【14】自己憎悪社会 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

  「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

突きつめれば「命どぅ宝」!
【新】ツイッター・アカウント☞https://twitter.com/IvanFoucault
徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

エリ・ヴィーゼル(Elie Wiesel)
「The opposite of love is not hate, it’s indifference.
The opposite of beauty is not ugliness, it’s indifference.
The opposite of faith is not heresy, it’s indifference.
And the opposite of life is not death, but indifference between life and death.」
(愛の反対にあるものは、憎しみではない。無関心だ。
美の反対にあるものは、醜さではない。無関心だ。
信仰の反対は、異端ではない。無関心だ。
そして、生の反対にあるものは、
死ではなく、生死への無関心だ。)
——US News & World Report (27 October 1986)——
 


いとうせいこうさん「ガザを語る」Radio Dialogue 134(2023/11/1)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


‟現在のようなシステムのもとで、
人を愛することのできる人は、当然、例外的な存在である。
現在の西洋社会においては、愛はしょせん二次的な現象である。
それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、
むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が
社会を支配しているために、
非同調者だけがそれにたいしてうまく身を守ることができるから
である。
したがって、
愛のことを真剣に考え、愛こそが、
いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の理にかなった答え
である、
と考える人びとは、次のような結論に行き着くはずだ。
すなわち、
愛が、きわめて個人的で末梢的な現象ではなく、
社会的な現象になるためには、
現在の社会構造を根本的に変えなければならない
、と。
(中略)
 ・・・現代社会は、
企業の経営陣と職業的政治家によって運営されており、
人びとは大衆操作によって操られている。
人びとの目的は、もっと多く生産し、もっと多く消費することだ。
それが生きる目的になってしまっている

すべての活動は
経済上の目標に奉仕し、手段が目的となってしまっている。
いまや人間はロボットである

おいしい物を食べ、しゃれた服を着てはいるが、
自分のきわめて人間的な特質や機能にたいする究極的な関心
もっていない


 人を愛することができるためには、
人間はその最高の位置に立たなければならない

人間が経済という機械に奉仕するのではなく、
経済機械が人間に奉仕しなければならない。
たんに利益を分配するだけではなく、
経験や仕事も分配できるようにならなければいけない。
人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、
分離するのではなく、一体化するような、
そんな社会
つくりあげなければならない


 私【エーリッヒ・フロム】が証明しようとしたように、
もしが、
いかに生きるべきかという問題にたいする
唯一の健全で満足のゆく答
だとしたら、
愛の発達阻害するような社会は、
人間の本性の基本的欲求矛盾しているから、
やがては滅びてしまう

(中略)
 愛の性質分析するということは、
今日、愛が全般的に欠けていること発見し、
愛の不在原因となっている社会的な諸条件批判すること
である。
例外的・個人的な現象としてだけでなく、
社会的な現象としても、愛の可能性を信じることは、
人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、
理にかなった信念
なのである。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木晶【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、196-198頁)

————---------------------

君死にたもうことなかれ
                与謝野晶子
(旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて)


ああおとおと〔弟〕よ、君を泣く、
君死にたもうことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけ[情け]はまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。


堺の街のあきびと[商人]の
旧家をほこるあるじにて
親の名を継(つ)ぐ君なれば、
君死にたもうことなかれ、
旅順の城はほろ[滅]ぶとも、
ほろびずとても、何ごとぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。


君死にたもうことなかれ、
すめらみこと[皇統]は戦いに、
おおみずからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
大みこころ[大御心]の深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん。


ああおとおとよ、戦いに
君死にたもうことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみ[父君]に
おくれたまえる母ぎみ[母君]は、
なげきの中に、いたましく
我が子を召(め)され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)は増(ま)さりぬる。


暖簾(のれん)のかげに伏(ふ)して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を、
君わするるや、思えるや。
十月(とつき)も添(そ)わでわか[別]れたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ、
この世ひとりの君ならで
ああまた誰を頼むべき、
君死にたもうことなかれ。

――――――――――――――――――

もしフーコーの使った《生権力》という概念が
この社会に生まれ落ちた一人一人の人間
この社会に生きるに相応しい構成員として形成する〉ことを、本分として機能する権力テクノロジーだと認識して悪くはないのだとした場合
生権力テクノロジー》と
その生権力テクノロジーを
社会の運用メカニズムにつかう《この社会》
とは

或る意味〈人的資源〉としての人間に対して、
生きる意味」や「」を、、
必ずしも必要としない
のではないだろうか?

