「倭国乱」とは何か? | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 大体、素人の簡単な質問ほど怖いものはない。

 昔、私が始めて福岡市内の大学に勤め始め、欧州中世史のある研究会に出席させてもらった時のことである。当日の報告が終わったあと、ある簡単な質問をした。ところが、一同、顔を見合わせるようにしている。そして、最年長の教師が「これは私たち研究者も知りたいところなのですが、史料がなくて本当に難しいのです」と云った旨の発言をされた。素人は、素人であるが故に、そのような質問をしてしまうことを身を以て知り、若干恥ずかしい思いをしたことをいまでも思い出す。

 カントではないが、宇宙の時空は無限なのか有限なのかというアンチノミーは、いまでも物理学者の難問中の難問である。そしてある程度の知識を持っている人は、そのような質問をしないであろう。

 おそらく「倭国乱とは何か?」という質問もそのような類いの質問であろう。確実なエビデンスをもって明快に答えられる専門家はいないようである。それにもし専門家が客観的なエビデンスの欠けた学術論文を書いたならば、それは当人にとっての大きい失点となるであろう。が、そこは、所詮は素人のこと、たいした史料もなく、とりあえずそれを書こうとしている。

 

 ところで、「倭国」と書いているが、厳密に言えば、その発音、領域と内実さえはっきりはっきりしていないのかもしれない。

 試しに岩波文庫版の『新訂 魏志倭人伝・・・』の解説を読むと、編訳者の石原氏は、漢字の「倭」をどうやら「ヰ」(ウィ)と発音させたいらしい。彼は、倭と(人偏抜きの)委が通音であるといい、委が「ヰ」音であるが故に、倭も「ヰ」音であるという。そして、そこから更に例の「委奴国」が「ヰト」国、つまり魏志倭人伝の伊都国ではないかという。しかし、さすがにこれは支持しがたい説ではないだろうか? そもそも倭には、現代の北京音でも2音あり、ウォ(wo)の系統とウェイ(wei)の系統がある。歴史的にも、ヰ音の系列もワ音の系列があることは、古代音を載せた辞書からも知られる。したがって倭と委が通音だからといって、ヰ音と決まったわけではない。通音がワ音の場合もあったに違いない。実際に倭がワ音(に近い音)だったことは、後(8世紀)の日本人が「倭」の字を嫌い「和」(ワ)に改めたことによっても知られる。倭の音がワであったからこそ、和字を宛てたとみるのが合理的であろう。さらに8世紀も末に日本という国号を生み出したこともよく知られているが、そこで倭と日本との関係如何ということが中国人の史官を悩ませたこともよく知られている。

 おそらく(明示したものを読んだ記憶がないので、推測となろうが)邪馬台国=北九州説の立場に立つ人は、倭国を北部九州のかなり狭い領域に限定しているのではないだろうか? 論理的に云えば、対馬国~不弥国の6ヶ国が北部九州内(ほぼ現在の福岡県内)に収まっており、邪馬台国も当時の最先進地域の北部九州内に求められるとするならば、遠絶の地にあるその余の傍国(21ヶ国)もそのあたりに求められることになり、邪馬台国と不和、討伐の関係にあった狗奴国もそこから遠くない所に求められるのであるから、少なくとも魏志の説いている倭国は、北部九州内に収まるとするのが合理的であろう。

 ただし、その場合でも、種族としての倭人(倭種)は、四国・本州にまで拡大しても不都合ではない。

 これに対して、邪馬台国=近畿(奈良盆地)説の場合、当然ながら、倭国は近畿あるいは、近畿からそれほど遠くない東国(例えば越や尾張など)を含むかなり広い地域およびそこに住む人々ということになる。ただし、種族としての倭人(倭種)が東日本のどこまで広がっていたかは、蝦夷をどう捉えるかによって若干異なってくることになるが、ややこしいのでここでは省くことにする。

 このように倭国の領域についての理解についても、広狭の二様の理解があるので、かなりややこしくなるが、とりあえず、それぞれの立場から見るとどうなるのか、立論を試みてみよう。

