戸数を数えることができたであろうかという疑問が生じることになるが、国名のカウントはできたとしても、戸数を数えることはできなかったのではないかという疑念は、消すことができると思う。当時は、すでに列島の多くの地域(特に広い沖積平野を持つ地域)で人口が急速に増え、古い環濠集落が姿を消し、かわりに一般民衆の集落と区別される首長(王)の館が生まれてきており、かなり大きい出現期古墳が現れ始めてくる時代である。そこにおける首長たちが(世界の他の地域と同様に)人民を「課税簿」を作成するところまではいかなくても、統治するために(つまり働かせるために)、人頭や戸数を数える技術を身につけ始めていたことは、容易に推測されるところである。

 

 

 では、これら2つの意見のうち、いずれがリアリティを持つであろうか?

 私自身は、後者がよりリアルであると思う、ことは何度も繰り返してきた。しばしば<素直に読めば、ここ>という調子の議論が行われるが、素直に読めば女王国は琉球列島に近い海の中となる。つまり、方位記事であれ、日程記事であれ、国数・戸数記事であれ、どれかを変えないかぎり、現実には近づけないことは、これまでの議論から、いやというほど知らされている。あとに残されたのは、考古学に頼るか、あくまで文献に依存するかであるが、後者の場合、文献批判が重要となることは言うまでもない。

 私は、陳寿が後漢や晋の派遣した官吏の報告書を史料として用いているからには、そこを原点とするしかないと思う。その場合、官吏が虚偽の報告をしていない限り、女王国が「遠絶」の地にあったこと(そして、そのために実際にはそこまで行かなかった)を重要視したい。これまで九州説では、北部九州の地が韓に近い先進地域であることを根拠として、例えば筑後の朝倉郡などに求める意見が最有力であった。

 しかし、博多湾から朝倉郡までは65kmほどの距離しか離れておらず、歩いても2、3日の行程である。時代は現代だが、かつて私は、福岡市内は昔の<奴国>の東端あたりに住んでおり、そこから毎週一回その朝倉郡のすぐ近くの看護学校に教えにいっていたが、午前中に車で出かけて、教え、昼までには本職場には戻っていた。いくら車だはいえ、とても遠絶とは言えず、むしろ至近距離というべきであろう。

 下の地図では、博多湾岸からもう少し長い距離(85kmほど)をとって示してみた。また韓半島の南岸にもほぼ同じ距離をとって示しておいた。これが遠絶でないことは言うまでもないが、もしそれを「遠絶」と思わせるように報告書を書いた人がいたとしたら、それは虚偽報告に他ならない。もし陳寿が生き返って、現在の北部九州説に接したならば、驚いて絶句するかもしれない。

 「私が記述した倭国は、こんなにちっぽけだったな国だったのか?」