ひとつ前の記事などで、
生権力》は、
住民の生命の管理や経営を行なうものの、
他方で、
ジェノサイドも厭わず、生を死の中に廃棄する
という性格や側面をもっていることを見た。

強引ながら、
《生権力》の内容は、
フロムが言った
死への愛》や《官僚主義的産業文明》の内容と、
親和性が高いように見える。
その文明も、
快楽や楽しみは生み出しはしても
生への無関心》が根底にある。
《死への愛》は、
支配という行為のなかで生を抹殺する。
生命を支配可能にするために
生命の把握を確実なものにすべく、
生命を予期したり、予測する、
生命をモノに変える、
生命を無機物に変容させ、
機械的にアプローチする
》。

生権力じたい》は
」も「生きる意味」も、
社会の構成員の一人ひとりに求めず
人的資源以上のものは求めない》とした場合、
生命を管理しつつも、
生命を死の中に廃棄する
”し、
ジェノサイドも厭わない”ことの説明ができてしまう。


何故このようなことを考え、こんなことを書くのか?


このように記事を書いている念頭に、
徴兵や徴用》や《人的資源/人材資源》への問題意識がある。


前ページの記事を書いた後、
哲学者の高橋哲哉氏が書いた
『靖国問題』(ちくま新書)での指摘が、
あらためて強く、気になるようになった。

ぼくは、
戦前の《國體》という枠組みは
‟生権力の日本バージョン”だと書いたが、
近代以降から1945年に敗戦を迎えるまでの
70年以上、日本帝国は、
多くの壮丁が、兵士として駆り出され、戦死していった。
日本の青年を死なせるだけでなく、
多くの人間も殺させてきた


生権力としての《國體》の側面だけでなく、
高橋氏が指摘したように、
《靖国信仰/靖国神社》は
大日本帝国の軍国主義の支柱”(29頁)であったが、
その根底として《靖国信仰/靖国神社》が、
“当時の日本人の生と死そのものの意味を
吸収し尽くす機能
を持っていた”と分析する。
(高橋哲哉【著】『靖国問題』2005年、ちくま新書、29頁)。

高橋氏は、
‟靖国神社が「感情の錬金術」によって
戦死の悲哀を
幸福に転化していく装置
にほかならないこと、
戦死者の「追悼」ではなく
顕彰」こそがその本質的役割
である”(8頁)
と指摘する。

人生の目的が国家であり、
国家のために生き、
国家のために死ぬこと

‟幸福に感じられる”装置
として、
《靖国神社/靖国信仰》が機能したことを指摘したが、
個々人の人生を《国家に吞み込ませる野心》、
戦死者の生と死を、
「顕彰」に転化させようとする魂胆は、
時代状況は当時とまったく異なれども、
米中覇権戦争のなかの日本、
米軍の下請けとしての集団的自衛権の下の日本など、

戦争が始まれば、自衛隊は「アメリカ軍の言いなり」で戦う…そのとき「日本だけ」がさらされる「圧倒的なリスク」(布施 祐仁)
今日的な文脈のなかで、
根強く存在しているのではないだろうか。

岸田文雄政権は、
「安保三文書」決定によって、
戦闘国家化を進めたが、
その岸田文雄首相らによる国葬アイディアは、
ぼくには、
安倍晋三銃撃事件による安倍晋三の死”をも、
「顕彰」に転化させるべく“政治利用した”ように
見えてしまう。

というのも、
《安倍政治》は、
本当に‟国葬”に値するものだっただろうか。
なぜ“国葬”でなければならなかったのか、
疑問だからである。

私たちは、
アジア太平洋戦争では、
沖縄をはじめ日本列島の市民が
戦争の被害に遭ったことから、
忘れてはいけない戦争体験の歴史や話を
見聞きすることを通して、
戦争の壮絶さや悲惨さを学ぶが、
生権力》のテーマに絡んで、
いまひとつ、怖ろしく思われるのは、
たとえば、
戦争に勝利した事になっている日露戦争における
‟二百三高地”での旅順攻略戦に見られるような
戦地への日本兵の投入のされ方
壮丁の扱われ方の様子を垣間見ると、
身の毛がよだつからだ。

