先に、 「奇跡の作戦」をお読み下さい。
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12427281122.html

 

 

 

 

 

 

日本軍は当時、アメリカ領のアッツ島と、キスカ島に上陸して島を占拠していました。

 

 

アッツ島には2665名、キスカ島には5183名の守備隊を配置していました。

 

 

キスカ島の方が多いのは、キスカ島の方が米本土に近いので、最初に攻撃される恐れがあったからです。

 

 

実は、日本軍の狙いはアッツ島キスカ島ではありませんでした。

 

 

日本軍の本当の狙いは、ミッドウェイだったのです。

 

 

つまり、アッツ島キスカ島の占領は、ミッドウェイ攻略の為の陽動作戦だったのです。

 

 

米軍の目をアリューシャン列島方面に向けさせる為です。

 

 

ところが、ミッドウェイ作戦は大失敗。

 

 

日本は空母4隻を失う大敗に終わってしまいました。

 

 

そうなると、もうアッツ島キスカ島も、軍部にとっては意味があまり無いものとなっていました。

 

 

しかも、今は南東の戦線に目が行っていたので、

 

 

軍部はアッツ島・キスカ島の事は重要案件では無かったのです。

 

 

そんな時に、樋口季一郎がアッツ島・キスカ島の司令官を任されたのでした。

 

 

季一郎は根っからの人道主義の人です。

 

 

当然、アッツ島・キスカ島の守備隊の撤退を軍部に提案します。

 

 

しかし、大本営はそれを無視。

 

 

その逆に、両島の保持増強を命じたのです。

 

 

こうしてアッツ島には新たに、山崎保代大佐が赴任することになりました。

 

 

樋口季一郎は、アッツ島に赴く前日、彼に会い、

 

 

「もし、敵が上陸戦を挑んでくるなら、兵員と装備を増強して助けに行くので、

 

 自分を信じて戦いに行って欲しいと激励しました。」

 

 

するとそれから1ヶ月後、アメリカの総攻撃が始まったのです。

 

 

実は、アメリカがなんでこんな小さな島二つを奪い返すのを、日本本土攻撃よりも優先したかと言うと、

 

 

アッツ島とキスカ島は、アメリカ領だったからです。

 

 

つまり、アメリカが占領されている事になります。

 

 

この事実を解消しないと、アメリカ軍全体の士気が上がらないと考えたからでした。

 

 

アッツ島守備兵2665名に対して、アメリカ軍はその4倍の11000名の大軍です。

 

 

季一郎は山崎大佐に約束した通り、増援部隊を助けに向かわせようとします。

 

 

ところが、大本営から来た命令は信じられないものでした。

 

 

「アッツ島への増援計画は、放棄せよ。

 

 その他の作戦準備もすべて中止せよ!」

 

 


非情なものでした。

 

 

 

「バ、馬鹿な!
 
 アッツ島の仲間達を見捨てろ。と言うのか!!」

 

 


樋口季一郎は激怒しましたが、どうにもなりません。

 

 

命をかけて国の為に戦っている山崎大佐や将兵たちとの約束を守れなかった事に男泣きしました。

 

 

そして、季一郎は断腸の思いで山崎に電報を打ちます。

 

 

「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、

 

 本官の力の及ばざること、誠に遺憾に堪えず、

 

 深く陳謝す。」

 

 


すまん。

 

 


翌日、山崎大佐から返信が届きました。

 

 

「戦する身、生死はもとより問題にあらず。(気にするな)

 

 守地よりの撤退、将兵の望むところにあらず。

 

 将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず。」

 

 

そして、5月29日。

 

 

山崎大佐は、機密書類をすべて焼却し、

 

「他に策無きにあらざるも、

 

 武人の最後を汚さんことを恐る。(どうか家族には勇敢に戦ったと伝えて欲しい)

 

 英魂とともに突撃せん。従来の懇情を深謝すると共に閣下の健勝を祈念す。」と結び、  

 

 

最後に無線機を壊すと、残った300名の部下を引き連れて、

 

 

弾丸が降り注ぐ中、敵陣に突撃した。

 

 


アッツ島玉砕

 

 

2665名のうち、足を失ったとか重傷でなんとか生き残った者、わずか27名だった。

 

 

しかし、季一郎にとって、この悲劇で終わった訳ではなかった。

 

 

 

 

 

まだ、キスカ島が残っているのだ!!

