英語と日本語のバイアス(bias) 乗り越えるためには何が必要か? | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 コロナから一応回復しましたが、私から感染した家族2人の症状が軽かったのに対して、自分の場合は、快復したのちも、頭痛、喉(痰咳)が続き、おまけに腰痛の症状まで出てしまい、これらの後遺症(というほどではないかもしれません)が何時まで続くのかと考えてしまう毎日です。

 さて、今日は、当ブログのテーマとはかなり離れた自分の本来の専門分野の話ですが、5年かけて漸くT.ヴェブレンというアメリカの経済学者の書いた本二冊の翻訳をほぼ終了しました。思えば退職後、しばらくして始めた作業ですが、自分の出会った文献の中では、かなり(最も)難解な文書が続き閉口しました。それでも5回ほどの推敲を経て、漸くreadable な訳文が出来たのではないかと思います。この間、パソコン・トラブルもあり、半年以上の作業がフイになってしまったこともありましたが、何とか、ここまでたどり搗いたしだいです。2冊の本は、『帝政ドイツの産業革命』、『アメリカの不在所有』というものですが、前者は、イングランドとドイツの比較経済史のような内容であり、古代から19世紀にいたる両地域を制度史的観点から比較史的に論じたもの、後者は、主にイングランドから移民した人々の末裔の築いたアメリカ合衆国が本国と異なる独自の制度(それが自由な金融資本主義を生み出した「不在所有」というものです)をやはり制度史的に追求したもので、これも広い意味では制度史的、比較史的な作品です。当初、ある出版者から出版を検討してもよいという言を得ていましたが、あまりにも時間がかかったので、出版できるかどうかは未知数です。それに翻訳は労多くして益少ない労働です。普通に出来て当然。何か誤訳や不適訳があれば、鋭く責められ、意気消沈するのがオチ。それにもしかすると翻訳者が費用の一部を出すことになる危険性もあります。勇気のいる決断です。

 

 ただ暫く前にマックス・ヴェーバーの書いた教授就任論文(dissertation)、『中世商事会社史論』の英語版が出版されていたのですが、原文のドイツ語では理解の難しかった箇所が読み砕かれ、理解しやすくなっていることに気づき、ついまた日本語に直す作業を始めてしまいました。こちらの作業を進めながら、考えて見ることにします。英語版は、The History of Commercial Parnerships in the Middle Ages となっています。partnership(ラテン語では societas) というのは、複数の人が出資して事業を営むという意味で、「組合」とも「会社」とも言えますが、近代初頭の欧州や明治以降の日本では、合名会社(または合資会社)と呼ばれたものです。ヴェーバーは、古代の会社が中世に、そして近代にどのような変遷を経てきたかを主軸として、諸史料の検討をしてきたわけですが、当初、このあたりから欧州経済史の研究に入っていったことにどのような意味があるのか、興味を感じるところです。

 

 ところで、英文をほぼ毎日読んでいると、英語も他の言語と同じように現生人類の話し書いている言語である以上、共通している部分があることを実感しますが、同時に、英語の「バイアス」(bias)というものを感じざるを得ません。次にこれについて少し書いてみます。

 さて、バイアス(bias)と言うと、歪み、偏り、等々、あまりよい語感ではないかもしれませんが、ここではもちろん非難するつもりは毛頭ありません。そもそも上に紹介したヴェブレンは、このbiasという言葉を頻繁に使います。もっと普通の日常語でいえば、これは特徴などと言い換えてもよい言葉です。しかし、バイアスという言葉は少し強烈なニュアンスがあるだけに、特徴という言葉では表現できない事象をうまく表すことができるように思います。

 そうです。英語には英語独特のバイアスが偏在しています。もちろん日本語には日本語独特のバイアスが偏在しています。お互いに変わり者同士です。もっと詳しく言えば、文法(統語法)、語彙、発音、これらすべての領域で、バイアスに凝り固まっている、というのが世界中の言語の特徴です。

 しかも、このバイアスは、生まれてから1歳位から固まりはじめ、2、3歳でほぼ固形化し、5歳ともなれば、がちがち状態になってしまうようです。したがって昔私たちが英語を習い始める中一(12歳頃)には、鉄のように凝り固まっています。そこで、英語のバイアスがそう易々と私たちの身体・頭脳に入ってくるわけもありません。たしかに英語の先生が丁寧にいろんな違いを教えてくれても(私も元教師であり、その教師が悪いとは決して言いません)、そして英語バイアスに近づけようとしてもすぐに日本語バイアスが復活し、元に戻ろうとします。ちょうど強いバネを引き延ばしても、力を抜くとすぐに縮んで元に戻ろうとするのと同じです。