肉弾戦”という表現や言葉を
見たことがあるかもしれない。
この“肉弾戦”という言葉が生まれたのは、
櫻井忠温が日露戦争の実体験をもとにして描いた
戦記文学『肉弾』に由来すること
を、今回、はじめて知った。

旅順要塞の要衝である二百三高地のはげ山を
投入された日本兵が、下から昇って、
ロシア軍の要塞を攻め落とそうとする
のだが、
高地の要塞からのロシア軍からの銃撃により、
みるみる死体の山ができあがった、という。
投入される日本兵の壮丁たちは、
その死体の山を踏み越えながら
要塞攻略を目指す波状攻撃
が繰り広げられた。

遺族は、
戦死者の家族を失う悲痛の苦しみを抱えるが、
名誉や栄光すら与えられず、
戦死者も、その存在を忘れられるだけ。

戦死者とその遺族に、
戦死することの栄光と名誉を与えて、
‟戦死することが幸福である”ように
《転化させる》ために、
国家的儀式をもって戦死者を「顕彰」し、
そのことを通じて
遺族の不満をなだめ、
家族を戦争に動員した国家に
間違っても不満の矛先が
向かないようにしなければならない

(高橋哲哉『靖国問題』44頁)
そのための「装置」として
《靖国信仰/靖国神社》が機能した。

今日の日本の政治内容の乏しさは問われず、
とにかく
日本国家のために生まれて、
日本国家のために死んでもらう「装置」
》は、
今日&以降においては
靖国神社や靖国信仰ではなく、
別に何か発明される新しい「装置」”かもしれない


《靖国信仰/靖国神社》や《国家神道》が
‟当時の日本人の生と死を吸収し尽くす”機能を
果たしたことに加え、
いま一つ、生死の安楽装置だけでなく、
皇統仏教などの《明治国家の皇統宗教》が
人を殺すことへの「抵抗心や安全装置」を
《麻痺させる》べく機能すること
を期待されていたことがある。

28-2】戦前に形成された《国体》と、敗戦後処理のその『痕跡』と、戦前&戦後の《人的資源》政策

たとえば
ブライアン・アンドリュー・ビクトリア
『禅と戦争』に、次のような記述がある。



“一九〇四年、日露戦争が勃発するやただちに前線へと送られて、
そこでの出来事が「沢木興道聞き書き」の中で、
次のように語られている。
日露戦争を通じて、
わしなども腹一ぱい人殺しをしてきた。
なかでも、この得利寺の戦いでは、
敵を落とし穴に追い込んで、
ねらいうちにして能率を上げた
もの
で、
中隊長はとくに、わしのために個人感状を申請したが、
感状はおりなかった

(引用者中略)
「・・・・生死解脱ということは、
命を捨てることではなく、欲を捨てること
である。
欲にも色々ある。名誉欲もあり、財欲もあるが、この総ての欲を捨てる。
一切の欲を捨てる。
一切投げ出すのである。
ここに宗教がある。
ここに悟りがおりる。
ここに道がある。
・・・これを
我が日本の軍隊にすれば、
軍旗の下に水火もいとわん。
軍旗の下に命も物の数ではない
と云う、
その境地である。
わしはそれで、念彼[ねんぴ]軍旗力と云う。
この軍旗の下に身を捨てる。
これは実に無我である。
またこれが職域では、
どの職でも職域奉公となる
」と。
 興道自身、再び戦場に赴くことはなかったものの、
禅と戦争との一体性は一貫して主張しつづけてきた
これを証すのに
一九三九年には「内閣武道振興会委員会」の委員の一人となり、
子供たちを戦場へ送り出す下準備を奨励している

一九四一年から一九四二年にかけては
日本の傀儡国満州へも出かけ、
法話と称し、軍人、民間人の前で戦争を奨励した

このような彼の行為は、
やがて政府の認めるところとなり、
一九四三年十一月三日、
賞勲局より、銀杯を授かることとなった。
満州での彼の記録はもはや存在しないが、
一九四二年出版の大法輪において
十分にその時代の彼を推測させる記事が残されている。

「法華経の“三界は皆是れ我が有なり、其中の衆生は皆是れ吾が子なり”。
ここから出発すれば、
一切のものは、
敵も味方も我が子、
上官も我が有、部下も我が有、
日本も我が有、世界も我が有の中で、
秩序を乱すものを征伐するものが、即ち正義の戦さである。
ここに殺しても、殺さんでも、不殺生。
この不殺生戒は剣を揮[ふる]う。
この不殺生戒は爆弾を投げる