 中国における倭、倭人、倭地に関する知識は、かなり古くからあるらしいが、倭の地との外交関係が始めて記されるのは、西暦紀元後のことである。よく知られているように、『後漢書』によれば、西暦57年に「倭奴国が朝賀し、光武帝が印綬を賜うた」という。先の「倭奴国」であるが、特段のエビデンスもないとはいえ、普通、ごく常識的に倭奴国は、博多湾にあった古代のクニ(倭奴国)であり、江戸時代に発見された「漢委奴之国王」印の「委奴国」も倭奴国であると理解されている。博多湾沿岸あたりは那の津のあるところであり、那珂郡の所在地であって音が通じていることも博多湾沿岸のクニ説を支持する根拠の一つとなっている。ただし、北部九州には奴国の他にも、末羅(松浦)、伊都(怡土)、不弥(穂浪?)などのクニがあったのに、何故、倭奴国が漢に朝賀できたのか、明示した論考を読んだことはないが、おそらく優劣(支配・被支配)のための決着をつけるための全面戦争(軍事的行動)があったというよりは、当時の誰が見ても奴国が一番の大国だったからではないかと思う。

 だが、その次からが問題であり、一致した意見はすでに得られなくなっている。

 西暦107年、今度は、「倭国王の帥升等が生口160人を献じ、請見を願った」という。通常、ここは「倭国王の帥升など」のように「等」を「など」の意味に取るのが普通のようだが、国王の名前に「など」をつけ加えるのはおかしいという意見もあり、私もそう思うので、帥升等の3文字が名前であると解釈しておく。(あまり本筋に議論ではない。)生口160人というのは、相当な数であり、この帥升等の倭国がかなり大きいクニだったことが読み取れるが、そのクニの所在地は不明というしかない。一つの有力な理解は、50年前の奴国が倭人全体を代表する倭国を名乗るようになっていたというものであるが、決定的な証拠があるわけではない。むしろ、奴国ではないクニだからこそ、新たに中国に請見を願ったとする解釈が成立しないわけではない。そこで、例えば瀬戸内海沿岸のある大国(例えば吉備国)が倭国王として中国に名乗りをあげたとしても決して不合理な理解ではない。

  

 ところが、そこからの展開が古代史ファンを引きつけてやまない展開となる。その展開とは、魏志倭人伝の次の記述である。

 「其国本以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年。乃共立一女子為王、名卑弥呼。」

 

 そもそも「其国」とはどのクニなのか、邪馬台国なのか、倭国なのか、詳しい人々の様々な声が聞こえてきそうであるが、もし倭国であるとするならば、あの帥升等の倭国だと見るのが妥当であろう。その帥升等から7、80年、幾代かの王を抱いてきた倭国が「乱れ」、何年も攻伐(戦乱?)があり、そこで卑弥呼なる女子を王に共立したと読めることになる。

 したがって論理的には、倭国が57年からずっと奴国の地にあったならば、卑弥呼が倭国王に共立された邪馬台国の地も奴国の地あたりにあったことになろう。

 しかし、奴国の国名が邪馬台国に変わったという説は聞いたことがなく、それに(つい先に述べたように)倭国王の居住国・出自国の位置が移動していたとしても、決して不合理ではない。実際、その地(邪馬台国)は、北部九州説では甘木あたりに求められ、近畿説では奈良盆地(マキムク遺跡あたり)に求められているし、帥升等の倭国を吉備などに求める説もある。

 この点については、後でまた戻ってくることとして、その後の展開も見ておこう。卑弥呼が邪馬台国の、そして倭国の女王となってから何十年か経ったのち、西暦247年、「倭女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼素と不和となり、倭載斯烏越などを遣わし諸郡に詣で、相攻撃する状を説いた」という。さらに「卑弥呼が既に死に、大いに塚を作った。その経は、百余歩あり、徇葬者奴婢は百余人であった。更に男王を立てたが、国中が復さず、更に相誅殺しあった。当時千人余りが殺された。そこで再び卑弥呼の宗女台与13歳を王にしたところ、国中がついに定まった」という。

 

