●自分自身を責め続ける霊の浄霊方法

 

 

 


このお話は、昨日のブログ(●未だに息子の幽霊が出る家)の続きです。

 

 

 

従って、昨日のブログ(https://ameblo.jp/hirosu/entry-12390790778.html

 


を先にお読みください。


そしてから下をお読み下さい。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[前回までのあらすじ

 


私がアメリカに留学している時、

 

卒業まじかの時、一度だけマレーシアにいる両親の元に帰った事があった。

 

私が会社に立ち寄った時も、父の部下だった華僑の人が積極的に話しかけて来て、

 

その日の夕飯をその華僑の方の家に招待される事になった。

 

彼はタンさんと言って、父の会社では会計の仕事をしている人だった。

 

私が美術と占いを勉強していると答えると、やけに占いの話に食いついて来た。

 

どういう占いの勉強をしているのか、とか幽霊の事は分かるのかとか。など。

 

理由を聞くと、どうやら、タンさんのお兄さんの家に幽霊が出るらしい。

 

それもその幽霊は、亡くなった息子さんの幽霊だと言うのである。

 

こうして私は、否応なしに幽霊騒動に巻き込まれていったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タンさんのお兄さんの家は、マレー半島の最南端のジョホール・バルにあるという。

 

 

ジョホール・バルシンガポールは約1kmのコーズウェイ橋で繋がっていて、

 

 

マレーシアから車でシンガポールに入国出来るのである。

 

 

私が今居るクアラルンプールからは汽車で約4時間半かかる場所だ。

 

 

さすがに遠いので、行って診てみようという訳にはいかないが、

 

 

とりあえず、話だけでも聞いてあげる事にした。

 

 

 

 

 

タンさんのお兄さんには、アンディという23歳になる長男がいた。

 

 

大学卒業とともに大企業に就職し、家族全員から将来を嘱望されていた子だったという。

 

 

ちなみに、アンディとは中国人らしからぬ名前と思われる方もいるだろうが、

 

 

華僑(本土以外に住む中国人)の方は、名前にビビアンとかテレサとか、アグネスなど、

 

 

欧米型の名前をつけて国際社会でも通用する様にと名づけるケースが多いのだ。

 

 

ところがある日、残業をした帰りに幹線道路を車で家路に向かっている時だった。

 

 

ちょっと車を飛ばし過ぎていたのもあったらしいが、

 

 

道路を横断中のお母さんとその娘さんを、車で轢いてしまったのである。

 

 

2人とも病院に運ばれたが亡くなったという。  しかも、お母さんのお腹の中には胎児もいたらしい。

 

 

実は、今は知らないが、当時のマレーシアの都心部以外の道路には余り横断歩道と言うものが無かった。

 

 

だから道路を横断する時は、車を止める信号が無いので、

 

 

自分で判断して、車の切れ目を狙って、まず右から来ないのを見計らって道路の真ん中まで進んで、

 

 

そして左から来ないのを見て道路を渡りきる人が多かった。

 

 

また酔っ払い運転を取り締るという事は、ほとんど無いので、

 

 

うちの父なんかも、しょっちゅうベロベロに酔っても自分で車を運転して帰宅する事が度々あったのだ。

 

 

だから悲惨な交通事故が多かったのを記憶している。

 

 

 

 

 

お母さんと娘さん、そしてお腹の子を含めると合計3人の命を奪ってしまったアンディは、

 

 

その後会社を退社せざるを得なくなり、家の2階の自分の部屋に引き籠る様になってしまったという。

 

 

それまで家族の星だっただけに、父親も彼がした行いを随分責めたそうで、

 

 

アンディ自身も3人の命を奪ってしまったあの場面を忘れる事が出来ず、自分自身を責め続けた。

 

 

目の前で子供が泣きながら死んでいく様を忘れる為に、酒に溺れていったという。

 

 

そしてある日、酒に酔って2階から階段を誤って踏み外して落ちて亡くなってしまったのである。

 

 


しかし、事はそれだけでは終わらなかった。

 

 

アンディの葬儀が終わってまだ間もない時、5歳になる次女が、

 

 

「お兄ちゃんが、2階からこっちを見てるよ。」と言うのである。

 

 

その日を境にして、今もそのままにしてある2階のアンディの部屋から、

 

 

夜中になると、ドスン!と生前アンディがベッドから飛び降りた時の音がしたり、

 

 

