まぼろしの狗奴国はいずこか | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 邪馬台国に人気が集中し、日本全国津々浦々から誘致合戦が盛んで、私なども郷里の糸魚川市内に大和川という川が流れているので、立候補してみようかと思ったこともあるが、やはり大和川だけでは根拠があまりにも薄い。ところが、その邪馬台国または倭国連合と対立し紛争を起こしていたらしい狗奴国はというと、あまり人気がないらしい。

 かつて本居は、邪馬台国などは九州の女酋が大和朝廷を語って漢や晋を騙し、外交していたのであろうといい、それと対立していた狗奴国はおおかた熊襲であろうとした。以来、狗奴国については、この説が有力らしい。九州説の橋本氏はもちろん、近畿説の内藤氏も、なぜか狗奴国を北部九州からみて南方にあったとしている。

 

 しかし、私は、女王の都した邪馬台国が奈良盆地にあったという説に与してので、邪馬台国の「南」に、つまり北部九州からみてさらに遠い土地に位置していたとされている狗奴国を、「東」と読み替えて伊勢湾沿岸、あるいはそれを含む東海地域とみる仮説に傾かざるを得ない。この狗奴国は、邪馬台国と紛争を起こしたようであり、その最中に卑弥呼は死んだのであるから、もし紛争が軍事的衝突を意味するとすれば、狗奴国は邪馬台国と境を接していたとみなさざるをえない。というのは、当時の環境から判断して、どちらにも大軍を派遣するだけの余裕も手段もなかったと考えられるからである。また私は、境界線を境にしてはっきりと両勢力が分かれ、それぞれに結集したのではなく、それぞれのクニ内にそれぞれの支持勢力がいたのではないかということも考えて見た。としても、それぞれの本体は分かれてクニをなしていたとするのが妥当とは思う。

 

 現在、おそらくそのような意見(それに近い意見)に立っているのが、赤塚次郎氏であり、狗奴国を伊勢湾沿岸、つまり伊勢~濃~尾張に一大勢力を築いていた首長層のクニとみているようである。

 そこで私も昨年5月に意を決して名古屋あたりの遺跡をみる旅行にでかけてみた。とはいっても清洲城に近い博物館や古墳を除くと、ほとんどの遺跡は地下に埋め戻されてしまうため、遺跡所在地のあたりを歩いてみても、それと実感できるわけではない。

 おまけに突然に歯痛に悩まされはじめ、宿泊先のホテルで一晩呻吟したうえ、次の日に急いで自宅にもどらなければならないハメに陥ってしまった。

 

 その狗奴国だが、倭国連合をなす残余のクニグニと同じ程度の規模のクニだったのか、そうではなかったのかが気にかかるところである。邪馬台国を相手に衝突を起こしたということは、ちっぽけなクニではなく、相当に大きい国だったとも考えられるが、そうすると単に伊勢湾岸にとどまるのではなく、東海、それに美濃・信濃・毛野といった「野」の国にまで広がるかなり広い領域と狗奴国連合とでもいうべきものを形成していたのかとも、空想(妄想?)は広がる。

 ただし、今空想(妄想)と書いたが、この地域も倭種の地域であり、しかも、すでに松本の弘法山古墳のようにかなり大規模な出現期古墳を築造するほどであったことは確かである。またちょうど3世紀のころ、伊勢湾から、東海、東山道の諸地域(信濃、毛野)にかけて人々の大規模な移動が生じたことが考古学者によって指摘されている。しかも、朝鮮半島南部と倭国との交易が瀬戸内海沿岸や大和にとどまっていたのではなく、それを超え、紀伊半島を迂回して東海に繋がるか、あるいは内陸部の近江国や伊賀国を経由して伊勢湾岸や東海、三野の国に繋がる交易路があったことは否定しえない。かつ、人口分布から見ても、若狭湾~伊勢湾ライン以東の地に居住する人口数は、すでに西日本と同じほどの人口がいたと推定されている。まだ3世紀には西日本が列島の文化的中心地であったとしても、その中心は北部九州から近畿まで移動してきており、またそこからもっと東に移動するキザシはすでに見えていた。歴史は一面では構造的であり、固定的な面を持つとしても、いつまでも固定的構造が続くのではなく、常に変化するものである。

 

 これはあまり根拠のあるものではないとしても、一種の仮説であるが、ちょうど奈良盆地に位置していた邪馬台国(後の大和王権)が倭国連合の中心地をなしていたように、伊勢湾沿岸の狗奴国と、その王(卑弥弓呼素)がそれより東のクニグニの狗奴国連合の王(男王)だったのではないかと思う。もとより、そうだったとしても、倭国連合と狗奴国連合が常に相互敵対の関係にあり、交渉・交通・交易の関係を持たなかったというのではない。当然ながら、一つの列島の居住者として、妥協しつつ共生しなければならなかったはずである。ここで言う「共生」(symbiosis)とは生物学の用語であり、相互に利害を異にする植物個体が相互利益を得るために妥協して生きてゆくことを意味している。実際のところ、植物と細菌とは従来知られていなかったような相互に利益を与え合う関係にあるという。絶対的な対立も、絶対的な融和もないのが現実の生物の世界である。

 明確な結論を出すことはできず、いつも頭の中で堂々巡りをしているが、さしあたりは以上のように考えるしかないと思っている次第である。

 

 

 *伊勢湾岸は、古墳の造営の面からみても、また土器の移動(つまりは人の移動)の面からみても、東海から東国への文化的移動の起点であった。