【19-⑧】(世界的)《分業》の❝両刃の刃❞ 【監視-AI-メガFTA-資本】 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


〈【前記事(19-⑥b)】からの続き〉
〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


ジェリー・マンダー
科学技術を礼賛する人々は、
科学技術のおかげで
私たちの生活水準が上がったという

移動が速くなり、選択の幅が広がり、
余暇が増え、贅沢ができるようになった。
しかし、それによって
人間の満足感、幸福、安全、あるいは生命力が向上したかどうか別問題
だ。”

    ――・――・――・――・――・――

ジョージ・ブッシュJr.大統領( 2001年7月27日当時)
食料自給できない国を想像できるか?
それは国際的圧力と危険に晒される国
だ」
将来の農家への大統領の意見

―――――――――――――――――――

近い将来、穀物不足が深刻化することが予想されるが、
こうした状況は、アメリカに、
これまでに持ったことのない力をもたらす事になる
だろう。
この力はおそらく、
第二次世界大戦直後におけるよりも、
大きな政治的・経済的な支配力となる
だろう。
・・・凶作の年には、アメリカ政府は、
食糧を求める多数の者に対して、
生殺与奪の力を持つことになり

・・・貧しい低開発諸国ばかりでなく
大国
少なくとも部分的には、
アメリカからの食糧輸入に依存することになるだろう”
(スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか?』)

―――――――――――――――――――

アメリカのハーバート・ハンフリー上院議員の発言(1957年)
‟私は、多くの人々が、食糧のために、
我々(アメリカ合衆国)に依存するようになる

という事を聞いた。
・・・私にとっては、すばらしいニュースだった。
何故ならば、人は、何かをやろうとすれば、
まず食べなければならない

そして、誰かの手が必要なときで、
 その誰かを、自分に依存させようとするならば、
食糧で頼らせるのが、一番だから
だ”
(スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか?』)

――・――・――・――・――・――・――

“ それなら国家は、
国民の教育をほっておいてもよいか
と反問されるかもしれない。
教育の要不要は、その社会状態による

分業が発達すると、
労働によって生活する人々、
つまり人民の大多数の仕事は、
少数のごく単純な作業にかぎられる。
ところが、
大多数の人々の理解力というものは、
日常の仕事によって必然的に形成されるものである。
一生涯少数の単純作業を繰り返している人は、
人間として可能なかぎり、愚かで無知になり、感情も荒れ、
私生活上の日常の義務や国の利害についても
正しい判断がもてなくなる

そのうえ、単調な生活は、
勇気を失わせ、
兵士の不規則で冒険的な生活を
いやがるようにしてしまう。
かれの特定職業における巧妙さは、
知的、社会的、軍事的な徳性を
犠牲にして獲得される
だが、進歩した社会ではどこでも、
政府がそれを防がぬかぎり、
働く貧民、つまり大多数人民は
かならずこういう状態におちいるのである


 これにたいして、
狩猟民や遊牧民の社会では、
また製造業と外国貿易が生じるまえの農耕社会ですら
そういうことは起こらない。
そこでは各人が多様な仕事をせざるをえないから、
発明力はいきいきとたもたれるし、
各人はみな戦士であり、ある程度政治家であって、
その社会の利害や統治者の行動に一応の判断をくだせる

もっともこうした社会では、
文明社会において少数の人に見られる発達し洗練された理解力は
だれももっていない。
各人の仕事は多様でも、
社会全体の仕事の多様性の幅は小さい。
みなある程度の知識と発明力をもっているが、
ずばぬけたのは出ない。
文明社会では、大部分の人の仕事は単調だが、
社会全体の仕事は無限に多様である。
そこで、このことは、
自分は特定の仕事につかず、
他人の仕事を調べる暇と意向を持った人にとっては、
思索の無限の対象になる。
文明社会では、
少数者の偉大な能力にもかかわらず、
大多数の人民は、
人間性の高貴な部分を打ちこわされることになりかねない


 文明化した商業社会では、
国家は、
ある程度地位や財産のある人々よりも、
一般民衆の教育をよく配慮する必要がある。
地位や財産のある人が職業につくのは、18、9歳になってからで、
就業の時間があり、親もそのための費用を惜しまない。
その仕事は、複雑で頭を使い、また余暇も多い。
ところが、一般民衆は教育にさく時間がない。
子どもは働けるようになるやいなや、パンをかせぎに出る。
その仕事も単調で長時間の肉体労働であり、
余暇はほとんどない。