 私の意見では、普通の日本人がちょっとした努力で英語のネイティブとまったく同じように英語を話したり書いたできるようになるとはとても思えません。もちろん、努力しだいでは、英語をスラスラ読めるようになることはまちがいありませんし、また話す内容によってはスラスラと話せるようになるとは思います。ただし、その場合でも、ネイティブと同じになることはほぼ絶望的なので(長期の海外留学や外大などでの学習は別です)、それより低いターゲットを決めて、それに向かって努力することには大いに意味があるとは思います。低すぎるターゲットもあまり意味がないと思いますが、逆に高すぎるターゲットを設定しても、達成できない可能性が高く、その時の絶望感が大きくなり、有害かもしれません。

 昨年末、私はかなり時間をかけて本屋のいわゆる語学書のコーナーで長時間立ち読みしましたが、どれを読んでも何か有益な知識を得ることができそうな反面、どれを読んでもダメそうと思いました。本は高いので、なるべく買わないようにしましょう。ただし、自分の設定したターゲットを達成するために絶対に必要ならば、買ってもよいかもしれません。

 何故買ってはダメなのか? 例えば本屋には「日本人が間違う表現100」といった類いのタイトルの本が必ずあります。それを読めば、なにがしかの知識を得ることができることは間違いないでしょう。しかし、それで英語ができるようになることはまずないはずです。日本人が間違う表現は、際限なくあります。それをなくすには、やはり長期留学しかないでしょう。

 

 最初に英語バイアスと言いましたが、その英語バイアスという全体集合の中の部分バイアスを一つ一つ自分の頭脳で理解しながら、進むしか着実な方法はないというのが私の意見です。その部分バイアスの一つ一つを、ここではスキーム(scheme)と言い換えることにしますが、そのスキームは、大きく文法(統語法)、語彙、発音に分かれることは言うまでもないことですが、ここでは前2者にしぼって少し私の意見を書いてみたいと思います。

 

 さて最近は、大学院生の書く修士論文や博士論文などにも英語タイトルや英文のサマリー(要約)を付けることが要求されるようになっています。ところが、その英文たるや凄まじいの一言につきるものをしばしば見かけました。一番ひどいのは、翻訳ソフトにかけて出てきて英文をそのまま載せたに違いないものですが、そこまでひどくなくても、和臭のするものが多い。「和臭」であっても、ちゃんと理解可能ならば、「可」です。が、意味不明なもの、日本人なら理解できるけれど、ネイティブには多分理解できいないだろうと思うものも時々ありました。

 【語彙編】

 これはよく引かれる一例ですが、日本語の「挑戦する」を英語の challenge に機械的に置き替える人がかなりいます。日本語のほうは、「果敢にも~をやってみる」という程の意味と思いますが、英語の challenge は、やって見るのではなく、対象を批判・否定する、乗り越える、という意味です。したがって、

  1  He challenged Keynesian economics.

      2  He challenged Mt. Fuji.

      3  She challenged the parliamentary election last year.

 

  1の文は、<ケインズ経済学を批判し、それに挑戦状をたたきつけた>というほどの意味で、了解と思います。しかし、2と3は、おかしい。<富士山を否定する>、<昨年の議会選挙を否定する>というのは、いったいどのような忌みでしょうか? 日本語の意味では、富士山登山に挑む、昨年の議会選挙に出馬してみるというつもりかもしれませんが、日本で日本語を教えている英米人教師なら理解してくれるかもしれませんが、普通の人には理解できないでしょう。

 

 他にも、英語の諸学者の頃、look at, see, watch, take a look at, など、日本語では「見る」という一語で済ませる単語が英語では複数の単語があり、意味的に使い分けていることをほとんどの人は知っているはずです。しかし、私も初学者だった中学生の頃に、きちんと使い分けられていたかどうか、疑問です。

 このような例は山ほどあります。とても100では済まないでしょう。したがって、一つ一つ納得のいくように、自分で調べてゆくしかありません。その過程で、必ず実際の例文に出会うことになり、そのように自分の頭で理解できた用法や例文は、私の記憶では、何時までも長く記憶に残ります。

 

 【文法(統語法)編】

 いまでも思いだしますが、英語を習い始めてすぐに、英語の名詞には単数と複数の区別があり、しかも日本語と違い、単数と複数の区別は厳格に守られる、ことを教わりました。そして、次に名詞には、数えられる(可算)名詞と数えられない(不可算)名詞があり、複数形があるのは、前者だけとも教わりました。可算の単数名詞の前に a, an が来ることも教わります。

