倭の奴国のおおよその地域 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 昔、福岡湾は、糸島半島のちょうど付け根に位置している和白という所に住んでおり、そのあたりの地理には詳しいのですが、なつかしくもあり、これがちょうど後漢書の紀元57年に記載されている奴国の領域にあたるということであり、そのあたりのことを何となく書いてみることにしました。

 金達寿氏の本によると、和白という地名は、古代朝鮮語で「会議」を意味する言葉だということですが、私には真偽のほどはわかりません。私の借りていた小さい一軒家はちょうど海岸のすぐ隣にあり、春先になると汐干狩が解禁され、私の家族もバケツをもって適当な場所に行き、一時間足らずでバケツいっぱいのアサリを捕ってきたことがあります。その他に車エビも捕れ、本当によいところでした。汐干狩の場所は遠浅でしたが、そもそも博多湾全体が遠浅となっていて、古代でもちょっと大きい船が座礁するために入ってこれなかったと言われています。かつて13世紀にモンゴル軍が攻めてきたときも、湾の入口を塞ぐ能古島より深く侵入できず、志賀島~能古島~対岸の今津より西側に停泊し、そこから兵士を上陸させ、東の太宰府の方に向かわざるを得なかったというのも、湾内が浅かったという事情にもよったのだと思います。そして、事情は古代でも変わらなかったはずです。

 さて、博多湾岸というと紀元1世紀に奴国があり、その国王が後漢の皇帝から金印を下賜されたことはよく知られています。そして、江戸時代になり、志賀島の西南沿岸、現在金印公園のあるあたりから「漢委奴国王」の発見されました。

 もっとも、この金印が偽造された偽物ではないかという疑惑があり、それ以来、現在まで真贋論争が続いているようですが、私自身は、本物だと思っています。偽物説にもいくつかの根拠があるようですが、本物説にもかなり説得的な根拠があります。

 その根拠の一つは、当時、偽物を作ろうとしても、そのための資料が本質的にはなかったことです。漢の皇帝が家臣や隣接地域の王に与えた金印の実物は、すべて失われていました。古代の印に関する本は中国でも出版されていましたが、それが正確な情報を与えることはできなかったようです。ところが、考古学者が20世紀の開発ラッシュの中でさかんに発掘をするようになってから、かなり多数の実物金印を発掘したわけですが、それらが<志賀島で発見されていた金印>と多くの点で一致していることが判明しました。それが偶然で生じることはまずありえないことと思われます。また「漢委奴国王」という表現や文字が怪しいという意見もありましがが、金印が<中国王朝名(漢)+種族名(倭)+国名(奴)+役職(国王)>という順で彫られていることもルールに合っていることが分かりました。これらはまだ漢代後に忘れ去られてから、まだ18世紀には知られていない事実だったわけです。それから「委奴」の読みですが、一部には「委」をイ(ヰ)と読み、「奴」をド(またはト)と読んで、「イト」、つまり伊都国または怡土郡のイトと考える説もありましたが、「奴」は異なる時代と地域では「ド」の発音に近くなる場合がないわけではないとしても、後漢の中原では例外なくn音の発音と読むべきであり、「匈奴」(ヒュンヌのような音)も含めて、魏志倭人伝の弥奴、華奴蘇奴、狗奴などの国名がn音の発音が妥当であることを示しています。また倭と委が通字、通音であることも認められていますが、通音だからといって「ヰド」と読まなければならない理由はなく、漢倭奴が<漢のワのナ)であることの妥当性を示しているように思われます。

 さて、もう一つ重要な点ですが、古代の港津がどこに営まれたかという点ですが、現在の時点における情況で判断してはいけません。きわめて貴重な吉備の上東遺跡の古代港津の場合もそうですが、同じ海岸でも、近くに高い段丘のある場所が選ばれており、しかも、船が岸まで侵入できる一定以上の海深あるの場所が適地だったと考えられます。

 さらに、考古学研究や、魏志倭人伝の記述からも明かな通り、奴国の西隣(旧怡土郡あたり)には、伊都国がありました。必ずしも奴国と伊都国の関係が悪かったというわけではありませんが、当時の強国としては自前の港津を持つことが当然だったでしょう。その場合の候補地は一つしかありえません。つまり志賀島です。しかも、セオリー通り、その中でも外海に面した場所ではなく、湾内の波静かな場所を選ぶのが道理です。というと、まさに現在金印公園のあるあたりしかありません。その近くには現在も江戸時代にも志賀海神社があり、古代の港津の所在地としてはぴったりの場所です。当然ながら、奴国の王都のあった中心地は、須玖岡本遺跡のある地域でしょうが、港津は志賀島の南西部にあり、奴国の中心地から現在の香椎宮を通り、和白(粕屋郡)、海の中道を経由して志賀島に到る道が奴国の領域として整備されていたと考えても不都合はありません。

 そして志賀島からは壱岐ー対馬を経由して、または壱岐をパスし、対馬を経由して韓の諸国との交通があったと思われます。

 

 

1987~88年頃の香椎宮