だからこの不殺生戒というものを参究しなければならん。
この不殺生戒というものを翻訳して、
達磨はこれを自性霊妙と云った
」。
[沢木興道「禅戒本義を語る」 『大法輪』 1942年1月号 P.107] 

ここで述べてきた興道の考え方とは、
鈴木大拙をはじめとする禅の信奉者たちの幅広い考えの一つである。
つまり、「無我の境地」、つまり「絶対の境地」に入ったとき人は、
人を殺そうが、爆弾を投げつけようが、
その行為は
本人の意志の外側に存在するもの

ゆえに
本人の意志とは無関係な型で行為そのものが
実行されたのであれば、
当然本人の決断や責任はまったくない
というものである。
(引用者中略)
さらに彼[興道]は戦後になると
曹洞宗の開祖、道元禅師までもが
皇軍にしかるべき精神構造を導いたと主張。
「道元禅師はそれだから、吾我をすてろ。
吾我を忘れて潜かに修すと云われた。
それを正法眼蔵の生死の巻にはこう云われた。
『ただわが身をも心をも、はなち忘れて、仏のいえになげいれて、
仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、
ちからをいれず、こころをもつひやさすじて、生死をはなれ仏となる』と。
これを言葉をかえていうと、
ただ我が身をも心をも
その事のいかんをとわず、
上長の命令に服従し、
これに従ひもて行く時、
直ちに陛下の股肱[ここう]として
完全なる兵隊になる

〔沢木興道「生死のあきらめ方」 P.6〕”
(ブライアン・アンドルー・ヴィクトリア【著】『禅と戦争』、光人社、-54頁)

《近代性》や《生権力》とはまた別に、
時代や国を問わず
戦争そのものが‟人を狂わせる”こと
が、
戦前の日本兵士の告白でも、
またベトナム戦争の帰還兵の告白や体験談でも、
知ることができる。
ホロコーストを成立せしめた《近代性
——《抽象化》や、
距離をつくることによる《非人間化》——とは真逆で、
‟兵士自身が非人間化してしまう”ことを
戦争は生み出してしまうこと
を、
私たちは学ぶことができる。


わたしは戦争というものは
一面、狩猟――ハンティングのようなものだと思っていました。

 どうやって獲物を発見し、どうやってそれをしとめ、
どうやって獲物におそわれずにジャングルの中で生きのびるか。
まさしく、それは狩りのようなものです。

 敵を見つけるためには、
敵のトイレのあとを見つけることが重要です。

 ジャングルで戦ううちに、わたしは
敵のトイレのあとを見つける術を身につけました。
トイレを見つけたら、それをほり、敵の大便を調べます。
そのことで敵についての情報がわかります

敵はいつごろここにいたのか。
どんなものを食べていたのか、水はあるのか。

 そういった情報から
敵の行動パターンや位置を推測するのです。

 まさしく動物の糞から動物の行動を知るようなものです。

 また、臭覚もますますとぎすまされ、目も良くなり、
暗い夜でも遠くまで見えるようになってきました。
聴覚もするどくなり、
音だけでそれが人間の足音か動物の足音かが
聞き分けられるようになりました。

 つまり、
ジャングルでくらし、ほんものの戦争を続けるということは、
自分自身が動物のように、野性的になっていくことでもある
のです。

 そんなふうにして、わたしは兵士として熟練し、
そして無慈悲に人を殺しつづけた
のでした。”
(アレン・ネルソン【著】
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』
2010年、講談社文庫、93-94頁)
―――・――・――・――・―――

"わたしは目をつむりました。
わたしの心の中に深い暗闇が穴をあけていました。
そして、その暗闇の中から、
私が初めて殺したベトナム人の死体がうかびあがってきました


 彼が四〇代ぐらいの男性で、
裸足に古いタイヤのゴムで作られたサンダルをはき、
パジャマに似た黒い木綿の野良着を着ていました。

 苦しげに開けられた口からのぞく歯は茶色によごれていました。

 おびただしい血が
地面に赤茶色に水たまりをつくっていました。

 上官の声が聞こえます。
――「これでおまえも一人前の兵士だ

 そしてわたしにナイフを手渡し、上官はこう言います。
――「記念に これで死体の耳を切り取れ


 胃がむかむかする不快な感覚におそわれ、
吐いてしまったわたし。

 それでも、わたしは満足だったのです。
人を殺したことに誇りさえ感じていた
のです……。

 最初の殺人の記憶は、
閉じたまぶたの裏にはりつき、なかなか消えませんでした
。”
(アレン・ネルソン【著】
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』
2010年、講談社文庫、25-26頁)