度々次女がアンディの幽霊を目撃するのだと言う。

 

 

地元の祈祷師にお祓いをしてもらった事もあったそうだが、効き目があったのは2週間だけで、

 

 

それからまた音が鳴り始め、幽霊も時々現れるという。

 

 

 


タンさんは私に、

 

 

アメリカで学んだ占いで、なんとか兄を助けてあげられないかと頼んできた。

 

 

 


現地に診に行けない以上、これはほぼ電話相談に等しかった。

 

 

そこで、電話相談でも除霊出来る方法を考えた。

 

 

それには、電話先のタンさんのお兄さん自身で除霊出来る方法を考えなければならない。

 

 

正確には除霊では無く、浄霊と言った方がいい。

 

 

除霊は霊を取り除く事だが、悪い霊ならともかく、今回は家族それも息子さんの霊である。

 

 

「立ち去れ!」といういう様な除霊では可哀想だ。

 

 

息子さんの霊を、あの世へ導いてあげる様な浄霊でなければならない。

 

 

 

 

問題はどうやるか。いや、どうやってもらうか。である。

 

 


こういう時、まず考えるのは、

 

 

亡くなったアンディは、なぜ今も成仏の道に進まず、幽霊として留まっているのかである。

 

 

一番良いのは、アンディの身になって考える事だ。

 

 

 

 

 

亡くなったアンディは、自分を責めていた。

 

 

何の罪も無い3人の命を奪ってしまった自分を責めていた。

 

 

そして、それを父親からも責められ、酒に溺れていってしまったのだ。

 

 

 

 

 


そういう事情を考えると、

 

 

 

私が思いつく浄霊方法は1つしか思い浮かばなかった。。

 

 

 


私はタンさんに、こうアドバイスした。

 

 

「お兄さんに電話して、以下の2つの事をしてもらって下さい。」

 


■まず、2階のアンディの部屋の一角に祭壇を作ります。

 

 そこにアンディの写真を置き、中国式の成仏を祈る場所を作って下さい。

 

 中国のお線香も焚ける様に。

 

 そして、お兄さんに息子さん(アンディ)に向って、こう言ってあげて下さい。

 

 

「息子アンディよ、貴方を許します。

 

 私達はみんな、貴方を許します。

 

 あれは事故だったのです。

 

 貴方が親子を意図して轢いた訳ではありません。

 

 だから、貴方を許します。

 

 光が見えたら、そっちの方に進みなさい。

 

 もう貴方は十分苦しみました。親子の為に十分苦しんだのです。

 

 だから、貴方を許します。

 

 成仏の道へ進んで、またいつか会いましょう。アンディ。」

 

 


アンディは、父親からの許しを必要としていた。

 

そして、みんなからの許しと、あの自分が殺してしまった親子からの許しを。

 

それを代表して、父親が許しを与えてあげるのだ。


これを100日間行う事。

 

 

■その間、段々とアンディの部屋を片付ける事。

 

 生前住んで居た自分の部屋がそのままだと、霊にとっては戻りやすい場所となってしまう。

 

 特に生前、その部屋に引き籠っていたのであれば、

 

 成仏出来ずにその部屋に残ってしまう可能性は高くなる。

 

 だから、段々とアンディの生前の部屋を片付けて、戻る部屋を無くし、

 

 退路を断つ訳である。

 

 

 

 

その後、私はアメリカに帰国したのだが、

 

 

何ヶ月か経った時、タンさんからお礼の手紙が来た。

 

 

アンディの霊が出なくなった様だという。


END

 

●未だに息子の幽霊が出る家

 

 

 


私がアメリカに留学している時、

 

 

卒業まじかの時、一度だけマレーシアにいる両親の元に帰った事があった。

 

 

妹は既にミシガンの大学に留学していて、マレーシアの実家にはいなかった。

 

 

妹は私と違って優秀だったから、高校の成績もトップクラスで何の問題も無かった様だ。

 

 

私達がマレーシアに行った時は、ユーケィハイツという山の斜面に立つ家に住んで居たのだが、

 

 

さすがに山なのでサソリやコブラ・20cmもあるゲジゲジが出たり、

 

 

2回も泥棒に入られかけたので、治安の比較的いい場所の平地にある家に引越す事になった。

 

 

それでも洗濯物が盗まれたりしたが、マレーシアでの被害としてはかわいいものだ。

 

 

ただ、山じゃないからと安心していたら、裏庭でブラックコブラが出た事があった。

 

 

飼っている犬が盛んに吠えるので、ガーデナー(庭師)が調べると、

 

 

側溝にブラックコブラがいたのだ。ブラックコブラは、

 

 

コブラなので噛まれると猛毒なのは普通のコブラと変わらないのだが、

 

 

厄介なのは、毒のツバを吹きかけて相手の目を潰すという技を持っている。

 

 

マジか! 日本で見た図鑑にはそんな奴はいなかった。サッカーならレッドカードの反則だ!

