全体が短い章立てに分かれているこの本の中に、十字架を主題とした一章があります(第二巻第十二章「聖(とうと)い十字架の王道について」)。なかなか強烈なテンションですが、この本は全編がだいたいこんな感じです。
次のことばは多くのひとには苛酷に聞こえる、「自分自身を否定して、あなたの十字架を執り、イエスに従いなさい」。けれども、次の極端なことばを聴くのは、それよりもずっとつらいことだろう、「呪われた者らよ、私を離れて、永遠の火の中に入れ」という。けだし、いま喜んで十字架のことばを聞き、それに従う者は、そのとき(最後の審判のとき)、永遠なる断罪の宣告を聞いたからとて恐れないであろう。そのとき、存生中、十字架につけられた者(キリスト)に身をならわせて来た、十字架の僕(しもべ)たちは、みな、すっかり安心して、審判者であるキリストに近づくだろう。
そうとすれば、なぜあなたは、天国へ行く道である十字架を負うことを、恐れるのか。十字架にこそ救いがあり、十字架にこそ生命があり、十字架にこそ敵からの護りがあるのだ。十字架にこそ天上なる楽しい思いに身を浸す喜びがあり、十字架に心の堅い力があり、十字架に霊の愉悦がある。十字架にこそ、最高の徳、十字架にこそ聖さの完成がある。十字架において以外には、魂の救いも、永遠なる生命の希望もない。それゆえあなたの十字架を執り上げ、イエスに従いなさい。……(略)
すなわち、すべては十字架にかかり、死ぬことにすべてが存するのだ。また聖い十字架と日々の苦行によらないでは、生命と真の内面的な安らぎへの道はないのだ。……(略)
(トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960年、p.91-92)
十字架そのものを集中的に語っているのはこの章くらいですが、宗教における象徴(シンボル)が信仰者にとっていかに絶対的な価値を持ち得るかがよくわかる一章であり、同時に一神教の伝統においてしばしば偶像崇拝の禁止というテーゼが提起される事情も、何となく見えてきます。ただのシンボルに対してこんなテンションで苛烈に没入する人を見たら、そりゃムハンマドも「こいつらシンボルばっかり崇め過ぎて神を見てねーぞ」と思ってしまうでしょうね。
この十字架連呼を読みながら何となく連想したのが、少し前に見た1985年の劇場版アニメ『銀河鉄道の夜』の作中で、印象的な形で出現した巨大な十字架の事でした。上記の連呼と違って現れた回数は多くないのですが、ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗ってから展開される主要エピソードのほとんどが、北十字から南十字に至るまでの途中の出来事として描かれており、作中でジョバンニが見聞きする様々な人々の人生とそこに現れる死生観もまたこの間にほぼ集中していることから、まるで、銀河鉄道の旅という形を取ってジョバンニに示された、人間の生死の運命にまつわる黙示の全体を、十字架が「アルファでありオメガ」(黙示録1:8)として括っているようにも見えます。本作を見てから改めて宮沢賢治の原作を読み返すと、いくつかのエピソードの付加や脚色はあるものの、全体としては驚くほどに原作の展開をほぼ忠実になぞって作られています。二つの十字架が幻想の鉄道によって示される人間の生死の運命全体の画期を為していると同時に、ジョバンニとカムパネルラとの最後の別れがこの二つの十字架の範囲から外れているという構成から、宮澤賢治の死生観やキリスト教観、特にキリスト教の可能性と限界について彼がどう認識していたのかを想像するのも、楽しいことでしょう。
そして北十字と南十字の二つの巨大な十字架。あのイメージも何か異様に迫ってくる存在感みたいなものがある。キリスト教の象徴的な神々しさとともに,日本人のなじんできたあの世や神への感じ方とは異質な,厳然としてそびえ立つ権威のようなものを感じる光景である。美しいが容赦ない規範のような光が示す天上への道……日本人の渡る来世はあそこにはないような気がする。
(「銀河鉄道の夜」この静謐な宇宙 ─ 4マルクの小部屋)
この1985年劇場アニメ版『銀河鉄道の夜』は、キャラクターが一部の例外を除いて擬人化された猫になっています。ジョバンニたちが特定の人格的ビジュアルイメージに固定化されるのを避けるために、あえて誰にでも見えるし誰にも見えない動物キャラにすることで、原作の持つ強い寓話性を損なわないようにしたのかもしれません。また、もともと原作自体が有名な童話であり、昔からの読者それぞれの記憶の中にそれぞれのジョバンニやカムパネルラのイメージがあるでしょうから、そうしたイメージと反発しないように「誰でもない」キャラクターにしたという発想もあったのでしょう。いずれにせよ、本作のキャラクターは一種の無人称的な存在であり、そうした「誰でもない」キャラクターが「どこでもない」幻想第四次の世界を旅するという、二重に重ねられた強いフィクション性を帯びています。原作が一種の幻想文学であることと、この無人称キャラとは決して無関係ではないでしょう。
本作の幻想性はこれにとどまらず、原作に準拠しつつイメージをさらに膨らませた背景美術にも見られます。スペインあたりの田舎町を彷彿とさせつつも基本的に無国籍的な印象を強く帯びたジョバンニたちの町。銀河鉄道の旅に入ってからは、車窓の内外に次々と非現実的な景色が現れます。北十字と南十字に輝く巨大な十字架はもちろんのこと、プリオシン海岸に横たわる巨大動物の骨の化石、鳥追いの狩人が立つ砂丘らしき場所とそこに飛来する無数の白い鷺、黒々とそびえ立つアルビレオの観測所の遺構のような巨大な建造物。そうした景色の中を時折り飛び去っていく、光る三角錐(原作の所々に出てくる測量用の「三角標」のイメージを膨らませたものでしょう)。
その一方で、タイタニック事件をモチーフにした遭難者が乗り合わせるくだりでは、いきなりジョバンニたちの乗る車両の内外に、海難事故の現場の生々しいイメージが繰り広げられます。この遭難者3人(小さな姉弟とその家庭教師)は、本作の中で唯一、擬人化猫キャラクターではなく人間の姿かたちをしています。また、ジョバンニ以外にこの列車に乗り合わせた人たちが車両を出入りする時には大概がいつの間にかフェードインしたりフェードアウトしているのですが、この3人が車室に入ってきたり、3人を含めた遭難者(と思われる人たち)が南十字に到着した列車から降りていく時には、明確に車室の出入り口のドアを開けて出ていきます。タイタニック事件は(ジェームズ・キャメロン監督の映画を待たずとも)有名な海難事故であり、幻想性が支配する作品世界の中にこうした現実の海難事故のイメージが持ち込まれ、かつその部分についての描写が意図的に幻想性を薄められている(描写のリアリティラインが変わっている)ことで、本作は映像面でも強い「死」のイメージを強めています。