 どんな文明社会でも、この人たちに、
なんらかの地位や財産のある人々のように
高い教育をすることはできないとしても、
不可欠の 読み、書き、計算を、
職業につくまえに教える時間はある。
そして、国家はわずかの経費で
こういう基礎教育の習得を容易にし、奨励し、
また義務として課することさえできる。”
(アダム・スミス『国富論』P.523-524、世界の名著31、中央公論社)

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20180417 UPLAN
国際平和と憲法 国境・世代を超えて
国際NGOからの提起


ここでは【5分~29分】の谷山博史氏による発言を御視聴くださいませ。
谷山博史氏の主張は、
戦争や紛争は《情報操作》によって作られてきたという実感と確信から、
そうした扇動や情報操作による戦争や紛争を回避させたり、
悲劇を最小限にすべく、情報集め・分析・発言にも力を注いできた、
というのが要旨です。
この講演会の動画の21分~29分】の箇所で、谷山氏は
アメリカをはじめ、他の先進国と同じく、
日本企業と日本政府も、たとえば、アフリカ大陸のモザンビークで
資源獲得のための権益を確保すべく
経済開発プロジェクト(鉱山開発)のためインフラ整備と、
(土地収奪を含む)《日本向け輸入農業開発プロジェクト》を
2009年以降から強引に行なって来ていると報告します。
現地住民の生活と声を‟無視”した
これら資源開発&日本向け輸入農業事業》が
安保法制》に”結びついてくる
”と指摘しています。

 《こうした上の動き》は、
日本の「自主自立性や自己選択決定権の確保」や、
広義の「安全保障」、また「日本と他国などを含む世界の持続性」、
現行の日本国憲法の前文に掲げられ、決意されている、
「消極的平和および積極的平和」の国内外の世界的平和構築の方向性とに
"真正面から衝突し、相反する"と言える、と思います。

 少なくとも《種子法廃止》や《水道法の民営化改悪化》、
《卸売市場法改悪による中小小売業者を守る制度の破壊と農水産業者の支配化》、《農業土地権の解放》や《漁業権の解放》等の動きは、
TPP11&日米FTA》に❝連動させて対応した❞《国内改悪的法整備》で
《国内農業の根絶やし化
《ライフラインの外資への開放をする等、
国内農業公共ライフラインが《自滅的に犠牲》にされつつ
他方で同時に、
"自衛隊”も、米軍やNATOなど先進国の軍隊と❝一緒になって

自分ら先進国と、その国々の多国籍企業〉が、
アフリカなどの第三世界/グローバル化における周辺国〉の
《「植民地支配」や「資源収奪草刈り場として屠る」》のを
安全保障すべく派遣されようとする現状は、
自国の主権自己決定権も、
そして国民の主権性選択肢コンヴィヴィアリティを含む)をも、
失わせ、蝕ませ、奪われる悪循環的な矛盾
のように見えます。

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冒頭に引いた引用分を、よくよく読んでみると、
アダム・スミスが、
その建設性を見い出していた〈分業〉を
手放しで肯定していたワケでは必ずしも無いことが
分かります。

だから、という訳でもありませんし、
今回記事との論理的な接点は無いのですが、
今回記事は、《(社会的)分業》により、
生産性の向上専門領域への習熟複雑多様化の余地もたらしてくれる他方で、同時に、
その"両刃の刃"として伴ってくる、と思われる、
《(石油文明における)社会的分業ならではの不安
について、
また《世界分業体制への不安》について、
あるいは〈分業体制〉の《前提》について、
「広義の安全保障やライフラインの確保」の問題意識から、書いていきたいと思います。

  ――・――・――・――・――・――

前回記事では、
〈1人で何でもこなさなけらばならない自給自足〉
に比べて、他方、
〈分業〉による〈生産性の劇的な向上〉でもって、
余剰分の生産が可能になり、
余剰分を交換に回すことができるので、
〈市場の多様化〉に繋がるが、
そのことは、
〈分業生産体制〉が
〈交換〉がもつ性向に支えられてこそ
成り立っているので、
〈交換の自由〉は確保されてる必要があり、
〈分業〉と〈交換の自由〉とは
結びついたものだ、とスミスが指摘してた話を
前回の一部で、させてもらいました。


‟・・・・・・取り引きをし、交易し、そして交換するという性癖が
なかったならば、
だれでも、
自分の求める生活の必需品の便益品を
ことごとく自分で調達したにちがいない。