 

 

キスカ島の守備兵は、アッツ島の約倍の人数の5183名である。

 

 

しかし、アッツ島が奪われた今、キスカ島は敵にぐるりと周囲を囲まれていたのだ。

 

 

それこそが、米軍が狙っていた作戦だった。

 

 

前は米本土、後ろはアッツ島を占領した米軍。

 

 

そして、制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られて孤立無援となっていた。

 

 

つまり、キスカ島5183名に逃げ道は無かったのである。

 

 

もはや、玉砕あるのみ。

 

 

 


この難しい状況で、樋口季一郎がとった作戦は、

 

 

潜水艦15隻による兵士の救出作戦だった。

 

 

しかし、米軍駆逐艦やパトロール艇による哨戒活動で、

 

 

潜水艦がレーダーに捕捉され砲撃されてしまい、2隻が撃沈され、1隻が座礁。

 

 

潜水艦による救出作戦は中止となった。

 

 

第一、潜水艦は小さくて狭くて余り乗船出来ない。

 

 

潜水艦では5183名の救出は、所詮無理だったのだ。

 


潜水艦の作戦がダメとなると、もうほとんど希望が無かった。

 

 

ただ、最後に1つだけ、運を天に任せる方法があった。

 

 

当時、キスカ島付近には、この時期濃い霧が発生する事があったのだ。

 

 

作戦は、その濃い霧が発生した瞬間に、船で霧に紛れて救出するというものだった。

 

 

 


しかしそれとて、無謀な作戦だった。

 

 

霧の中でもレーダーで捕捉されれば、攻撃されてしまう。

 

 

しかも、キスカ島の周りには、敵潜水艦もウヨウヨいて、見つかれば魚雷で撃沈されてしまう。

 

 

こんな無謀な作戦に参加すると名乗り出た艦隊は、全部で10隻。

 

 

阿武隈、木曾、夕雲、風雲、秋雲、朝雲、薄雲、若葉、国後、響の10隻と潜水艦だった。

 

 

5183名の命を救うためなら、命がけで参加したいという勇者達である。

 

 


作戦は、まず潜水艦がキスカ島周辺の霧の様子を調査して、作戦の決行日を決める事だった。

 

 

潜水艦からの報告で、7月12日に霧が出るとの予測。

 

 

作戦は7月12日に決行となった。

 

 

しかし、いざ出航してみると、だんだんと霧が晴れてきたのである。

 

 

大本営からは、それでも突撃という指示が出た。

 

 

しかし、樋口季一郎司令官に任されていた木村少将は、救出作戦を中止。

 

 

木村少将は、制空権が無い時の霧なしでの突入が、いかに危ないものか身に染みて知っていた。

 

 

だから、大本営に怒られようが、批判されようが、霧が無ければ作戦は独断で中止した。

 

 

なにしろ、失敗すれば、自分が死ぬだけならいいが、守備隊5183名も死ぬのだ。

 

 

しかし、その後も7月13日も中止。14日も中止。15日も中止とことごとく中止となった。

 

 

大本営からは、とにかく突入せよという命令だけが届く。

 

 

やがて、潜水艦から7月25日以降にキスカ島周辺に確実に霧が発生するという情報が届いた。

 

 

これが最後のチャンスかもしれない。

 

 

実は、キスカ島周辺の霧の発生は、8月からは極めて低くなるのである。

 

 

そうなれば、米軍はキスカ島への一斉攻撃を開始するだろう。

 

 

そうなれば、終わりだ。

 

 

 

 

ところが、いざ決行すると、霧の発生が深すぎて、前が見えずキスカ島に向かう段階で、

 

 

船隊の内、若葉と国後が衝突して破損、使えなくなってあえなく作戦中止となってしまう。

 

 

