まぼろしの狗奴国 位置と邪馬台国との抗争 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 魏志倭人伝というと、やはり邪馬台国の位置。最近も youtube を覗いてみると、北部九州説、南部をふくむ九州説、畿内説、四国説、コシ説、出雲説、吉備説、紀伊説、そして文字通り「素直に読んだ」沖縄説などなど、珍説奇説を含み、誘致論争はいまなお盛んな様子です。中には、「これで決まり」、「論争終結」など、自説以外は認めないという態度の強硬派のものもありました。

 さて、邪馬台国=畿内説なども、魏志倭人伝に「南」と書いてあるのを「東」と解釈するわけですから、奇説に入るのかもしれませんが、ここでは邪馬台国=畿内説を前提に、かつマキムク(漢字変換が難しいのでカナで書きます)が卑弥呼のいた王都だったという前提に立って、ある種の推理(というより妄想か)を書き綴ってみます。

 もし邪馬台国が摂津・河内・和泉・奈良あたりの首長層たちの連合政権であり、その王都が奈良盆地のマキムクにあったという前提に立つならば、その南に位置し、伊都国や奴国から見て最も遠い「遠絶」の地にある邪馬台国連合(倭国)のクニグ二のもさらに「南」にあるクニ、つまり狗奴国は、奈良盆地よりさらに「東」に位置することになるといってもよいでしょう。

 考古学の世界では、赤塚次郎さんが、伊勢湾岸、つまり伊勢・美濃・尾張・三河あたりの地にあったと主張していることは、よく知られていることですが、奈良盆地より東という条件はクリヤーしているといいように思います。

 文献史学の世界では、山尾幸久氏が1976年に出版した名著『新版 魏志倭人伝』で、遠江(とほとふみ)あたりの東海地域を示唆していますが、これも奈良盆地の東の地を指し示しており、東の条件をクリヤーしています。ちなみに、山尾氏は、「国造本紀」に出てくる「久能」(くのう)という地名と狗奴(くの)の音との一致を指摘しています。地名表における音の類似という観点から言うと、毛野(けの。後の上野と下野をあわせた地)にも捨てがたいものがありますが、奈良盆地から少し離れているのが、難点といえるかもしれません。

 

 そもそも魏志倭人伝では、狗奴国に関する情報もそれほど多いわけではありません。ざっくりと言えば、邪馬台国(または連合するクニグニ)の「南」に位置するという情報、卑弥弓呼(または卑弥弓呼素か)という男王がいて、邪馬台国と不和になり、相攻撃したという記事に尽きると言えるでしょう。

 

 ところで、私が昔からしっくり来ない点は、実に、この邪馬台国と狗奴国が相攻撃したという記事に他なりません。倭国の女王たる卑弥呼たちは、その争いの情況を魏朝またはその朝鮮半島における出先機関(帯方郡)に報告したことになっています。ところが、その戦況もはっきりされないままに、「卑弥呼以死」とあいなり、しかもその後に男王を立てると、国内(倭国内? それとも邪馬台国内?)がふたたび乱れ、また女王(トヨ)を立てたところ定まったとなっています。

 

 ここで私にとってどうしても符に落ちない点というのは、これも考古学者の松木武彦氏などが指摘しているように、当時、クニが別のクニを征服するために軍団を送ることはなかった(その証拠はない)ということに関係しています。陸地で歩兵を派遣するにせよ、船で戦士を輸送するにせよ、大規模な戦争やその破壊跡(の遺跡)が見られないことや、当時の輸送技術では、他の地で軍隊を維持するための兵站を運ぶこともままならなかったであろう、とされています。ただ、クニとクニとが接する境界あたりや、大きいクニの内部の小さいクニ同士の争い程度の遺跡なら実証されるとも言われています。

 同じように赤塚次郎氏も、尾張のクニが奈良盆地のクニと大規模な戦乱を起こした証拠はないし、考えられないとしています。

 

 だとすると、邪馬台国と狗奴国との攻伐とはいったいどのような事態を指し示しているのでしょうか? それに何故か「卑弥呼以死」という一文が意味深長です。漢語「以」は、日本独自の用法としては「すでに」という意味で使われることもあるようですが、それは漢文にはなく、漢和辞書をひくかぎり、<ある事件があり、それに続いて>というような接続の意味があるだけのようです。何となく、軽い「因果関係」の語感があるようにも感じますが、素人には断定できません。しかも西暦180年代の「倭国乱」とまったく同じように、倭国または邪馬台国の勢力が男王を立てたところ、今度は国中が混乱し、死者が多数でるほどでした。外国との戦争より、国内の混乱のほうがはるかに深刻だったという雰囲気です。

 

 何ともしっくり来ない事態を説明し、符に落ちるようにする解釈はないものか、ずっと考えてきましたが、一つだけあるような気がします。これこそ珍説奇説を新たに付け加えるという結果に陥るかもしれませんが、まったくありえない妄想でもないようにも思います。