 そして、次のステップに行くと、the (定冠詞)というものがあり、「その~」という意味であると教わり、特定のモノを指し示す詞であると習います。さらに、my, our,  your, his, her, their (誰それの)という単語も教えられます。

 なんだ簡単じゃ~ん。と、思いました。しかし、名詞の数に関するスキームがそれほど簡単なものでないことは、ずっとずっと後になって、たしか大学を卒業してから知りました。名詞の数に関する英語のスキームは、日本語の名詞数スキーム(バイアス)とは比べものにならないほど複雑だったわけです。(これについては、マーク・ピーターセンという人が詳しく説明しています。)

 

 私も昔はそう書いていたはずですが、例えば「私は、去年、友達とパリを訪れました。」という文を英語でいうとき、

   I visited Paris with my friend last year.

のように書く人は多いはずです。いわゆる文法上間違った文ではありません。しかし、真実(事実)が伝えられているかどうかは、疑問です。というのは、with my friend の句の my friend ですが、the と同じくモノ・人を特定する my を名詞の前に置くことによって、この文は私には友達が一人しかいないことを表明してしまっているからです。もしmy carと言えば、私の持っている車は一台だけ、my house といえば自分の家は一軒だけ、ということになります。それならば、with my friends にしたらどうか? これも文法上誤りではありませんが、この度は、私には友達(複数)が何人いるかはともかく、その全員と一緒にパリに行ったという意味になります。ともかく、my や the は全員集合であることを知らなければなりません。

 その応用例は、the Japanese people(日本人)です。 Japanese people が漠然と日本人を指し示すのに対して、the ~は、日本人、日本国民の(一人の例外もなく)全員を差し示すことになり、したがって例えば日本国憲法における国民の権利・義務を説いた条文などにな現れます。

 そこで、先の句は、with  a friend, または with friends (友達一人と、あるいは二人以上と)となるはずです。

 

 my や  the には、全体集合をあらわす機能があることを書きましたが、もちろん、その前にモノを特定化するという機能があることは言うまでもありません。the について言えば、話し手と聞き手の両方に「あー、あれか」と了解がある場合に、the が来るわけです。太陽や月が the sun, the moon というのは、話の中に突然出てきても、了解されているからです。

 その他によくあるのは、昔話などで、「昔、安芸の国にお爺さんとおばさんがいました。ある日、お婆さんは~」が

 Once opon a time there used to live an old man and an old woman in the country of Aki. One day the old woman...

となる道理です。(初回は an~, 次は the~)

 しかし、はじめて出てきても、the の例がないわけではありません。

 I went downstairs to the kitchen, and opened the refridge. (台所に行き、冷蔵庫を開けた。)

 この場合、初出でも the kitchen, the fredge なのか? 

 理由は簡単であり、普通、家には台所や冷蔵庫は一つであり、その一つの台所や冷蔵庫ということが自明だからです。しかし、もし大豪邸であり、台所や冷蔵庫がいくつもある家ならば、上文の台所、冷蔵庫は、a kitchen, a fridge (または one of the kitchens, one of the fridges)となるはずです。

 その証拠に、<私は自分の部屋に行き、本を読みはじめた>という文は、普通の場合なら、

 I went upstairs to my room, and began to read a book.

となるでしょう。私の部屋は一つだけ、本は沢山(または複数)の中の1冊だけです。もし本が一冊しかないならば、the book となるはずですが、そのような家もなかなか珍しいので、read the book としたならば、聞き手(読み手)は、「えっ? どの本?」となるはずです。

 

 このように英語の名詞数スキームの中では、部分集合なのか、全体集合なのかが、かなり詳しく問題とされているわけですが、おそらく語学の秀才ならばすぐに見抜くかもしれまんせん。しかし、普通は、教わらない限り、無里ではないでしょうか。

 

英語の時制(現在形, be, will, be going to )

 もしかすると、英語の時制、特に現在形は、一見簡単でありながら、初学者にはかなり難しい事項の一つかもしれないと思います。というのは、日本語の現在形は、英語が現在形や未来形(will, be going to)を使って区別している表現を一手に引き受けているからです。これも私が中学生の時にははっきり自覚していなかった事柄です。

 1   I usually cycle to school, but drive or walk on rainy days.

 2   What do you drink ?

  普通、英語の現在形は、現在の習慣的行為をあらわします。そこで、2は、「(これから)何を飲む?」ではなく、「いつも何飲んでるの?」のはずです。もしこれから何かを飲むことを表すには、