 

 

とにかく、庭師の号令で犬をブラックコブラには近づかせない様にして、

 

 

私達も家の中で犬と待機となった。

 

 

その後、庭師は熱いお湯をコブラにかけて殺して事なきを得た。

 

 

私は高校生の時、庭の水やりなら僕でも出来るのに、

 

 

なんで、お金を出してまで庭師なんて頼むのかと、ずっと疑問に思っていたのだが、

 

 

その疑問は、この瞬間、一発で吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

そんな家に、何年振りかで帰って来たのだ。

 

 

妹が居ないだけで、あとはまったく変わっていなかった。

 

 

テレビは相変わらず2チャンネルのみで、ちょいちょいお祈りの時間も入ってきて面白くなかった。

 

 

家でつまらなそうにしていると、親父が会社に来るか。と誘ってくれた。

 

 

親父が働いていたのは、日本の会社の現地法人だった。

 

 

マレーシアは日本人の移住先ランキングでも上位に入る国だ。

 

 

老後はマレーシアで年金暮らしという生活プランを立てている人も多いと聞く。

 

 

確かに、治安も良い方だし、物価も安い方かもしれない。

 

 

ただ、父の様にマレーシアで現地法人を作るとなると話は別だ。相当な苦労が予想される。

 

 

マレーシアには、主にマレー人華僑(中国人)とインド人が住んで居ると思っていい。

 

 

普通、会社を起業すると、誰を雇うかは社長の自由だが、マレーシアではそうはいかない。

 

 

政府がマレー人の保護政策を行なっているからだ。

 

 

社員の相当数(%)をマレー人で占めなければならない。

 

 

それも全員平社員とかの低い地位のみではダメで、何人かは良い地位に居る事を要求してくる。

 

 

それだけでは無い。政府は過保護と言えるほどマレー人を守っている。

 

 

まず、一旦雇ったら、原則解雇出来ない。

 

 

失敗しても役職も下げられないし、減給も出来ない。

 

 

だからか、中国人は一生懸命働くが、マレー人はそんなに一生懸命働かない人が多い。

 

 

と言うか、一生懸命働かなくてもクビにならないし給料も下がらないのだ。

 

 

おまけにマレー人は、プライドが高い。

 

 

新入社員だからといって、トイレ掃除をかってでる人などいないし、言われてもやらない。

 

 

一度、空港にお得意様を出迎えに行った事があった。

 

 

当然、お客様の重そうな荷物を出迎えた私達が持ってあげるのだが、

 

 

それをマレー人にお願いすると、「オレは奴隷じゃない。」と言って断られた。

 

 

また、マレー人で謝る人は少ない。現地では謝ったら負けという考えを持っているのだ。

 

 

一度、テーブルにあったグラスを肘が当って落としたマレー人がいた。

 

 

それを見ていた店主が、弁償を迫ったのだが、

 

 

落としたマレー人は最後まで、コップが自分で勝手に落ちたと言い張って譲らなかった。

 

 

本来は優秀なのに、過度の保護政策がマレー人労働者をダメにしているのかもしれない。

 

 

それに比べて華僑(中国人)の方は優秀な人が多いと感じた。

 

 

華僑には政府の保護が無い分、とにかく頑張る。

 

 

私が会社に立ち寄った時も、父の部下だった華僑の人が積極的に話しかけて来て、

 

 

なんとか上司の家族とも親交を深めようとしてくる。

 

 

結局根負けして、その日の夕飯をその華僑の方の家に招待される事になった。

 

 

彼はタンさんと言って、父の会社では会計の仕事をしている人だった。

 

 

 

 

タンさんの奥さんが作った中華料理は品数も多く、どれもとても美味しかった。

 

 

麻婆豆腐らしき料理を大皿から取った時、私は謝って少しテーブルクロスにこぼしてしまった。

 

 

