感情労働

最近ネットで見るようになった言葉ですが、肉体労働、頭脳労働に続く第三の概念として登場した言葉のようです。

 

感情労働

 

 

どの職場にも感情労働的な場面はあり、私の職場でもその側面はあります。

簡単に説明するなら、カスハラを我慢する場面がそれにあたります、

しかし私は昔から思っていました。

 

 

カスハラを我慢しなければならないのはその職で給与をもらっている期間のみ。

退職後に憎しみが消えなかった場合、退職後環境によっては復讐という選択肢も選択可能だ。

 

 

かなりダークサイドな考えですが、例えば福祉系公務員が福祉対象者から「公僕だから従え」みたいな罵詈雑言を浴びせられ続けるのはいくら給与の原資が税だからといって過酷ではないのか(そもそも福祉の対象者の税負担は高額所得者に比べて低い)といった問題があります。

「福祉対象者から罵詈雑言を浴びることもまた給与のうち」と道徳的に納得したりさせたりすることも不可能ではないですが、だからといって退職後に福祉対象者から受けた侮辱を「脳に電気を流して抹消する」ということは人権上できないわけです。

そうなると退職後に妻子がいない独身男性は「別に復讐しても失うものは少ない」という環境にあります。

 

 

 

ここ数年、カスハラや行政対象暴力(児相に横柄な態度をとる親とそれにビビって対応失敗すると新聞が叩く)を見るたびに、ここまで増長した社会不適合者に対して「法が暴力を否定し続けること」に疑問を持つようになりました。

私が習う武術では「相手もないし自分もない」という表現で敵の挑発に乗らないことを教えられますし、システマでも「相手にコントロールされない」ということを教えられますが、それには限界はないのかという疑問もあります。

 

 

 

今までの様々な体験を元に言うと、争いになったその場で勝つためには武術が必要かもしれませんが、その場で謝って相手を立てつつ、後日闇討ち、放火みたいな方法のほうが「命のやり取り」として考えた場合は有効で成功率が高く、そういうことを想定できない「感情労働強制者」が哀れに思えてきます。

もちろん、そのようなダークサイドな方法は法的にも倫理的にもお勧めできませんが、ヒトには感情がありその処理に失敗した場合はそういう選択肢しかなくなるという可能性もあるわけです。

 

 

 

退職まであと10年とちょっと。

私の武術的旅路の目標は

 

「対戦で勝つ」ではなく

感情労働強制者の処理(自分の感情や相手の処置)

 

になっていくのではないかと予想しています。

 

 

 

前回の心法和道の稽古で気づいた重要なヒント。

それが

撃ってくるとは限らない

ということでした。

 

 

合気道やシステマの稽古法には「相手が仕掛けてくる」ことが技法練習の前提となっているものがあります。

そうなった時に私たちには2つの感情が発生します。

 

1.ベストなタイミングで動き始めたい

2.相手が撃とうと思う前に動くのは避けたい(独り相撲はイヤだ)

 

その結果、「相手の動きを見てから動く」という視力重視の動きになったり、緊張したまま動くという結果を発生させます。

システマの場合は「自分が快適なポジションを取り続ける」という助言で「見てから動くのではない」と指導してくれていますが、そうはいっても上記2で恥をかきたくない等の感情があるため、見てから動くことをなかなかやめられません。

 

 

 

また、乱取りやスパーリングといった形式の練習の場合も無気力試合が禁じられていて、両方に攻撃義務があるため「快適なポジション取り」以外の要素(相手にバレずに当てる等)があって、必ずしも敵意を察知することに適していません。

 

 

そこで私が「こうしてはどうか」と提案するのは「撃ってくるとは限らない」という思考です。

自衛隊(軍隊)のような「領土内の敵は見つけ次第攻撃」という場合を除き、現代日本における「実戦」というのはストリートの喧嘩であったり、警備業や警察官の職務上の格闘であったりするわけです。

それらの場合、相手が撃ってくるかどうかはわかりません。

相手にも法的なリスクがあるため、撃つ代わりに「失うもの」が発生します。

護身する方、警備員、警察官も同様に「正当防衛的な場面」でない限り攻撃を繰り出すことはできません。

つまり

 

相手が撃ってくるかどうかはわからない

ところからバトルは始まっている

 

のです。

そうなると、一見平和的に会話していても、その時点で相手に有利なポジションを取らせてはいけないし、自分に不利なポジションになってもいけません。

平和的な弁明や事情聴取といった段階からポジション取りを始める必要があるわけです。

そういう意識をもって稽古をすると、相手が撃とうと思ったときにイヤな雰囲気になり、その雰囲気を解消するために自分の位置を変えることができるようになってきます。

 

 

私自身、まだ完璧にできるわけではありませんが、稽古仲間たちからのヒントを自分なりに解釈して行動し、説明したところ、仲間からは「その動きが良い」とフィードバックをもらえました。

 

 

次回、自主練会か何かでお会いした方には実際に身体を使って説明しようと思います。

私と会えない方も「撃ってくるとは限らない(だからこそ相手が撃つかどうかわからないけど良いポジションを取り続ける)」を模索してみてください。

ここのところスノーボードの話題が続いていますた、今回もスノーボードで思いついた仮説です。

 

 

息子を連れて行った時も、友達を連れて行った時も、私はほったらかしにするのではなくて「楽しめるところまで付き合う」つもりでそばを離れずにいました。

そしてスノーボードの指導員が言う「行きたい方向に顔を向ける」についてはずっと声掛けをして言い続けました。

ところが息子も友達も足元から目が離せません。

 

 

それについて友達と話したところ友達から「恐怖心が先に芽生えると防衛本能から指示を守れなくなる」との感想をもらいました。

確かに私の場合、回数を重ねることで速度に慣れたり、上半身をツイストダンスのように捻ってボードを操作、速度が上がりそうなときに速度を落とす技術が身についていき、だんだんと「顔を前に向ける」ができるようになっていった経緯がありました。

スノーボードの場合は「足元の摩擦係数が極端に低くなる=転倒しやすい」と脳が認識してしまうと、本能とか反射といったレベルで足元を確認したくなり、目線を前に送る等ができなくなります。

それを打開するには恐怖心の少ない状態で回数をこなし、脳や身体に「摩擦係数が低いからと言って直ちに転ぶわけではない」「こうすれば止まることができる」ということを覚えさせていく必要があるのではないかと思います。

 

 

私がこのブログでよく「師は既に答えを言っていたのに私が受け取れていなかった。」という現象について言及してきましたが、それももしかしたら同じことかもしれません。

私が沢山経験して慣れてきたからこそ師の助言に気付くことができた、その可能性があると思いました。

 

 

武術界隈の宣伝方法として、その師がそのような宣伝をする気があるかどうかは別にして「ここに習いに行ってコツを掴めば俺も達人の動きができるかもしれない」という欲求を刺激する宣伝になりがちです。

商売の場合はそれも一つの方法としてアリだと思います。

ただ、習う側としては「数をこなさないと師の助言が届かない(≒慣れが必要)」という側面があることを心にとどめておく必要があると思いました。