このたびの大阪北部の地震により、
亡くなられた方々に
心からお悔やみを申し上げ、
被害に遭われ、今も苦しんでおられる方々に
お見舞いを申し上げます。
【〈前回記事(【19-⑨】)〉からの続き】
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「原発は何処から、何処へ――
独自の資源外交を展開して失脚
米国の「核の傘下」から跳び出そうとした田中角栄」
山岡 淳一郎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111004/223006/
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基地反対の或る沖縄県民の方に、
‟翁長・オール沖縄体制を
ヤマトの私たちが
見守っているどころではなくて、
独立国としての(対米)自主化の道を
もし歩むのならば、
翁長・オール沖縄のように、
さまざまな試練を
受けている立場にあるはずだから、
この点でも、
保革一致の翁長県政の姿は、
私たち日本にとっての手本だと思っています”
と、この思いを話したところ、
その応答も含めて教わったのが、
「田中角栄の失脚の背景にあった資源外交」のことでした。
そしてネット検索してみると、
冒頭に貼りつけた記事を
はじめて知ることになったのでした。
上の記事の筆者の山岡 淳一郎氏も、
この記事の初めのほうに、
私たちはエネルギー供給が途絶えれば
大騒ぎのパニックに陥るにもかかわらず、
私たち日本人は、
《エネルギー資源問題に対して
根本的に鈍感》で
‟エネルギー政策をコントロールする側からみれば、
これほど御しやすい国民もいない”
と指摘しており、
‟エネルギー資源は、政治と密接にかかわっている。”
と記事で、その関係ぶりを紹介するのでした。
すでに事業として破綻しているにもかかわらず、
いまだに〈日本政府/経産省〉が
――権益などを今の場合は抜きにして――
(核兵器保有の野望の他方で)
《ウランを準国産エネルギー》として位置づけ、
《使用済燃料を再処理することに固執》する、
そのキッカケが、《石油ショック》であり、
《石油ショック》を契機に、
“石油を断たれたら日本は沈没する”
という危機感から、
田中角栄は〈資源外交〉を初め、
それが、
アメリカの虎の尾を踏むこととなり、
田中角栄内閣の失脚に繋がったようです。
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前回記事では、
〈仕入れた材料や商品を
自社で再生産させて、付加価値をつけて
納品先の取引企業に販売したり、
あるいはお客さんに販売する〉
という
〈分業的な経済ライン(流れ)〉をした
〈社会的分業の(循環的な)生産プロセス〉で、
〈支払い〉が《滞って》も、
また〈おカネ=支払い〉だけでなく、
〈エネルギー〉や〈物流〉、
また〈ライフライン〉が
《停滞》したり《遮断》しても、
この分業社会は《行き詰まる》ことを、
《福井豪雪》を取り上げることを通して
際立たせ、強調させてもらいました。
〈この経済社会〉における
〈石油などのエネルギー資源〉の重要性に、
気づかされる事例の一つとして
1970年代初めの《石油危機》と、
日本の高度経済成長の‟終焉”を
挙げることができるか、と思います。
《石油価格上昇による石油コストの上昇》が
「物価を引き上げた=インフレ」
(コスト・プッシュ・インフレ)であった事から、
《経済における
エネルギー資源の占める位置や重要性》や
あるいは又、
日本も《石油依存文明の経済》であることを
―20世紀に米国主導で築かれた文明―を
確認することが出来ます。
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日本の高度経済成長を止めたのは
《石油危機》ばかりでなく、
《他にも要因》があります。
がしかし、
この記事で着目・強調するのは
直接にインフレに影響を与えている
《石油というエネルギー資源》ですので、
《経済における石油資源》の側面を
強調します。
以下、
橋本寿朗『戦後の日本経済』を
見ていきたいと思います。
【高度経済成長の終焉】
‟ 過ごしにくい夏をこえて、
秋に入った途端に勃発したのが
第4次中東戦争、石油危機であった。
石油危機の経済メカニズムについては
第Ⅳ章にで述べるが、
それが市民生活を不安に陥れたことを指摘しておきたい。
11月、「トイレットペーパーがなくなりそう」
と数百人の主婦が尼崎の大規模小売店に殺到し、
83歳のおばあちゃんが押し倒されて大ケガをした。
トイレットペーパーの買い占めは全国に波及し、
さらに洗剤などにも及んだ。
砂糖や塩までもが買い占めの対象になった。
供給不足の不安が強く、
スーパーで買い物をしていた主婦が
「塩は大丈夫か?」と語り合って、