 こうした記述は、詳しいといなくないかも知れないが、大事件としてはあまりに簡潔なため、要領を得ないとも言える。

 そもそも狗奴国との不和、相攻撃とはどのような事態なのかがはっきりしない。以前、弥生時代の「戦争」に詳しい松木氏の当時の戦争に関する意見を引いたが、そこでも云われているように、例えばあるクニが大規模な軍事力を遠方に送りこみ、相手国を軍事的的に制圧したというような痕跡はない。軍事がまったく意味を持たなかったというわけではないが、実際の戦闘は、隣合うクニとクニの周辺での紛争に過ぎなかったようである。(この点で、古代中国、例えば殷の軍事遠征が、攻撃相手の諸族多数人を殺傷し、捕虜にし、犠牲儀式に使ったのとはかなり様相がことなるようである。)とすれば、邪馬台国と狗奴国とは相隣接するクニ同士だったということになり、周辺部で武力を用いた攻撃があったと理解するしかないようである。

 ところが、その先を読んで行くと、何故か卑弥呼が死に、徇葬者とともに大きい塚(経百余歩)に葬ったという記事があり、さらに今度は狗奴国との紛争といよりは、倭国内(? それとも邪馬台国内?)の「乱」(相誅殺、千人あまりの死)の記事に変わり、前回(180年代)と同じように男王を立てたが、収まらないので卑弥呼の宗女・台与を女王に立てたと続く。ただし、今回の乱について云えば、倭国王の所在地として邪馬台国が変わることなく続いたことは、誰でも認めることであろう。

 

 さらにその先についても見ておこう。西暦266年、倭国が魏の後の西晋に朝貢を行ったことが中国の史書または史料に登場する。これは普通台与を国王といだく邪馬台国、その邪馬台国を盟主とする倭国(倭国連合)が中国に送った(そして史料に残る)最後の朝貢とされているものである。その後、5世紀初頭(421年)にいわゆる倭五王の最初の王(讃)が再登場するまで、倭国と中国との通行記事は存在しない。その理由の一つは、はっきししており、中国が社会的・政治的・経済的な大混乱に陥るからである。西晋は、317年まで続くが、その直前の304年から439年までは、中国史にいう「五胡十六国」の時代であり、黄河流域の中原には、北方から北方夷狄・遊牧系異民族が流入してきては、様々な王朝を打ち立てた。その中でも最も有名な国家は、北魏(386~534年)である。こうした情況の中で、少なくとも当時の徴税戸籍に登録された北方の漢人の数は、10分の1に激減したが、そのうちのかなりの数は、北から揚子江流域などの南方に逃亡したものと見られている。

 もとより漢人の国家が消滅したわけではなく、西晋が滅亡したのち、南方に東晋が成立し、317年から420年まで存続している。またその後を継いで宋が成立している(420~479年)。この宋に倭王讃が入朝したわけである。

 では、この間(266年から421年)に倭国と中国、特に南方の東晋との交通はまったくなかったのであろうか、というと、気になる記事が一つだけある。それは、『梁書』の次の記事である。

 「其後復立男王、並受中国爵命。晋安帝時(396~404年)有倭王賛。」

「其後」というのは、台与が倭国女王になってから後という意味である。その後にまた倭国に男王が立てられともいい、「中国の爵命を受けた」とも書かれている。しかし、その記事には具体性がなく、(東)晋の安帝時(396~404年)に倭王讃がいたという記事に続いているので、5世紀の倭五王を念頭においていたと見ることもできよう。

4世紀の中国南朝の史官が倭国についてどれほど注視していたか、どれほどの知識を得ていたかは確かではないが、彼らが倭国の連続性、邪馬台国の中心国としての位置を所与の事実としていたことは、うかがわれるように思われる。

この連続性の認識は、さらに後の『隋書』でも前提とされており、そこでは、次のように書かれている。

「倭国は百済・新羅の東南、水陸三千里に在り。大海の中に於いて山島に依りて居る。

魏の時、中国に訳通ず。三十余国。皆自ら王と称す。夷人は里数を知らず。但だ計るに日を以てす。その国境は東西ヶ五月の行、南北三ヶ月の行にして、東は高く、西は下し、邪摩堆に都す。則ち魏志に謂う邪馬台なる者也。

 古より云う。楽浪郡の境及び帯方郡を去ること、並に一万二千里にして、会稽の東のかたに在り。儋耳と相似る。」

 