人間のそれぞれの才能が生み出すさまざまな生産物は、
取り引きし、交易し、交換するという一般的な性癖のおかげで、
いわばひとつの共同のたくわえとなり、
だれでもそこから、他の人びとの才能の生産物のうち
自分の必要とする部分を、
どんなものでも買うことができるのである。”
(『世界の名著31 アダム・スミス『国富論』 P.84-85)

そしてまた、前回記事での要諦として、
"自由貿易"体制が、
じつは
"自由貿易"や"自由な取引"ではなく、
実際には《新しい封建主義》を為してる

と書きました。

アダム・スミスが生きていた当時の時代でも、
遠く離れた別の国のフランスで、
ジャン・ジャック・ルソーが、
下層階級の貧困が社会問題化してくるような文明化が
進む中で、
《富の格差や、強者による搾取が擁護される制度》が形成されてきた、として《文明化》を批判する仮説を主張していた同時代での別の場所で、
《市場社会》に建設性を見ていて、それを擁護していたアダム・スミスであっても、
分業に対して無条件に肯定はしていなかったように、懸念や警告は発していたようです。


"スミスは、国家自体についても警告していたが、
それと並んで、
競争をぶちこわすかもしれない或る制度についても警告を発していた。
だがこの警告はそれほどの影響力を及ぼすことがなかった。
この制度とは、国家の免許を受けた会社のことであり、
近代用語で言うと法人企業のことであった。
植民地時代には、
免許を得た会社が独占の特権を与えられることが多かった
が、
スミスは特にこうした場合に対して批判的であった。
しかし彼は、
そうした会社の効率性についてほとんど考えたことがなかった。
もしスミスが今日の世界に戻ってきたとするならば、
アメリカにおけるように、
1000社の法人企業が産業界・商業界・金融界に君臨し、
雇われ経営者によって支配されている
のを見て、
びっくり仰天することであろう。”
(ジョン・ケネス・ガルブレイス『経済学の歴史』 P.101)

文明批判や市場社会化批判をするルソーのような主張があった同時代で、
複雑な市場社会の発展を擁護するほうの意見をもつ
アダム・スミスにあっては、
植民地経営のための膨大な軍事費が掛かり、
自国の特権層や富裕層の贅沢品の消費に消えるような
《重商主義政策》に対する反動として、
重商主義経済政策に対する別の選択肢として、
〈生産活動を通じての物的豊かさの実現〉という在り方に、新しい別の選択肢の活路を見ていたのかもしれません。
そして、そうした経済観をもつ以前に、
スミスにあっては、
他人との交流を繰り返していくうちに、
何かの被害にあった他人に、
自分の身を置き換えて
想像する事(=立場の交換)で
痛みを共感できるような「共感」を獲得するように
なる、という道徳思想を展開していたので、
自分の身を、
家族に置き換えて、拡げて想像してみる、
友人に置き換えて、拡げて想像してみる、
自分の国に置き換えて、拡げて想像してみる、

といったように、
身近なところから遠くに向かって、
自身の安全保障の環を広げていく
」ような道徳観を
前提に持っていたようなので、
アダム・スミスにおいては、
《市場のリスク》を「小さくする」方向性であって、
いま現在のように、
自分の地元の農業や産業を《犠牲にし》、
自分自身や家族、友人や自分の地域、自分の国に
大きなリスクもたらす外国貿易や経済協定》を
志向しないのではないでしょうか。

《外国貿易》よりも〈自国の製造業〉、
その製造産業よりも〈農業〉のほうが
スミスにおいては「優先されている」のは、
自分から出発して、徐々に外に向けて円が広げられる安全保障」の道徳観が、はたらいているように見えます。

――・――・――・――・――・―――

じつは、以上が
前回記事の内容整理を含めた話のマクラで、
ここから以下が、今回記事の本題なのです。


ここから、
〈分業〉だけに絞って話をさせてもらうのですが、
ピンの製造を、1人で こなそうとすれば
1日に20本どころか、1本すら作ることが出来ない
かもしれないのに対して
他方、
ピン製造作業を
幾つもの作業工程に分割して、
その生産に必要な手ほどきを施し
分割した作業工程に、
各作業員を配置させて、
各工程の作業に、各作業員を、
専門特化的に従事させる
と、
10人で1日に4万8000本以上のピンを、
1人あたり4800本ピンを製造することが、
分業生産で可能になる