塩を買ったところたちまち品切れになり、
それ付近のスーパーにも波及した。
専売公社は
塩は専売で20年間価格は安定し、供給不足の心配はない
という異例のコメントを発表したのである。
インフレが加速しているところに、
石油危機が発生し、さらに為替は円安になったから、
激しい物価上昇が生じ、
「狂乱物価」と言われた。
これを「千載一遇」のチャンスと考えて、
石油元売業者は闇カルテルで値上げを追求したが、
日本経済が石油多消費型になっており、
トイレペーパーや洗剤なども石油を多消費して生産され、
しかも水洗トイレ、電気洗濯機の普及によって、
トイレットペーパーや洗濯洗剤を
落とし紙や石鹸など他のものに代えて利用することが困難だ
という生活様式の変化が、
「狂乱物価」の背後にあったのである。
(引用者中略)
したがって、この石油危機を介して
石油の多消費型経済構造の転換が開始される。
そして1974年にはマイナス成長を記録し、
高度経済成長も終焉した。”
(P.28-29)
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《経済成長の低下》
〈「転換」始まった70年代〉
・・・・・・1970年代初めは
20世紀システムの第一段の転換が明確になった時期であった。
そして、日本経済の成長メカニズムも転換した。
転換ポイントは、
国内的に労働力不足が著しくなったことであった。
1960年代末から新規採用者の初任給が急速に高くなり、
春闘におけるベースアップ率も
69年に15.8%、70年に18.5%と著しく高くなったのである。
しかも、平均賃金の上昇率はベースアップ率を上回った。
定期昇給のためでもあるが、
就業者の平均年齢の低下による平均賃金引下効果が
働かなくなったためでもあった。
高度経済成長期には安定していた賃金コストが
急速に上昇したのであった(日本生産性本部『活用労働統計』)。
そして、1971年8月には
アメリカ大統領ニクソンが新政策を発表した。
日本経済にとっては、
ドルと金の交換を停止したこと、
10%の輸入課徴金を導入したことが重要であった。
日本政府、日本銀行は
円切り上げを回避するための行動をとり、
欧米と異なって、
東京外国為替市場を2週間にわたって開けたままにした。
それには時の大蔵次官鳩山威一郎が
日本は
「為替管理をうまくやっている。
だからレートは守れるぞ、それは西独とは違うんだ」
(前掲『昭和財政史 昭和二七-四八年度 金融(一)』)と
のちに証言したしたような国際金融当局の自信もあった。
日銀はドル売り円買いに立ち向かった。
しかし、ドル売りの大半は投機ではなく、
輸出業者のドル受取のリーズ(代金支払いを早めること)、
外国為替銀行のヘッジング(リスクを減少させるための為替取引で
直物と先物で反対のポジションをとること)によるものであった。
この結果、日銀は
累計で40億ドルもドルを買い続けたため、
国内への円資金供給が急増して、
いわゆる「過剰流動性」問題が発生した。
9月には消費者物価が前年比10%を越える上昇を記録した。
年末のスミソニアン会議では
日本の水田三喜男蔵相が
アメリカのコナリー財務長官との会談で、
日本円をドルに対して、16.88%引き上げ、
1ドル=308円とすることを「飲まされた」とみられた(速水優『海図なき航海』)。
円ドル切り上げによって
ドル建てで評価した労働コストは一段と高くなり、
輸出産業が不振になって雇用不安も生じると危惧された。
円切り上げのデフレ効果が予測され、
拡張的財政政策が採用された。
とくに、1972年6月に「日本列島改造論」を発表した田中角栄が、
佐藤後継を福田赳夫と争った「角福戦争」に勝利して
田中内閣を組閣した後は、
拡張的な政策が一段と明確になった。
これは調整インフレ政策であった。
つまり、
インフレによって〔名目に比べて〕実質賃金を引き下げ、
円切り上げのデフレ効果を相殺し、
さらに円切り上げの再燃を避けようとしたものであった。
「過剰流動性」を背景に「日本列島改造論」に乗って、
全国で土地の買い占めや、
木材、大豆などの買い占めが行われた。
新幹線計画、観光開発計画、
東京100km圏などで地価上昇が著しく、
1973年4月に発表された公示地価は、
全国平均で前年比30.9%の大暴騰であった。
また、4月発表の「大手商社実態調査中間報告」によれば、
71年8月以来、六大商社に9500億円の資金が流れ込み、
そのうち6600億円で
土地や羊毛、毛糸、綿糸、生糸などが買われたのである。
インフレのテンポが速まり、
実質経済成長が低下し始めた。
〈石油危機の勃発〉
1973年10月、第4次中東戦争が勃発すると、
アラブ石油輸出国機構(OPEC) は石油公示価格を引き上げ、
イスラエル支持国に対しては
月5%の割合で石油供給を削減することを通告し、
11月には25%という大幅な石油減産を決定した。