私が困った顔をしていると、タンさんが、

 

 

Never  Mind! 」(かまわないよ!)と言って笑った。

 

 

中国人の食卓では、テーブルクロスを汚すのは、

 

 

「それだけ食卓に活気があり楽しい食事だったという証」らしい。

 

 

中には、汚れた手をテーブルクロスで拭いてワザと汚す人も多いという。

 

 

世界では中国人が食べ終わったテーブルが汚いという批判が多いが、そんな意味があったのだ。

 

 

また、私はあえてよそってもらった食事を最後に少しだけ残した。

 

 

日本では、よそってもらった食事を残すのは、口に合わなかったと言う意味に捉えられ、

 

 

失礼だから無理にでも完食するのが常識なのだが、

 

 

華僑(中国人)の間では違うと事前に父に教わっていたからだ。

 

 

華僑(中国人)の食卓では、少し残すのがマナーだという。

 

 

なぜなら、お客が少し残したという事は、

 

 

「食事をもてなした方は、お客が食べ切れないほど沢山の料理を出してもてなした。」

 

 

という証なのである。

 

 

だから、完食されと、出した料理が足りなかったという事になり失礼だったとなるらしい。

 

 

国が変わると、食事のマナーも随分変わるものだ。

 

 

そう言えば、一度マレー人の社員の結婚式に招待された事があったが、

 

 

出た食事を素手で食べる事になって驚いた事があったっけ。

 

 

 

 

 

 

食後は、リビングでの寛ぎの時間となった。

 

 

その時にタンさんは、私に大学ではどんな事を勉強されているのですか?と聞いて来た。

 

 

私が美術と占いを勉強していると答えると、

 

 

タンさんは、やけに占いの話に食いついて来た。

 

 

どういう占いの勉強をしているのか、とか幽霊の事は分かるのかとか。など。

 

 

 

理由を聞くと、

 

 

どうやら、タンさんのお兄さんの家に幽霊が出るらしい。

 

 

それもその幽霊は、亡くなった息子さんの幽霊だと言うのである。

 

 


こうして私は、否応なしに幽霊騒動に巻き込まれていったのである。

 


後半は、明日のブログに続く。

 

●第3の原子爆弾

 


1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されました。そして3日後の

 

1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、多くの方々が亡くなりました。

 

この事は、日本人なら誰もが知っている悲しい事実です。

 

 


しかし、皆さんは3発目の原子爆弾が落とされそうになっていた事をご存知でしょうか?

 

そして、3発目が落とされる予定だった、都市の名前は・・・・

 

 

 

 

なぜ、3発目が落ちなかったのか。

 

そこには、それを救った2つの奇跡があったからだと、

 

私は個人的に思っています。

 

 

 

 

 

 

人の命が奇跡的に助かる時、

 

 

それは後に、その人が多くの人達を助ける運命に繋がっている事がよくあるのです。

 

 

 

 

 

 

時は、まだ第二次世界大戦が始まる前の日本。

 

 

 

 

 

1929年、アメリカのウォール街の株式市場が大暴落します。

 

 

これがいわゆる世界恐慌と言われているものです。

 

アメリカの株式の80%が下落し、1200万人の失業者をだしました。

 

 

これはすぐに世界的規模で広がり、世界恐慌となったのです。

 

 

日本も当然このあおりを受け、不況になっていきます。

 

 

日本は第一世界大戦に勝利した訳でしたが、この頃には世界的に、

 

 

もう戦争は止めようという気運が高まっていました。

 

 

そこで1930年、ロンドン軍縮会議で日本政府は、イギリスやアメリカに異議を唱える事が出来ず、

 

 

日本海軍の軍縮を約束してしまうのです。

 

 

これに怒ったのが海軍の中の一部の若手将校達でした。

 

 

第一世界大戦で日本を勝利に導いた海軍を減らすとは何事ぞ!

