●うんこ垂らし。
1950年、3人兄弟の末っ子として、生まれる。
父親は小学校の教頭で、柔道5段。
冗談が一切通じない堅物で、礼儀やマナーにも厳しかった。
だから、兄2人も彼も、とにかく父親が恐ろしい存在だった。
父親が帰宅すると、それまでの家の雰囲気ががらりと変わったという。
そんなある日、彼が小学2年生の時、大事件が起きる。
当時、学校の事情で彼は分校に通っていたのだが、
秋の運動会だけは、本校で行われた。
だから、彼も当日だけは分校から本校に出向き、運動会に参加したのだった。
やがて、運動会での花形競技の1つである全員参加の徒競走が始まった。
しかし、彼の様子だけが周りの生徒達と違っていた。
トイレに行きたかったのだが、ずっと我慢していたのである。
実は、初めて来た本校の便所の場所が分からず、誰にも聞けず我慢していたのである。
やがて、彼の番が来た。
「よーい、ドン」というピストルの音と同時に、
立ち上がった瞬間だった。
クラス全員や父兄の前で、ウンチをもらしてしまったのである。
情けなくて、泣く事しか出来なかった。
その結果、クラス中の子から、
「うんこ垂らし」と名指しで呼ばれる様になった。
まだ小学2年生の彼にとって、クラス全員の子から指さされて笑われる。
それは耐えがたいイジメの様な毎日だった。
なんとか「うんこ垂らし」というイメージを払拭したい。
そればかり考える日々。
そんな時、たまたま友人の家で、落語のレコードを聞くと、
醜態である酔っ払いの役なのに、観客を笑わせて楽しませているのだ。
試しに自分でも酔っ払いのふりをしてみると、友人たちが笑ってくれた。
どうせ笑われているんだ。それなら全てを笑いにしたら・・・・
そんなある日、彼を驚かせる出来事が起きる。
家で「雲の上の団五郎一座」というお笑いのテレビを見ている時だった。
すると、あの厳格な父親が部屋に入って来たのである。
当然ながら、今まで楽しんでいた雰囲気ががらりと変わる。
ところが、横で父親も見ていたのだが、急に笑い出したのである。
それも、誰よりもひっくり返って笑っていたのである。
「あの父が、笑っている!!」
「あの厳格な父が・・・」
笑った事など見た事が無い父を、笑わせるなんて・・・
このテレビの人達は、すごい力だなぁ。
この出来事を期に、自分でコントや物まねを作り、同級生に披露したりして、
コメディアンを目指す様になります。
ところが、彼が小学校を卒業した年でした。
父親の憲司(けんじ)さんが自宅前でバイク事故に遭ってしまいました。
なんとか一命をとりとめますが、頭を打ったためか、
事故から3年が経った頃から、父親に異変が起き始めたのです。
息子の顔を見ても、「どちら様ですか?」と言うのである。
そのたびに「貴方の子供ですよ。」と言うのが辛かったという。
ご飯を食べても、食後すぐに「おい飯食ったか? 飯は?」と言い、
「さっき飯食ったじゃないの」と言うと、
しばらくしてまた「おい飯は?」と言い出す。
そんな父を見ていて、悲しかった。
あんなに厳格でしっかりしていた父が・・・・
そんな時、こう思ったという。
そうだ、もし、父が好きなお笑い番組に、自分の名前が出たら、
きっと元気になるに違いない。
それまで自分のお笑いの芸名を何にしようとかと考えていた彼は、決めた。
自分の本名は康徳(やすのり)だが、父親の名前、憲司(けんじ)のけんを取り、
志村けんと名乗る事にしたのである。
しかし、どうやったらコメディアンになれるのかまったく分からなかった。
当時は今の様に、お笑いの養成所や事務所がある訳でも無く、
デビューするには、誰か師匠と呼べる人に弟子入りするか、付き人になるしかなかった。
そこで目標にしたのが、ザ・ドリフターズだった。
彼は、苦労してリーダーのいかりや長介の自宅を突き止めると、
雪の中を12時間外で待ち続けて、なんとか根負けしたいかりや長介から、
「やめそうな奴がいるから、そいつがやめたら連絡する」と言われたのだったが、
なかなか連絡が来ない。
このままだと無職だ。やっぱりいきなり家に行ったのは失礼だったかな。
ダメかな。
しかし、待ち続けると突然連絡が来て、付き人として雇われたのである。
ただ、付き人の月給はわずか5000円だったので、
常に空腹だった彼は、ドリフのメンバーが食べ残した弁当を食べて、なんとか生きていた。
ラーメンも、メンバー全員の残り汁を集めて、一人分にして食べたという。
そんな苦労もあり、
その後の、志村けんさんの活躍は、皆さんの知る所でしょう。
志村けんさんは、若い時の苦労もあり、
大御所と呼ばれる様になってからも、天狗にはならなかったという。
ある時、ダウンタウンが関東に進出して来た時の事である。
関東では新人扱いな彼らの楽屋に、なんと志村けんさん自ら挨拶に来てくれたという。
「おい、まっちゃん! 関東に進出して、おめでとう!