 1 I'm going to drink coffee.   コーヒーを飲みます。

   2   I will drink coffee.      コーヒーを飲みます。

  この二つの文は、若干含意が異なっており、1は、(今より前にコーヒーを飲むことを決めていて)その意思が続いている場合に、2は、今、コーヒーを飲む意志を決めた場合に使います。be going to do はいわゆる現在進行形(または現在未完了形)であり、過去に始めた行為が今の続いて未完了であることを示すわけですが、will は未来形を作る助動詞の「現在形」であり、今意志を決めることを前提としています。ですから、コーヒーを飲む意志がなかったのに、誰かから「何か飲まない? 何にする?」とか聞かれて、今、コーヒーを飲む決断をするときに使います。

 そこで、「今年の夏、どこかへ行く?」と聞かれて、

 Yes, I'm going to Paris for sight seeing. と答えれば、前から決めていたことを示すはずです。

 ところが、まだどこかに行こうと決めていなく、例えばフランスに行かない? と誘われ、そこではじめて決断するのではあれば、Well, then, I will go to Paris. (じゃ、パリに行く。)となるはずです。

 そこで、依頼文、will you do ?  の謎も解けます。 Will you open the door. please? は、<今、ドアを閉める意志ない?>という意味になり、それをもっと丁寧に言うと、Would you open the door, please? 

 このように、日本語(現在)↔英語(現在、未来形、will , be going to)のように、英語が細かく区別している事象を日本語は一つの用法で対応している例もあれば、逆の場合もあります。 

 

 文法的なことでもう一つ。イギリスである日本人が英国人から英語をならっていましたが、その人がある日次のようなことを話していました。<私は、「~することができた」という日本語を英語で表現するとき、could も was able to も同じだと思って使っていましたが、教えているイギリス人が「ちょっと違うんだけどな~。うまく説明できないけど」というようなことを言ってました。分かりますか?」喩えば、

  1   I could swim in the river.

    2   I was able to swim in the river.

 これが違う意味を表していることは、私にとっては初学者レベルだと思うのですが、2は、過去のある時点で(多分)実際に泳いだことをあらわしているのに対して、1では、could が単に can の過去形だというにとどまらず、仮定法過去となっていることは間違いありません。

 私の中学生の時には、現在の事実に反する仮定法過去の表現というもの教えられていて、私も参考書で練習問題を解いていた記憶があります。例えば

  If  I were a bird, I could fly to you. もし鳥だったら、君のところに飛んで行けるのになあ。(実際は不可能。)

 (→Actually, I am not a bird, and I cannot fly to you.)

 

 数ある英語書の中には、あるいは youtube 番組の中には、<文法など不要>とうたったり、<文法はこの4つでOK>とうたったりしているものもありますが、それらは教わらなくても察知できる語学の天才にはあてはまるかもしれませんし、あるいはいい加減で間違いだらけの文章を話ても書いても大丈夫という態度なのかもしれませんが、あるいはまた本当の初学者にはさしあたり不要ということなのかもしれません。したがって最初に戻りますが、問題となるのはここでもターゲットということでしょう。

 

 英語を学ぶのは、料理を学ぶのと同じように思います。

 達人ならば、誰からも料理法など習わずとも、おいしい料理を作ることができるかもしれません。しかし、普通の人にとっては、まず料理法をならい、そして次に実際に自分で作ってみることが重要です。料理法を知るだけで料理が上手になることができないように、英語のスキームを知らずにいてもダメでしょうが、スキーム(input)を知った上で実際に練習(output)して見ることが重要です。

 今ではかなり昔のことになってしまいましたが、仕事の関係でどうしても英語を使わなければならなくなったことがありました。そこで、会話に必要となりそうな語彙100語ほどを、辞書などで調べ、口に出して覚え、比較的簡単に意思を疎通させることができました。しかし、仕事の件が終わり、会話が別の事に移ったらいけなくなりました。そのためには、また別の語彙を身につける必要があったわけです。

 繰り返すと、自分の自由にできる時間が制限されているなか、ターゲットを、特に短期的な(一年ほどの)具体的なターゲットを決めることが重要だということをあらためて痛感します。ネイティヴのような流暢な英語をと思いながら、達成できない挫折感を味わうよりも、身近な美味しいカレーライスを作れることになる幸福感を味わえる方が幸せであり、次はシチュー、野菜サラダとレパートリーを広げる方が生産的なようにも思います。

 今日は、高いターゲットを設定して何度も挫折感を味わった人であればこそ、英語教育で一儲けしようという魂胆のビジネスマン的英語教師よりうんと役に立つことを語れるのではないかと思い、あえて書いてみました。