 ——また軍隊は軍隊で、
徴兵した兵士を戦場に送るために
人間性や信念や人格《事前に破壊する》こと
ベトナム帰還兵(故)アレン・ネルソン氏の体験談から知ることができる。



‟・・・教官から一人ずつに屈辱的なあだ名がつけられ、
キャンプ中はずっとそのあだ名でよばれることになります。
つまり、今までのすがたと名前強制的にうばわれ、
過去の生活に別れを告げさせられる
というわけです。
(中略)

 また、素手でいかにして敵を殺すかも学びます。

 わたしたちが学ぶものはすべて
ひとを殺すための方法
であり、
その目的は
人を殺すことをなんとも思わない心をつくりあげることです。
(中略)

たとえば、点呼【てんこ】のときなど、
少しでもぼんやりしていようものなら、
教官がやってきて耳元でこうささやくのです。

 「どうした?
ガールフレンドのことでも思い出しているのか?
おまえのことなんか待ちつづけるもんか。
いまごろ
ほかの男とつきあっているにちがいないさ


 若者の心を、教官は
そんなふうにして もてあそび、ズタズタにし
基地の外側に広がる
平和で平凡な生活に対する未練や夢

うばい去っていく
のです。

 そんな日々のくり返しの中で、わたしたちは
人を殺すことへのためらいや、罪の意識
少しずつ失っていきました


 そしてそれが海兵隊員になるということでした。

 戦場で、おそれることなく、
上官に言われるがままに
人を殺す人間になるということが。

 兵士は考えてはいけないのです。
考えるのは上官の仕事だから
です。
(中略)

 そんなふうにして、
わたしたち若者の心と肉体
わずか数カ月で
無慈悲で暴力的なものへと変えられていった
のです。”
(アレン・ネルソン【著】
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』
2010年、講談社文庫、45-52頁)

ハートマン軍曹&オマージュ


――・――・――・――

‟ 戦争を生きのびた者のひとりとして、
ほんとうの戦争について語ることは、
とりもなおさず、
まずしい人、罪のない人にとって、
戦争はどういう悲劇をもたらすか

語ることでもあります。

 そして、
戦争から生まれ出るのは
新たな戦争でしかなく、
戦争から平和が生まれることなど
けっしてありえない
のだ
と気づいてもらうことです。

 前線で実際に戦った者
戦争を賛美する者はひとりもいません
もし、戦争を経験していてもなお、
戦争を肯定する者がいたとしたら、
その人は
後方の基地でデスクに向かっていたか、
炊事班でコックをしていたかで、
人が殺しあう前線に行ったことがない人
にちがいありません
。”
(アレン・ネルソン【著】
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』
2010年、講談社文庫、149頁)

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《生権力》というものが、
この当時における社会に生きる値し、

相応しい構成員として
この社会に生まれ落ちた一人一人の人間
主体を形成すること
、本分として機能する
権力テクノロジー》だとした場合、
その一人ひとりは
その都度の(社会)状況に適った人的資源/人材

であれば、
生権力は、それ以上は求めていない
かもしれない。


しかし、フロムは言う。



現在、私たちの生への接し方は しだいに機械的になってきている。
私たちの主な目的はモノをつくることであり、
物質を崇拝する過程で自分たちも商品へと変わっていく。
人は数字として扱われる

ここでの問題は、
それらが大事にされ、十分に食べさせてもらえているかどうか
ということではない(モノも大事にされることはある)。
問題は、
人間はモノか生物かということである。
(中略)
人間への接し方が合理的かつ抽象的である。
モノとしての人間、
つまりその共有財産、集団行動の統計的原則に興味を持ち、
生きている個人には興味をもたない。
これらはすべて、
官僚制的手法の役割の高まりと軌を一にしている。
巨大な生産拠点、巨大な都市、巨大な国家では、
人はモノのように管理される。
人はとその管理者はモノに変容し、モノの法則に従う

しかし人間はモノになる必要あるわけではない
モノになったら人は破壊されてしまう
そうなってしまう前に、自暴自棄になって
すべての生を殺したいと思うようになる
のだ。”
(エーリッヒ・フロム【著】/渡会圭子【訳】
『悪について』ちくま学芸文庫、2018年、69頁)