この劇的な生産性の向上のワケは、
各作業員が、
専門的に従事する作業に
掛かりっきりに携わる格好となる
ので、

・専門特化分野への個々の
ノウハウや技能が身につき、増進〉しやすくなる

・或る作業や仕事から
別の作業や仕事に移行するとなると
掛かってくる手間ひま(準備や片づけなど)が
専門特化の分業生産システムにより
節約〉される

・より効率よく、
生産性を向上できるような
機械・技術の発明に繋がるような余地〉が
分業によって、もたらされる

という洞察に
その新鮮さを覚える人もいるかと思うのですが、
ここで、
専門特化〉や〈細分化〉、
そして〈複雑化〉と〈多様化〉が進んでいる、
たとえば、
この日本の昨今の、或るひとつの側面を、
次に引用することで、
或る問題提起したいと思います。

それは、
島本慈子『ルポ 労働と戦争』で
現場労働者が製造に従事している製品・パーツが
結果的に
〈ひとつのまとまりを持った何の大きな製品〉
になるのか、分かりようが無いほど、
専門分業特化が、
《非常に多岐・多様・複雑化》してる
様子です。

科学技術史家の三宅宏司氏の案内が
紹介されている箇所の引用から。


‟三宅さんは
「裾野が広いのは軍需だけではない」ということを
丁寧に説明してくださった。

 「松下でもシャープでも、川崎でも三菱でも、
全てを自社でつくれるというものではありません
レンズはレンズ、シャッターはシャッターでつくっている会社があって、
さらに細かくいうとシャッターを押す手の部分だけ、
あるいはファインダーだけをつくっている会社もあります

電機会社は電気製品を作りますが、電線はつくれないし、
電線をつけるハンダもつくれないで
すよね。
また電子基板のベークライトは、
合成樹脂の会社に頼まないといけない

バネはバネ屋、ネジはネジ屋、ワイヤーはワイヤー屋
だから軍需品にかぎらず民生品でも、
最先端の製品であるかぎり、どうしても関連裾野は広くなります


 これから、液晶プラズマに代わって、
有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)が出てきます。
これは電気信号を加えると光りだす物質で、使用電力が少ない、
立ち上がりも早い、ドットも細かいなどさまざまな利点があって、
やがてはテレビもこれになるだろうと言われていますが、
の有機ELにしたって一番手前にはガラス板がいる。
それにはガラスをつくる会社が必要なわけ
です。
もちろん大企業でなければできないことは多いですが、
ひとつの製品は
大企業だけでできあがるものではない
、ということです。

―――それでいま、日本の「ものづくりの現場」は軍事に
どのように関わっているのかということを知りたいのですが、
液晶パネルだってプラズマディスプレイだって、
イージス艦のパネルにとか、戦闘機や戦車内部のパネルにとか、
どうにでも使えますよね。

 「いま軍需産業と民生産業の間に線を引けるかといえば、
これはものすごく曖昧
です。
霧のようなものがかかっている、というか、
たとえばずっと前、ベトナム戦争のころ、
ソニーが小型のビデオカメラを出したことがあります。
当初は日本人向けではなかったんです、
日本はまだ八ミリ映写機の時代でしたから。
それをアメリカ向けに売り出したところ、思いのほか売れた。
それで、会社の人たちがアメリカへマーケット調査に行ったところ、
一般家庭や学校には全然いきわたっていない、
それなのに売れている。
『どこで売れているんだ』といことを調べたら、
実は米軍が買っているということがわかった。
[動いている敵の戦車とか軍艦とかに命中させるために]
・・・ロケット[弾]自体にそういう機構を組み込まばいい。
そのためには敵が見えていないといけない。
よってそのビデオカメラをロケットの弾頭につけた、
ロケット弾の目として。
当時のアメリカは
そいう小型のビデオカメラをつくれなかったですから、
『これはいいものが出た!』ということで、
ロケット弾の頭につけたわけです、日本製のビデオカメラを。
敵を見ながらコースを補正するという、
いまの巡航ミサイルみたいなものですね。
現在から見れば幼稚ですが、いわゆる『誘導弾』になった。
ソニーはびっくりしたそうです、
民生品として売り込もうとしていたんだから。

 つまり民生品をつくったつもりでも、
軍はその時々で一番いいものがほしいわけで、
軍需品・民生品と一〇〇%の線引きはできない。
民生品で軍事に使えるものはいくらでもあるし、その逆もまたある。
(引用者中略)