大本営からは、「なにやってんだ! バカども、とにかく突っ込むんだ!」と、やいのやいのの催促。

 

 

その間に、樋口司令官が入った。

 

 

「大本営の命令は無視していいから、お前の判断で行動しろ! 全責任は俺が取る。」と。

 

 

そして、7月28日に決行となった。

 

 

しかし、またもや霧が晴れてしまい途中で中止。

 

 

8月まであと3日。

 

 

翌29日の天候は濃い霧が発生の可能性大という潜水艦からの連絡。

 

 

それはキスカ守備隊からの連絡とも一致していた。

 

 

これが最後のチャンスかもしれない。全軍出発。

 

 

救出隊がキスカ島に無事近づくと、ここで奇跡が起きる。

 

 

なんと霧が深すぎても島に接近できないのだが、なんとキスカ湾内に入ると、

 

 

霧が一時的に晴れるという幸運に恵まれたのである。

 

 

この一瞬、わずか55分という短時間で、小舟によるピストン輸送で、

 

 

5183名を全員艦艇に乗せる事が出来た。

 

 

たった55分で5183名を船に乗せれたのには、樋口季一郎の功績があった。

 

 

実はこの時、季一郎は全軍に武器を捨てて船に乗る様に支持したのである。

 

 

これは当時考えられない事で、樋口季一郎の独断での指示だった。

 

 

何しろ、天皇から預かった武器を海に捨てて、逃げるのである。

 

 

このお蔭で、みんな早くかけって乗船して、多くの人が船に乗れたのである。

 

 

兵器よりも人命を第一に考える季一郎らしい指示だった。

 

 

しかし、まだ安心は出来ない。

 

 

キスカ島から無事脱出するには、敵のレーダー網をかいくぐり、

 

 

なおかつ、敵潜水艦に見つからずに、脱出しなければ、全員海の藻くずと消えてしまうのである。

 

 

ここでまた幸運がめぐって来る。

 

 

一時的に晴れていた霧が、また濃くなり始めたのである。

 

 

それはまるで、神様が「今ですよ。」と言ってくれているかの様に、また霧で彼らを隠してくれたのだ。

 

 

これで、空からの攻撃は無くなった。全速で脱出だ!。

 

 

 


ところが、幸運だったのはここまでだった。

 

 

敵潜水艦に見つかってしまったのだ!

 

 

 

それも救出部隊は浮上航行中のアメリカ海軍の潜水艦と近距離でばったり遭遇してしまったのだ。

 

 

これだけ近距離なら、相手も魚雷を外すはずが無かった。

 

 

 

 

しかし、なぜか敵潜水艦は攻撃して来ない。

 

 

 

 

 

実は、出航する前、何度も中止になっていた時、

 

 

木曾艦長の提案で、もしアメリカ軍の潜水艦に発見されたとしても、

 

 

アメリカ艦と誤認するように阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして二本煙突に見える

 

 

様にしたり、駆逐艦に偽装煙突をつけたりと各艦とも偽装工作を万全にしていたのである。

 

 

このため、米潜水艦は撤収部隊をアメリカの艦隊と誤認したのだった。

 

 


こうして、

 

 

阿武隈 1,202名
木曾  1,189名
夕雲   479名
風雲   478名
秋雲   463名
朝雲   476名
薄雲   478名
響    418名

合計5183名全員が無事無傷で救出されたのである。

 

 


実は、この救出劇には、幽霊が関係していると言う人もいる。

 

 

日本軍がキスカ島守備軍を助け出したのは、7月29日。

 

 

その日をさかのぼる事、3日前の7月26日の事だった。

 

 

濃霧がキスカ島を埋め尽くした日、アメリカ軍のミシシッピーのレーダーが、敵のエコーを捕捉。

 

 

ミシシッピーは日本軍が来たと報告し、一斉攻撃を浴びせたのである。

 

 

この時、アメリカ軍がぶち込んだ砲弾は36センチ砲弾118発、

 

 

20センチ砲弾487発に上ると言われている。

 

 

ミシシッピーが捕捉したその敵艦は、40分逃げ回り、消えたという。

 

 

米軍は、日本の船隊を壊滅させたと思った。

 

 

ところが、後から分かった事だが、そんな船隊は居なかったのである。

 

 

米軍は、誰も居ない海に大量の砲弾を撃ち込んでいたのである。

 

 

では、ミシシッピーがレーダーで捕捉して、40分も逃げ回ったものは何だったのだろうか?