これを契機に
石油価格をはじめとして卸売物価の暴騰が生じた。
石油危機の勃発であった。
石油危機勃発の経済メカニズムは、
ごく単純にいえば、次のようである。
OAPEC石油減産を行った時、
1960年代初めと異なって、
テキサスやベネズエラなどの油田で増産して、
OAPECの減産を代替できなかった
(馬場宏二編『シリーズ世界経済Ⅰ』)。
(引用者中略)
原油輸入価格は
72年度のバーレル当たり2.6ドルから
74年度の11.5ドルへと4.5倍に暴騰したのである。
石油価格が4.5倍に暴騰したが、
日本が100%輸入する石油価格が変化しても
輸入量は短期的には変わらないから、
交易条件の悪化に注目すれば、
石油価格が上昇した分に相当する国民所得が、
日本から石油輸出国に移転した、と解釈できる。
供給サイドに注目すれば、
エネルギー生産性の劇的な低下が起こったのと同じことであった。
この生産性低下を相殺する条件は短期的にはなかった。
高度経済成長のメカニズムは《崩壊するほかない》のである。
この結果、物価上昇に大きな変化が生じた。
それまでの卸売物価安定、消費者物価上昇という関係が一変した。
卸売物価は1974年第1・4半期には前年同期比で
35.5%も暴騰した。
それは消費者物価の24.5%を上回った。
狂乱物価は「新しい価格革命」(宮崎義一『新しい価格革命』)でもあった。
〈スタグフレーションは短期終息〉
石油危機発生後、
日本政府はインフレ抑制のため
「統制経済」的手法を採用した。
1973年11月、政府は
「石油緊急対策要綱」を決定し、
石油、電力消費の節約について具体的な行政指導を行った。
12月には、
国民生活安定緊急措置法、石油需給適正化法が成立し、
政府は
この法律にいう「緊急事態」にあると認定、告示して、
石油、電力の20%削減などを決定した。
政策手法は戦時経済を参考にしたものであった。
1974年初めには石油危機に便乗した値上げが批判を浴びた。
利潤追求ばかりで「社会的責任」を果たしていないとする大企業批判も盛り上がった。
2月には公正取引員会が石油連盟と元売り12社を、
生産制限・価格協定を行い独禁法に違反したとして告発した。
ゼネラル石油危機は
「千載一遇のチャンス」として高収益を狙ったことも暴露されたが、
公取委の告発は裁判所にも支持された。
1974年3月、政府は
さらに「石油価格の改定と物価安定対策の強化について」を決定し、
石油製品価格を平均62%引き上げることを認めたが、
それが他の物価上昇に波及するのを回避するため、
生活関連物資を中心に価格凍結を行政指導し、
総需要抑制政策を堅持することを決定した。
こうした統制手段の導入は矛盾をもっていた。
石油製品価格は引き上げられても原油価格より安かったから、
石油を精製し、販売すればどんどん赤字が膨らむことになる。
価格を凍結された物資も、
インフレでコストが上がっているのに価格が凍結されるから
生産するのが不利になる。
安い価格で生活の安定を図ろうという施策が
逆に生産を減らし、物不足の原因になった。
他方、1974年の春闘では30%のベースアップとなった。
この結果、実質賃金はほぼ前年並みになった。
したがって、企業利潤が大幅に減少した。
これが不況の原因となった。
インフレが続くなかで、
74年の実質経済成長はマイナス1.3%と
戦後初めてマイナスを記録したのである。
インフレと不況が同時に生じたが、
これをスタグフレーション(停滞)の合成語である。
この現象は60年代のイギリスやアメリカですでにみられた。
インフレを抑制するために需要抑制策を採用したところ、
インフレが継続したまま実体経済が悪化したのであるが、
石油危機によって先進国は
一斉にスタグフレーションに見舞われた。”
(橋本寿朗『戦後の日本経済』P.183-193)
ちなみに、
この《石油ショック》により、
〈OPECの産油国〉は、
‟オイル・ダラー”と呼ばれる
《膨大なドル収入を得た》のですが、
〈産油国の彼ら〉は、
運用が手堅く、高い収益性をもたらしてくれる
ロンドンのシティ特別区や、
ニューヨークのウォール街の
〈金融専門家たち〉に
《オイルマネーの運用を任せます》。
しかし、《その石油ショック》により
1970年代の欧米先進国は
経済成長を《止められ、
不況に陥っている》ので、
欧米先進国内に
オイル・マネーを運用する先が《無い》。
そこで、〈欧米先進国の銀行〉が、
《投資先として選んだ》のが〈発展途上国〉で、
《緑の革命》や
《「工業化」のための「開発プラン」》に、
〈世界銀行〉や〈先進国の銀行〉が《融資》をし、
これが《途上国の債務危機》に繋がっていく・・・のでした。
次のページで、
松井博『企業が「帝国化」する』の
第7章「石油依存」で展開されている
《資源の呪い》について、
見ていきたいと思います。
【〈次のページ(19-⑥d3)〉に続く】