―――じゃ、日本のパチンコ玉も使いようによってはミサイルになる
ということですよね。これは冗談ですけど・・・・・

「ものは使いよう、頭も使いようというが、
使っている側の意図で全く違うものになってしまう
それくらい、ある意味で複雑になってしまっている
そういう時代なんだと思います、・・・・」”
((『ルポ 労働と戦争』 P.46-49)


“2008年6月29日、東京都港区で
「軍需生産を考えるパートⅡ」というシンポジウムが開催された
(「電機・9条の会」「重工業産業労働組合」の共催)

 それは、
『ルポ戦争協力拒否』(岩波新書)
『民間人も「戦地」へ』(岩波ブックレット)などの著書がある
フリージャーナリスト・吉田敏浩さんの講演を中心とした
シンポジウムだったが、
その会場でこんな発言をした男性がいた。

「喩えらミサイル防衛のPAC3をつくる場合、
それぞれの者は
自分のやっている仕事が兵器なのかどうか、
まずわからないんですね。
実際に組み立ててみて、
初めて『えっ、大変なものだな』ということがわかる


「若い人がどういう思いで兵器をつくっているかというと、
兵器というのは 最先端の技術なんです。
そういう意味では非常にプライドのある仕事なんです。
ところが、
その誇りは何で支えられているかというと、
『国を守る』ということですね。
だから『守るものならいいが、侵略するものはだめだ』と。
はっきりそうは言わないけど、
そんな意見があるのは間違いない。
ところがそういう事を議論していると
(会社の内部が)ガタガタになりますから、
それをいろいろな方法で押えこむ
(職場で自由にものが言えないわけですから
精神障害の疾病がぐ~んと増えました。
ここ2、3年、精神障害、それから内臓疾患。
そんな状態がいま、
兵器生産に限らずどの職場にも蔓延している」

その発言者は、
全日本造船機械労働組合三菱重工支部の久村信政書記長だった。”
(同 P.72-73)

自社が製造する〈製品〉や〈部品/パーツ〉が、
何に使われ、何に組み込まれて、
最終的に何になるか分からない」ということは、
一面では、
自社が作った製品や部品/パーツが
最終的に何に組み込まれて、
どういう最終製品になるのか、
どういう風に使われるか、
――物理的にか技術的にか制度的にか、
《一定の範囲内しか利用できない制限的な枠組み》が無いかぎり――
「自分たちに決めるチカラがない」ということを
意味すると思うのですが、

最終的に何になるか分からない」ということは、
同時に、いま一面で、
自社の製品や部品/パーツが、
何に使われ、何に組み込まれて、最終的に何になるか
その広がりが分からない程の
用途先の広がりの余地があって、開かれている

ということも意味し、
「製品や部品の用途先の余地開かれている事」は、
その会社の経営にとっては、
❝大きな可能性や武器❞になっている
はずです。

自社の製品や部品やサービスが、
社会や世界において、
"《より広く、より浸透して深く、より多く、
使われれば、使われるほど、

あるいは、仕入れられれば、仕入れられるほど》"、
自社の販路や需要は"堅個重厚"となり、
自社の経営は"安定化"し、
さらに、世界や社会や経済にとって、
自社の提供品の、世界や社会や世界に占める位置が、
無くてはならなくなるほどの必要不可欠の位置》を
獲得すれば、
社会や世界における"自社の影響力が強くなる”と
思われるからです。
――「石油」を供給する多国籍企業や、
ちょっと前のマイクロソフトの「OSソフト」、
または、グーグルなどの《プラットフォーム戦略》を
思い浮かべてみて下さい。
また、その「用途の広がり」は、
ヨーゼフ・シュンペーターが指摘したような、
〈既存の生産手段や既存のテクノロジーを
新しく組み合わせるだけでも、
経済の変化や新しい変化が生み出される〉という
〈創造性〉いかんによるもので、
高樹は、「用途の広がり」は、
その〈「新結合」による「創造」的破壊〉と、
そして《状況(の変化)》とに、依るように思われます――

さて、その《より広範に、より奥深く、より大きく、
自社製品が使われるようになる
》のを、
とりあえず暫定的に
汎用資材化❞や❝汎用商品化❞と表現すれば、
この「汎用資材化」とは、すこし違うのですが、
社会に《無くてはならない必要不可欠の位置を占める》ようにする、今ひとつの遣り方には、
モンサントの《バイオテクノロジー&除草剤セット》
のように、
あるいは《石油文明社会の築き方》のように、
また《種子の支配やライフラインの支配》のように、
選択肢を奪った》り、《「餌づけ」の従属関係下に置いた》り、《債権債務関係で縛る》ことで、
《絶大なチカラを得、立場を安定強固にする》やり方
も、見受けられます。