「戦争のつくりかた」アニメーションプロジェクト
-What Happens Before War?-



◇◆◇◆◇◆◇◆

哲学者のミシェル・フーコーが
「権力」にたいする捉え方は、
私たちがイメージするような
一般的なイメージではない、ということを、
これまで伝えていなかった。

権力についての一般的イメージとして
たとえば、
デジタル『大辞泉』での
「権力」についての意味説明を見てみると、

‟他人を強制し服従させる力。
特に国家や政府などがもつ、国民に対する強制力。
「権力を振るう」「権力者」”

となっている。
確かに、そうした強制的な力を指して
私たちは「権力」という言葉を使う。

しかし、フーコーは、
権力について見つめたときに、
統治や権力には、
そうした禁止的な力や抑圧的な力だけでなく、
じつは、少なくとも今日の権力には、
もっと奥行きがあり、芸当が多様な能力を見せ、
ものに入り込み、ものを生み出し、
快楽を誘発し、知を形成し、言説を生み出す
・・・・〉
といった側面や性質を見せる、という。

むしろ権力には、
そうした側面や性質があるからこそ、
権力は、社会の全域にわたって
張めぐされている生産網
で、
権力は「生産的な関係性」のものだ、
という権力イメージを、フーコーは提示した。

〈権力〉というものを、
他人を強制し服従させる力、
という‟強引なもの”という角度から見るのではなく、
もっと視野を広げて、
他者を誘い込み、
自分の意図どおりに服従させる行動の総体

という角度から、権力を捉え直すことの提示を行った。
しかし、相手には相手の都合もあるので、
他者を自分の思い通りに動かすことはできない。
その事から、
——もちろん、
こちら側とあちら側との間には、
置かれた状況やもっているものに差があったり、
非対称な立場などの差があるとしても——
権力とは、
自分と相手との間で繰り広げられる、
〈それぞれの戦略的意図のゲーム関係〉
のイメージを示した。

〈そうした権力イメージ〉で
あらためて世の中を捉え直すと、
新しい見方ができるようになる。

たとえば、
上西 充子法政大学キャリアデザイン学部教授は、
『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)などの
数々の発信を通じて
私たちの日常において、
ある《呪いの言葉》が
設定されたり機能する事によって、
‟私たち一人一人のマインドや考え方、
言動や選択が縛られている
”様子を、
明らかにすると同時に、その「解き方」の案内もしている。
《呪いの言葉》が、
ある決まった型や枠組みに、
他者を誘導し、縛り付けるものとして
機能するもの
だとすれば、
権力的な性質をもった装置・仕掛け
と捉えることができるかもしれない。

また、フーコーが提示した権力像について、
例えば
米アップル社シニア・マネージャーであった松井博氏は、
その著書『企業が「帝国化」する』の中で、
アップル、マクドナルド、エクソンなどの
巨大グローバル企業には、
 “世界中を着々と支配し始めている「私設帝国」”
と形容したが、
〈そうした巨大企業〉の経営戦略には
どこも似た共通点
があり、
その共通点の1つは、
フーコーの提示した〈権力〉像のように見えるものがある。

その共通点の1つというものは、

《顧客を「餌付け」する強力な仕組みを持っている》
《顧客を「依存させる」仕組みをもっている》


という特徴を見つけることができる、と指摘する。

“帝国”企業の経営戦略では、
従来や既存のとは
まったく異なる価値観やサービスを提供し、
《顧客を
ガッチリと自社の「仕組み」の中に取り込み》、
顧客側が
《「帝国」に依存し続けるしか無いような構造を
創り上げる》
という点で共通する、という。

私設帝国企業の経営が成功すれば、
消費者の意識・無意識に関係なく、
消費者の「選択の自由」は《狭まれ》、
その顧客は《囲い込まれる》‟現実が作り上げられる”


じじつ、アップルなどの経営者陣は
自分の子どもには
「スマートフォンを持たせない」
という事実そのものが、
スマートフォンが”どのようなものであるか”を
物語っている。

また、数回前に言及した
マイクロソフトの《更新強制》も
ビルゲイツの《アフリカ緑の革命連盟(AGRA)》などでの動きも、
フーコーの言う
他者を誘い込み、
自分の意図どおりに服従させる行動の総体