 

 

しかも、当時前年に起きた世界恐慌で、日本も大不況に陥っていて、

 

 

多くの企業が相次いで倒産していて、多くの若者が職を失い社会は不安に陥っていました。

 

 

そこで、海軍の若手将校達は、「今の政府はけしからん、」と、

 

 

ロンドン海軍軍縮条約を締結した張本人の、

 

 

若槻禮次郎首相(第28代)を殺害しようと計画します。

 

 

ところが、

 

殺そうと狙っていた若槻首相が、なんと選挙で大負け。退陣してしまうのです。

 

 

本来なら、何もしなくても政府は倒れたのですから、

 

 

海軍の若手将校達の目的はこの時点で、達せられた訳ですから計画は中止となるはずでした。

 

 

しかし、若手将校達は上げた拳を下げる事が出来ず、

 

 

善人だった次に首相。犬養毅を襲撃して殺害してしまったのです。

 

 

これを5・15事件と言います。

 

 

当時日本中が不況だった事もあり、世論は若手将校達に同情的になり、

 

 

命を助ける嘆願運動まで起きます。

 

 

結果、犬養毅を暗殺したこの海軍の若手将校達は誰も死刑にならず、しかもその後、

 

 

軍部の圧力もあり、恩赦で釈放されてしまうのです。

 

 

なんと、日本の首相を殺しておいて、釈放で自由の身です。

 

 

この事件をきっかけに、日本の政治は軍部が強い立場を強調する様になって行きます。

 

 

もう日本の政治は、軍部の暴走を止められない状態でした。

 

 

中国では、2年前の1931年から陸軍主導で満州事変が始まっていました。

 

 

実はこの満州事変のきっかけとなった列車爆破事件(柳条湖事件)は、

 

 

陸軍が中国の仕業だとウソをついて、それを口実に中国を攻めた戦いだったのです。

 

(余談ですが、満州戦争とは言わずに、満州事変と言うのは、

 戦争=宣戦布告があったもの。事変=宣戦布告無しに戦いが始まったもの。です。)

 

 

5・15事件で暗殺された犬養毅首相は、満州国設立には難色を示していたので、

 

 

軍部にとっては彼が暗殺された事は好都合でした。

 

 

軍部は次の齋藤内閣に満州国を正式承認させたのです。

 

 

そして、満州国の皇帝には、

 

 

清の最後の皇帝・愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)を就任させました。

 

(後に彼の生涯を題材にした映画ラストエンペラーが作られた)

 

 

しかし、それは表向きで、実際は日本の関東軍(陸軍)の指導下にあったのでした。

 

 

勿論、世界がそんな勝手に中国に新しい国を作るなど許すはずがありません。

 

 

国際連盟は満州国にイギリスのリットン卿を調査に派遣させます。3ヶ月の調査の後、

 

 

そもそも満州鉄道爆破事件自体が、日本の関東軍による自作自演の演技だった事を見破り、

 

 

国際連盟は「満州国の建設は認められない。満州を国際管理下に置く事」を通達。

 

 

42対1(日本だけが賛成)で決議しました。

 

 

これをもって1933年日本は、国際連盟の脱退を表明します。

 

 

同じ年の秋、ドイツも国際連盟の脱退を表明します。

 

 

この時から、日本もドイツも段々と戦争へと進んでいってしまうのでした。

 

 

 

 

5・15事件の翌年の1933年、昭和三陸地震が東北で起きます。

 

 

震源地は、311の東日本大震災が発生した場所と似た様な場所でした。

 

 

震度は5とそんなに大きくは無かったのですが、大津波が襲って来て、

 

 

死者1522名(岩手1316)行方不明者1542名(津波の引き潮でさらわれたと思われる)の大惨事となりました。

 

 

 

 

当時日本中が世界恐慌のあおりを受けての大不況でした。

 

 

都市部では株の暴落で銀行や企業が倒産し、街に失業者があふれ、全国的に農作物も凶作だった。

 

 

そんな時に東北地方に、大津波が襲って来て壊滅的な打撃を与えたのである。

 

 

だから当時の東北地方は、江戸時代の大飢饉状態だったと言われ、

 

 

あちこちの農家では、栄養不足になった子供達ばかりで、

 

 

一家心中を避ける為に、娘を身売りしたという話はしょっちゅうだった。

 

 

例えば、青森県では14歳の娘が5年契約450円で売られていった。

 

 

当時、陸軍の兵士達は、そんな貧しい農家の出の青年が多かった。

 

 

そんな時代背景の1936年。あの有名な事件、2・26事件が起きたのです。

 

 

陸軍の青年将校ら1400名が、今の日本の経済危機の原因は政治にあるとして、

 

 

国家改造・昭和維新の名目でクーデターを起こしたのです。

 

 

この2.26事件暗殺のターゲットとされたのは、下の7名と警視庁、新聞社だった。

 

 