この文章で注目されるのは、倭の地の地理的認識が画期的に改められ、かなり正確になったことである。

また、魏志にいう邪馬台国を当時の音で「邪摩堆」と言い換えているが、いわゆるヤマト王権の所在地と同じであることを認めていることも注目される。

もちろん、これは隋の時代の中国人(知識人)の認識であり、それがそのまま事実であるというわけではない。しかし、「五胡十六国の乱」という100年ほどの日中外交関係の中断、または困難な時代があったことは確かであるとしても、倭国の中心地が同じ場所にあったという認識があったことの意味は決して軽くないようにも思われる。もし倭国の側に盟主国の移動があった場合、それが何らかの形で伝わる可能性が高かったように思われるからである。

 

さて、「倭国乱とは何か?」という表題を掲げながら、その周囲を回ってきただけのような気もするが、ここでその点に入って行きたい。といっても、最初に断ったように、何かすごいエビデンスのあることを指摘することができるわけではない。既に行論で指摘したことを形を変えて言い換えるだけのような気もする。

いきなり結論めいたことを書くことになるかもしれないが、結局、倭国王として認められるというのは、中国との外交関係の中でそれと承認されることを意味しているように思われる。漢書にも魏志倭人伝にも書かれているが、中国の王朝(漢、魏、晋)と使訳関係を持っていたのは、30四ヵ国であった。王朝の側としては倭人との接触・交渉の中で、倭人のどのクニが大国であるかを判断する様々な材料を得ていたに違いない。中国との外交関係の中で倭国王として認定されることの意味は、決して小さくなかったはずである。ただし、われわれは結果として倭国王、倭国の盟主国として認定された王やクニを知ることができるだけであり、その結論に到る詳細を知ることはもはやできない。

とはいえ、もちろん王朝によって認定されるためには、現実の国富が伴わなければならないことは言うまでもない。そのような国富は、人口、それを扶養する産業(稲作、手工業、海運・交易など)に求められ、また軍事力を含めてもよいかも知れない。ただし、先にも触れたように、周辺でのいざこざ(紛争)がなかったとは言えないが、実際に戦闘を行い征服したという事実というよりも、そのような軍事力をも持ちうる国力が計られたというべきかもしれない。私は、航海民が海賊に早変わりする歴史例を見ながら、普段は交易に従事している海民による船軍団の可能性も考えたが、その可能性は小さかったのではないだろうか。

もう一つ考えたいのは、祭祀、特に古墳の造営の持つ意味である。

 よく知られているように、弥生時代の宗教祭祀具は、青銅製品にあった。九州とその近隣地域が銅矛・銅剣であり、近畿やその近隣が銅鐸を中心としていた。ところが、中国地方の出雲(山陰)と吉備(山陽)で、かなり大きい墳丘墓が出現するや、古い青銅製品祭祀はあっという間に姿を消し、それに変わって古墳(前方後円墳と前方後方墳)が築造されはじめ、各地がその巨大さを競うようになった。これは今では誰でも知っている悪名高き事実である。

 しかし、何故、このような巨大な建造物を各地がこぞって築きはじめたのであろうか? そこに宗教的意味があったことは言うまでもないであろうが、もう一つの意味は、この古墳こそが、そしてその規模こそが国富を計る最良のものであったことにあるのではなかっただろうか?

 このように云うのは、私の突拍子もない思いつきではない。学問的な考古学研究者は、学問的な内容を公にする際に様々な制約を抱えているかもしれないが、それでも古墳には規模による「序列」があることを認めている。しかも、古墳の上で行われた様々な祭祀の場に当該国の首長層だけでなく、他国の首長層も出席したと思われる痕跡を認めている研究者も多い。

 

 もし倭国の盟主を決める際に軍事にあまり大きい意味が与えられなかったとしたら、以上の想定はあながち的を外しているとは言えないような気がする。とはいえ、4世紀、つまり中国における北方諸民族の南下を軸とする五胡十六国時代に、朝鮮半島でも高句麗の南下策があり、そのような情況の中で「馬」が日本列島に取り入れられるや、情況は急速に変わったのかも知れない。5世紀に馬が特に東国で盛んに飼育され、次第に運送や軍事に転用されはじめるとともに、軍事(騎馬)の持つ意義は急速に増加したものと思われる。江上波夫氏の説くような「騎馬民族」が日本列島に支配者としてやってきたというシナリオはおそらく否定されるのであろうが、馬が持つ重要性は急速に増加したものであろう。しかし、ここで問題としたのは、それ以前の時代(2~4世紀)のことである。