 1,考古学の世界では、常識となっていると思いますが、3世紀の当時、倭国というのは、倭人のクニグニの連合であり、決して構成の律令国家のような中央集権的国家ではありませんでした。またそれらのどの一つのクニをとっても、その地域の複数の有力豪族たち(首長層)の連合であり、なんらかの共通の利益のために相互に妥協しながら一つのクニにまとまっていたものと思われます。ちなみに、このような連合という組織は、しばしば逆に一つのクニが共通の祖先から別れ出たものであるという神話を以て語られることがあります。かつての琉球の三山時代もそうですが、日本列島で最も有名なのは、日本書紀の景行紀4年条に記された次の記事です。

 七十余りの子は皆、国郡に封(ことよ)させて、各其の国に如(ゆ)かしむ。今の時に当たりて、諸国の別と謂へるは、即ち其の別王(わけのみこ)の苗裔なり。

 

 一人の共通祖先から別れた王(わけのみこ)が倭国70余を統治しているというのはイデオロギーですが、かつては大王さえ「別」(わけ)を称していたのであり、クニグニの王もまた「別」(わけ)であったと考えられます。

 こうして邪馬台国の場合にも、畿内の諸勢力が連合関係を結んでいたと考えられます。そして、その諸勢力の配置は、ずっとのちの史料にも痕跡をとどめています。

 2,次にはっきりしているのは、2世紀に中国地方の出雲や吉備で現れた古墳の意味です。これらの地方の豪族たちは、かつのての古い祭祀(銅鐸、銅矛、銅剣などの青銅祭祀)を捨て去り、円形または方形の墳丘墓祭祀を始めました。そして、あたらしい王政を打ち立てようとしていたクニグニが眼をつけたのが、この新しい墳丘墓祭祀です。その際、とりわけ重要視されたのが、王の権威の象徴としての墳丘の形と規模です。規模の大きいのが権威と権力の大きさを示したことは言うまでもありません。

 ところが、もう一つ興味を引くのが、形(円形か方形か)の違いです。そして、これもよく知られているように、地域によって主流となる墳形が異なっています。ここでは詳しい紹介は必要ないと思いますが、『大集結 邪馬台国時代のクニグニ』に載せられた資料にもとづいて、出現期古墳の墳形のごく大まかな見取り図を示しておきます。

       前方後方墳   前方後円墳

  西日本    20       63   (近畿~丹後以西の地)

  東日本    62       19   (越~近江~伊勢湾岸以東の地。東北を除く)

 

 見られるように、西日本の集中的に見られるのは前方後円墳であり、逆に東日本に多く見られるのは前方後方墳です。もちろん、これはあまりによく知られた周知の事実です。そして、これもよく知られているように、前方後方墳が狗奴国的な祭祀を持つ地域であると想定すれば、間違いなく狗奴国は東日本にあったことをよく示しています。これに対して、西日本は、前方後円墳の祭祀世界であったと言えるでしょう。

 とはいえ、墳形は西と東で明確に断絶していたわけではありません。日本列島で一速く大形墳丘祭祀をはじめた出雲ではその後の大型墳丘墓が現れなくなのが不思議ですが、そこでも四隅突出墳の築造は続くようですので、この地域を除いておきます。そうすると、上記の両方の墳形が比較的多く混雑している地域として北部九州、近畿、越、関東をあげることができ、他の地域はどちらかの一方に偏することが確認できます。ここに北部九州と近畿が含まれていることに注意したいと思います。

        前方後方墳    前方後円墳

  九州      9        28           

  近畿      5        10

 

 少なくともはっきりしていることは、3世紀の時点でも、北部九州や畿内にも前方後円墳だけでなく、前方後方墳を選ぶ一大勢力がいたことはまちがいありません。これらの豪族たちがどのような理由で、(多分狗奴国を含む)東日本で主流の墳形を選んだのかをはっきりと知ることができるわけではありませんが、何らかの要因で(例えば東日本との交易上の権益などから)狗奴国のとの交流を重要視していたと想定しても、あながち外れているとは言えないように思います。

 

 もし以上の想定がなり立つならば、私の長年の疑問は氷解することになります。

 <実際には、東方の遠く離れた狗奴国(連合)との戦争はなかった。しかし、邪馬台国または倭国の内部で、諸豪族間の紛争はあった。しかし、彼らは生死をかけて徹底的に軍事的衝突を続けることを避け(それまでにかなり1000人の死者が出ており、それ以上の参事を避けるために)、結局、妥協せざるを得なかった。その妥協は西日本だけでなく、東日本をも含む倭国を成立させた。その結果、前方後円墳も前方後方墳も絶えることなく、続くこととなった。韓半島~九州~ヤマト~狗奴国を結びつける交易も同様に続いた。そして、先に述べた「別」のイデオロギーが統一の思想となる。>