岡田啓介  (第31代内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤實   (内大臣)
高橋是清  (大蔵大臣)
牧野伸顕  (前内大臣)
渡辺錠太郎 (陸軍教育総監)
後藤文夫  (内務大臣)

 

 

 

 


岡田啓介  助かる
鈴木貫太郎 重傷
斎藤實   即死
高橋是清  即死
牧野伸顕  助かる
渡辺錠太郎 即死
後藤文夫  外出中で無事

 

 


この2.26事件で、私が注目しているのは、

 

 

奇跡的に助かった下の2人です。

 

 

岡田啓介  助かる
鈴木貫太郎 重傷

 

 

まず、2.26事件を起こした青年将校達の第一ターゲットは、岡田啓介内閣総理大臣でした。

 

 

当日の朝5時、首相官邸に陸軍の歩兵部隊300名が押し入ります。

 

 

そして激しい銃撃戦の後、襲撃した部隊の兵士達から万歳の声が・・・

 

 

それは岡田啓介内閣総理大臣の暗殺成功を意味していました。

 

 

ところが、ここで1つ目の奇跡が起きます。

 

 

実は、前の日、偶然にも岡田首相の妹婿の松尾大佐が首相官邸に泊まりに来ていたのです。

 

 

しかも、松尾大佐は岡田首相と年格好が似ていました。

 

 

だから暗殺隊が逃げる松尾大佐を射殺して、ほかの官邸内に男性は居ないのを確認すると、

 

 

岡田内閣総理大臣の暗殺成功と間違って喜んでしまったのです。

 

 

実はもう1つ奇跡だった事があります。

 

 

それは松尾大佐を殺した時、暗殺隊が確認の為、岡田首相の寝室に行き、

 

 

そこに飾ってあった岡田首相の写真と殺した松尾大佐の顔を見比べたのです。

 

 

ところが、写真の顔の部分にちょうど銃弾が当たっていて、見比べられず、

 

 

年恰好が似ていたという事で、岡田首相に相違ないと判断したのでした。

 

 

実際の岡田首相は、女中部屋の押し入れに隠れていて無事だったのです。

 

 

 

 

 


そしてもう1人の奇跡の生還者・鈴木貫太郎の場合はもっと壮絶でした。

 

 

鈴木貫太郎が寝ていると、鉄砲を持った8人の兵隊と1人の指揮官が入って来たといいます。

 

 

それを見た鈴木貫太郎は、抵抗して戦おうと奥の部屋に行き、刀を取りに行きます。

 

 

ここで最初の奇跡が起きました。

 

 

奥の部屋にあるはずの刀がありません。これでは戦おうにも戦えません。

 

 

仕方なく、鈴木貫太郎は兵士達の前に立ち、こう言いました。

 

 

「君らの見る通り、オレは何も手に持って居らん。やるならやれ!」

 

 

といって、立ったまま両手を拡げたのです。

 

 

すると「最敬札!」と号令して兵隊たちに鈴木に敬礼させた後、「射て」と号令した。

 

 

合計4発銃弾が鈴木貫太郎に頭などに当たり、鈴木は倒れました。

 

 

辺りは血の海となったといいます。

 

 

一人の兵隊が倒れた鈴木の脈を調べて、

 

脈があります、トドメを刺しますか?」と隊長に言った。

 

 

すると、側にいた鈴木貫太郎の奥さんが、気丈にも

 

 

老人ですからトドメは止めてください。

 

 どうしても必要というならわたくしが致します。」と言ったという。

 

 

それを聞いた隊長は、「とどめは残酷だからよせ。」と言って、

 

 

倒れた鈴木に対して、「みんな閣下に対して敬礼しろ!」と最敬札させ立ち去って行ったのだ。

 

 

しかし、ここからも鈴木貫太郎の奥さんは凄かった。

 

 

暗殺隊が退却すると、すぐに夫の止血を始め、医者が来るまでに出血を止めたのだ。

 

 

でも、4発も撃たれ、もはや絶望的。

 

 

医者が来た時は、心肺停止の状態。

 

 

やがて、医者は「ご臨終です。」と告げます。

 

 

ところが、ここで奇跡が起きます。

 

 

奥さんが「あなた!起きなさい!」と叫ぶと、なんと息を吹き返したというのです。

 

 

しかも、もう1つ幸運な事がありました。

 

 

兵隊たちが押し寄せて来た時、鈴木貫太郎が戦おうと刀を探しに行ったけど、

 