という権力観に合致する。
私たちは
マイクロソフトのWindowsの利用を
強制的に押し付けられたワケ”ではない”。
しかし、
WindowsOS利用の互換性や汎用性、
それに伴うマーケットにおけるWindowsOSの席巻と、
WindowsOSの‟使い勝手の良さ”という
《誘惑の装置》によって餌付けられているように見える。
言い換えれば、
誘い込みまれ、
相手の意図どおりに服従させられている
〉ように見える。

封建時代のような、
剣をふるう形でしか、
あるいは
拷問をふるい、領民の持ち物を奪う、
というごく限られた場合や範囲で
権力をふるう位しか、
出来ることがなかった権力
から、
ペストの脅威(を通して統治技術が磨かれ)が去り、
また医療技術が発達し、
農業生産力や経済発展が進み、
政治権力が
世の中の成員ひとりひとりの生を取り囲み、
管理統治をするようになると、
そうした状況となった中での権力は、
社会における一人一人を、
〈この社会に生きるに相応しい構成員として形成する〉ことに
神経や労力を注ぐように、
権力の形態や方向性や性格、
それに伴う権力テクノロジーの内容
が、一変するのであった。

◇◆◇◆◇◆◇◆

ひとり一人の生を
権力が取り囲み、統治するようになったとき、

たとえば「性」は、
個々人にかんする事柄でもあると同時に、
人口の問題でもある結節点
であった。

性について口にすること、語ることは
一面的には、タブーで抑圧的に感じる。
しかし、それは
社会全体の状況からすれば、
むしろ、
統治権力が性≒生を囲い込んでいることの裏返しなのだ、という。
〈ある特定の知や形式〉による言説のもとで、
性を囲い込むことを通じて、
生を管理コントロールしているの一環だ
、とした。
性は、
個々人の身体や行為といった
ミクロ的なものでもある
と同時に、
人口というマクロ的なものでもあり、
ミクロな生とマクロな生とが交差するものだからだ。
性≒生を管理統治するテクノロジーの内容
抑圧・禁止するものばかりでなく、
それどころか
欲望を誘発しさえする側面、
置かれた状況に応じて、
可変的で戦略ゲーム的な動態性の動きを見せる
、という。



“・・・問題は、性についてのある種の知の形成を
抑圧や法という関係においてではなく、
権力の関係において分析すること
である。
(中略)
権力という語によって
まず理解すべきだと思われるのは、
無数の力関係であり、
それら〔無数の力関係〕が行使される領域に内在的で、
かつ
それら〔無数の力関係〕の組織の構成要素
であるようなものだ。
たえざる闘争と衝突によって、
それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲーム
である。
これらの力関係が
お互いの中に見出す支えであって、
連鎖ないしはシステムを形成するもの

あるいは逆に、
そのような力関係を相互の切り離す働きをするずれや矛盾である。
さらに言うなら、
それらの力関係が効果を発揮する戦略であり、
その全般的構図ないし制度的帰結が、
国家の機関、法の明文化、社会的支配権において
実体化されるような戦略である。
(引用者中略)

権力は至る所にある
すべてを統括するからではない、
至る所から生じるからである。
(引用者中略)
権力とは、
1つの制度でもなく、
1つの構造でもない

ある種の人々が持っているある種の力でもない。
それは特定の社会において、
錯綜した戦略的状況
に与えられる名称なのである。
(引用者中略)

 ――権力とは
手に入れられることができるような、
奪って得られるような、
分割されるような何物か、
人が保有したり手放したりするような何物かではない。
権力は無数の点を出発点として、
不平等かつ可動的な勝負【ゲーム】のなかで行使される
のだ
ということ。

――権力の関係は
他の形の関係(経済的プロセス、知識の関係、性的関係)に対して
外在的な位置にあるものではなく、
それらに内在するものだということ。
そこの生じる分割、不平等、不均衡の直接的結果としての作用であり、
また相互的に、これらの差異化構造の内的条件となる。
権力の関係は、
単に禁止や拒絶の役割を担わされた上部構造の位置にはない。
それが働く場所で、
直接的に生産的役割をもっている
のだ。