今回記事の上記に見てきたように、
分業のメリットは、
生産性の劇的な向上、
分業・専門特化による複雑多様化であるのですが、
この〈分業〉は、分業であるが故に
交換〉を「前提にし、(貨幣を媒介して)
他の必要品を、交換して揃えることで、
はじめて分業分業として成り立つ
のですが、
ここで、2つの要諦、というか、問題提起をします。

ひとつ目は、
食料や水、エネルギーなどライフラインといった
生存に直結するもの
〉と
外貨を稼いだり経済力の担い手としての
製品やサービス〉とを

まったく同一線上の同じ商品として捉えていいのか
という問題提起や胸騒ぎ。

もう1つは、
自分たちが行き来できたり、
自足やカヴァーできる地域内での社会的分業
〉と
自分たちが行き来できない地球的世界分業》とを

"同じように考えていい"のだろうか

あるいは
地球的規模の世界分業》を
自分たちの及ぶ範囲や地域内で完結できる社会的分業〉の"規模拡大させた延長線上のもの"として考えて問題はないのか


という問題提起、胸騒ぎや不安です。

  ――・――・――・――・――・―――

経営的には、
〈自社の製品や部品/パーツ〉が、
国内で、広く深く使われて需要があるだけでなく、
世界中でも、広く深く使われて需要があると、
広く大きい販路先やマーケットを持ち、
経営的には安定する、と言えるかと思うのですが、
高樹が〈社会的分業〉の❝盲点❞に見える側面は、
交換〉を前提」とする社会的分業プロセス〉を
つなぐ経路」が《遮断される》と
分業まったく意味を為さなくなる
ように思われるからです。

仮に、
生存や生活に関係しない製品の供給止まっても
食料を作れて
生存や生活に直結するライフライン止まらなければ生存の危機には陥らないかもしれません
――経済が止まって、経済秩序が壊れたら、
貨幣や価格がもつ〈資源分配の尺度〉は
麻痺するかもしれませんが――。


・・・と思いきや、しかし
『世界の半分がなぜ飢えるのか』で見た《緑の革命》や、いま扱っている最中の《開発(development)》に見られるように、農業生産ひとつを取りあげても
先進国の企業が供給するテクノロジー》や
地下資源供給》や、いまでは《知的財産権》まで、
従属関係に繋がるようなまさぐりの手》が
(お風呂場の黒カビのように)複雑に浸透していて
農産物の生産〉と〈工業品〉との線引きが
しにくくなっている点も多い
かと思いますが、
しかし、――《大量生産・大量廃棄の問題》や、
《根源的独占など自由の問題》を抜きにして――
社会的分業循環プロセスの間に、
公権力や社会的権力が間に入る隙が無くて、
自分たちの手の届く地域内で完結できるような社会分業〉ならば、
海外からの資源や必需物資の供給についての心配
しなくてむ済む
かもしれないので、
社会的分業ならではの《盲点リスク》から
免れる
ことができるように、思います。

このこと》は、逆に言えば、
私たち生存に直結する〈食料〉や〈
エネルギーなどのライフライン〉もが
グローバル化リスクに、投げ込まれ、巻き込まれる》かたちで、

社会的分業〉の《規模が拡大すればするほど》、
世界的分業化すればするほど
私たちは、
社会的分業ならではの《盲点のリスクに晒される

のではないか?と問題提起的に思うのです。
話の内容が、ここにきて、
このシリーズの中で触れさせてもらった
内橋克人氏の「FEC自給圏」
再び、いきなり近づいてしまいましたが、
いまの産業を否定するつもりはありません、
いのちに直結する領域〉は、
実際に社会中に配分できる仕組みや運用尺度の面も含めて、
世界分業の煽り》を「受けないように
独立的に(分離できて)確保する必要はある
とは
思うのです。


次回記事】は、
ふたたび、スーザン・ジョージ
『なぜ世界の半分が飢えるのか』に戻り、
《テクノロジー》と《開発》のメカニズムについて、
見ていきたいと思います。


食料主権の根源回復

卸売市場法及び食品流通構造改善促進法の改正案への反対討論
20180525本会議