 

見つからなかったので、仕方なく抵抗しないで撃たれたのですが、

 

 

もし、刀があったら、9人の銃で、滅多撃ちにされて死んでいたに違いありません。

 

 

実は、前の日の事です。

 

 

奥さんが、なぜか刀を倉にしまっていたのです。

 

 

 

 

こうして、いくつもの奇跡が起き、

 

 

岡田啓介鈴木貫太郎の2人の命は、間一髪という所で助かったのでした。

 

 

 


その後、軍部主導で日本は第二次世界大戦という荒波に突っ込んでいきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1945年4月。もはや日本の敗戦決定的でした。

 

 

昭和天皇は、鈴木貫太郎に首相になって欲しいとお願いします。

 

 

しかし、鈴木貫太郎は軍人(海軍)出身の者が政治に関わるべきではないと断ります。

 

 

でも天皇に何度も頼まれると断る事が出来ず、最後は承諾します。(第42代内閣総理大臣)

 

 

この時、東条英機が反対の意を唱えます。

 

 

「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」

 

 

その時に、この重臣会議で東条英機と戦ったのが岡田啓介でした。

 

 

岡田が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか!

 

    日本がここまで追い込まれてきたのは陸軍の責任ではないのか!」と怒鳴ると、

 

 

東条英機は一言も反論出来ずに黙ってしまったという。

 

 

その後、天皇から組閣を命じられた鈴木貫太郎と岡田啓介は、終戦に向けて2人三脚で行動するのです。

 

 

当時の内閣は、「鈴木内閣即岡田内閣」と言われ新聞に書かれた事もあったといいます。

 

 

終戦間際になっても、陸軍はポツダム宣言受諾に難色を示していて、

 

 

無条件では無く、日本からも複数の条件を出すべきだとしていました。

 

 

また天皇の聖断(天皇がくだす決断)を引き出すのは困難と考えられていました。

 

 

しかし、鈴木貫太郎に首相になって欲しいとお願いしたのは昭和天皇です。

 

 

最後はポツダム宣言受諾を実現させたのでした。

 

 

後に昭和天皇は、「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそこのことが出来たのだと思っている。」

 

と言ったそうです。

 

 

 

 

もし、あの二・二六事件の時に、岡田啓介か鈴木貫太郎のどちらかでも死んでいたら、

 

 

日本の終戦は、もっと遅れていたと言われています。(NHK)

 

 

 

 

 

1945年8月14日。日本はポツダム宣言受諾した。(日本軍の無条件降伏)

 

 

実は、アメリカは第三の原子爆弾投下の準備をしていた。

 

 

8月14日に第三の原子爆弾がロスアラモス基地から出荷され、

 

 

8月20日前後には第三の原子爆弾を投下することが可能だった。

 

 

その最も可能性があった候補地は3つ。小倉市、京都市、新潟市である。

 

 

しかし、新潟県知事はそれを事前に察知して、8月10日には「徹底的人員疎開」なる布告を出します。

 

 

これによって、新潟市の中心部は一時無人状態になったという。

 

 

これを知ってか知らずか、アメリカ軍は8月14日にいくつもの爆撃機が京都上空を経由したのに、

 

 

京都には何も落とさず、愛知県に7発のパンプキン爆弾を投下した。

 

 

実はアメリカ軍は原爆を落とす前に、その予行練習として、パンプキン爆弾を落とす爆撃を行うのだ。

 

 

広島に原爆を落としたエノラ・ゲイも直前に神戸と名古屋にパンプキン爆弾を投下する訓練をしている。

 

 

ちなみに、パンプキン爆弾とは、実際の原子爆弾と重量などほぼ同一になる様に作られた模擬原爆の事である。

 

 

だから、これが京都市への第三の原子爆弾投下の訓練と思われるのである。

 

 

 

 

つまり、

 

もし、二・二六事件の時に、奇跡が起きて岡田啓介か鈴木貫太郎のどちらかが助かっていなかったら、

 

 

京都市に原子爆弾が落ちていたかもしれないと。

 

END

 

 

 

 

 

 

参考:鹿島の軌跡https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki18/index-j.html
礫川全次のコラムと名言https://blog.goo.ne.jp/514303/e/a460bf0d55b98dea81328c11e9fe5f12
ひなぴしhttps://www.hinapishi.com/entry/2015/08/06/104418

日本への原子爆弾投下https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B