――権力は下から来るということ。
すなわち、権力の関係の原理には、
一般的な母系として、
支配する者と支配される者という二項的かつ総体的な対立はない。
その二項対立が上から下へ、ますます局限された集団へと及んで、
ついに社会体〔社会構成員〕の深部にまで至る
といった運動もないのである。
むしろ次のように想定すべきなのだ、
すなわち
生産の機関、家族、極限された集団、
諸制度の中で形成された作動する多様な力関係は、
社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっている
のだと。
このような効果が、
そこで、局地的対決を貫き、
それを結びつける全般的な力線を形作る

もちろん、その代わりに、
これらの断層の効果は、
局地的対決に働きかけて、
再分配し、列に整え、均質化し、系の調整をし、収斂させる

大規模な支配とは、
これらすべての対決の強度が、
継続して支える支配権の作用=結果
なのである。

――権力の関係は、
意図的であると同時に、非-主観的であること
事実としてそれが理解可能なのは、
それを「説明して」くれるような別の決定機関の、
因果関係における作用であるからではなく、
それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。
一連の目標と目的なしに行使される権力はない。
しかしそれは、
権力が個体である主体=主観の選択あるいは決定に
由来することを意味しない。
権力の合理性をつかさどる司令部のようなものを求めるのは
やめよう。
統治する階級【カースト】も
国家の諸機関を統御する集団も、
最も重要な経済的決定をする人々も、
一社会において機能し
(そしてその社会を機能させている)権力の網の目の総体
管理・運営することはない。
権力の合理性とは、
権力の局地的破廉恥といってよいような、
それが書き込まれる特定のレベルで
縷々極めてあからさまなものとなる
戦術の合理性であり、
その戦術とは、
お互いに連鎖をなし、呼び合い、増大し、
己の支えと条件とを他所に見出しつつ、
最終的には全体的装置を描き出すところもものだ。
そこでは、
論理はなお完全に明晰であり、
目標もはっきり読み取れるが、
しかしそれにもかかわらず、
それを構想した人物はいず、
それを言葉に表した者もほとんどいない

ということが生ずるのだ。
無名でほとんど言葉を発しない大いなる戦略のもつ暗黙の性格もあって、
そのような戦略が多弁な戦術を調整するが、
その「発明者」あるいは責任者は、
縷々偽善的な性格を全く欠いているのだ。


――権力のある所には抵抗があること、
そして、それにもかかわらず、
というかむしろまさにその故に、
抵抗は
権力に対して外側に位するものでは決してない
ということ。
人は必然的に
〔その都度の何らかの内容をもった〕権力〔の意図的戦略の関係性の〕の
「中に」いて、
〔関係性のかたちをした、意図的戦略性をもち、創造的な〕権力から
「逃れる」ことはなく、
権力に対する絶対的外部というものはない

何故なら人は否応なしに法に従属させられているから、
と言うべきであろうか。
(引用者中略)
権力の関係は、
無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない

後者は、
権力の関係において、
勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。
これらの抵抗点は、
権力の網の目の中には至る所に現出している

権力に対して、
偉大な《拒絶》の場の1つ
――反抗の魂、すべての叛乱の中心、革命家の純粋な掟といったもの――
があるわけではない。
そうではなくて、
複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。
可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、
統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している。
這って進むかと思えば暴力的、
妥協不可能かと思えば、取引に素早い、
利害に敏感かと思えば、自己犠牲的
である。
本質的に、抵抗は権力の力関係の戦略的場においてしか存在し得ない。
(中略)

抵抗の点、その節目、その中心は、
時間と空間の中に、程度の差はあれ、
強度を持って散らばっており、
時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、
身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形
に火をつけるものだ。
重大な根底的断絶であり、大々的な二項対立分割だろうか。
縷々そうである。
しかし、最も頻繁に出会うのは、
可動的かつ過渡的な抵抗点であり、
それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、
統一体を破壊し、再編成をうながし、
個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、
個人の中に、その身体とその魂の内部に、
それ以上は切りつめることのできない領域を定める。
権力の関係の網の目が、
機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成
しつつ、
しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、
群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである。
(中略)

 このような力関係の場においてこそ、
権力のメカニズム
の分析を試みなければならない。”
(ミシェル・フーコー【著】/渡辺守章【訳】
『性の歴史Ⅰ 知への意志』
1986年、新潮社、125頁)


こういった感じで、
権力は、
無数の点からなる関係で織りなされた
網の目のような状態をしたもので、
その関係の網の目のなかで
戦略的ゲームのように
動態的で可変的な動きをみせるもの、

というイメージを、示したのであった。

生権力について割く字数が
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