何か困ったことがあれば、この俺に言えよ!
その代わり、俺が売れなくなったら、松っちゃんの番組で使ってよ。」
と、関東に出てきて、初めて優しく声をかけてくれたのが志村けんさんだったという。
また、ある日、
テツandトモのテツさんがNHKの番組出演前に楽屋で待機していた時、
突然、誰かが扉をノックするので、出てみるとなんと!志村さんだったそうです。
「オレ、貴方達の後に出番で、今さ、楽屋でくつろいでたの。
そしたらマネージャーが、隣の楽屋にテツandトモがいるっていうから、
挨拶にきたのよ。
こういう時代だからこそ、こういう暗い話題ばかりの日本だからこそ、
お互いに笑いで盛り上げて行こうな!」
志村けんさんのサービス精神は、後輩芸人だけではなく、一般の人にもそうだった。
ある時、志村けんさんが、楽屋に到着した時の事である。
楽屋の前で、1人の子供が志村さんを見つけて、
「あっ、バカ殿だぁ。」と指さしたそうです。
すると、そのまま楽屋に入った志村さんは、すぐに着替えて、
1分後には、衣装を来たバカ殿の姿で、子供を喜ばせたという。
また、ある時、
志村さんのアメーバの公式ブログに、1通のコメントが寄せられたという。
内容は、深刻なものだった。
■応援しています!
数ヶ月前まで、母とよく、志村さんの話をしては、大爆笑していました。
母は、ドリフターズが大好きで、DVD全部を買い込んで、闘病中の励みにするかのように、
1日なん十回も見ては大爆笑してました。
今は、もうまもなく最期がくる自分の力を精一杯振り絞って、病院から応援しています。
おかげで我が家全員、ドリフの笑いに包まれていました。幸せを下さって、感謝です。
私が「アイーン(笑)」とすると、今でも母は、声は出ないのに笑うそぶりを見せてくれる。
もちろん、舞台どころか、テレビも観れる体力が無いので、
志村さんに成り代わった私がジェスチャーしてます(笑)
いつまでも、沢山の笑いを届けてください。
えみこ
普通は、大御所の芸能人は忙しいので1つ1つコメントを見たり返事はしない事が多い。
しかし、志村さんは、1つ1つコメントを読んでいた様で、
なんと、翌日、志村さんは、コメント返しではなく、
えみこさん宛の当日のブログとして返事を返したのである。
それが下。
余命いくばくも無い母親の看病をしていた、えみこさんは感激して、
■泣いてます。感謝です!!
あ、あ、あ、あ、ありがとうございます!!
まさかタイトルに私の名前が載ってると思わなかったので
今、感激しすぎて涙止まらないです!!
母さんが話せてたら、二人で徹夜パーティーしてますよ!!
母さんは、この夏は越えられないと思いますが、
このメッセージは、必ず伝えます、絶対!
字は読めないし、上手く伝えられるか解りませんが、
母さんは、伝わると自分の手を「アイーン(笑)」て顔に近づけて笑顔しますから(笑)
優しさいっぱいなブログをありがとうございます!!
えみこ
残念ながら、志村さんは、3月29日、新型コロナウイルスによって永眠しました。
でも、彼は最後に、立派な仕事をしたと思います。
今日、ニュースを見ると、一般の方がこんな事を言っていました。
「えっ、志村けんさんが、亡くなったんですか?
新型コロナウイルス、バカにしてたけど、気を付けないと。」
志村けんさん、本当に今まで、ありがとう。
ご冥福をお祈りいたします。
END
PS.
今日現在の世界と日本の新型コロナウイルス感染状況は、下記
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12577799889.html
参考:
テレビドガッチ https://dogatch.jp/news/tbs/62050/detail/
じゅんじゅんトレンドメディア https://hirahirajunjun.com/ken-simura-chivalrous-spirit/
smart FLASH https://smart-flash.jp/entame/42161
AKOGARE http://akogare.me/kandou/9978/2
有名人の伝説逸話エピソード https://densetu.tokyo/shimuraken/