 

 

それは誤作動とも言われているが、今でも、謎のままなのである。

 

 

しかし、この攻撃で日本艦隊を撃滅したと確信した米軍は、弾薬補給の為、7月28日に一時撤退。

 

 

そしてこの時、キスカ島に張り付けてあった駆逐艦まで後退させたのである。

 

 

弾薬を補給した米艦隊は7月30日にまたキスカ島の包囲を開始したのだった。

 

 

つまり、日本軍が決死の思いで救出作戦を実行した7月29日こそ、

 

 

唯一、キスカ島周辺に米軍は潜水艦だけしか見張っていなかった日だったのである。

 

 

また、守備隊全員が助かったもう1つの要因として、アッツ島玉砕がある。

 

 

アッツ島守備隊はただ玉砕したのでは無かった。

 

 

アッツ島戦士達は、自分たちの4倍兵力に対して徹底抗戦して戦い

 

アメリカ軍11000名の内、死者は550人、負傷者1140人、戦闘不能者1500人という

 

 

大打撃を与えていたのである。一瞬で終わると思っていた戦闘は19日にも及んだのだ。

 

 

これによって、アメリカ軍はアッツ島よりも多いキスカ島守備隊を攻撃するには、

 

 

霧が晴れてからの方がいいと判断して、8月まで攻撃しなかったのである。

 

 

つまり、アッツ島で勇敢に戦った兵士たちがキスカ島5183名を救ったとも言えるのである。

 

 

 


キスカ島を完全包囲していた連合軍に全く気づかれずに、

 

 

日本軍が無傷で守備隊5183名の撤収に成功したこの作戦を、

 

 

のちに人々は、「奇跡の作戦」と呼んだ。

 

 

 

その後、アメリカ軍はキスカ島を一斉爆撃、上陸して殲滅作戦を実行した。

 

 

実は、日本軍が撤退する時、まるでまだ軍隊がいるようにカモフラージュして撤退していたのである。

 

 

だから、アメリカ軍は日本軍がまだいると思い、総攻撃を加えたのである。

 

 

アメリカ軍は艦艇100隻余りを動員、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸した。

 

 

すると濃霧が発生して、各所でアメリカ軍同士の同士討ちが発生してしまう。

 

 

この結果、死者約100名を出して、誰も居ないキスカ島を奪還したのだった。

 

 

 


またこの時、日本の軍医のちょっとしたイタズラで、

 

 

兵舎の前に「ペスト患者収容所」という立札を書いて残して逃げた。

 

 

すると、上陸した兵士たちが、この立札は何て書いてあるのかと、

 

 

通訳で同行していたドナルド・キーンに聞いた。

 

 

すると、ベスト患者と聞いた兵士たちはパニックになって、本土に大量のペスト用のワクチンを、

 

 

緊急に発注したという。そして通訳したキーンはその後、具合が悪くなり、他の兵士たちから

 

 

ペストの感染を疑われ、検査の為戦線から追い出され、そのまま戻る事無く終戦を迎えたという。

 

 

 

 

 

 


1945年、8月15日正午。

 

 

昭和天皇が「ポツダム宣言」を受諾。 日本は無条件降伏した。

 

 

この時、日本で唯一の放送局だったNHKから、天皇の肉声で玉音放送が流された。

 

 

あの有名な文言「たえ難きを堪え、忍び難きを忍び」というあれである。

 

 

 

日本では、この8月15日を終戦記念日としている。

 

 

多くの人は、この日で戦争が終わったと思っているが、実は違う。

 

 

 

 


ソ連に言わせれば、8月15日は日本が一方的に降伏を宣言した日で、

 

 

本当に日本が正式に負けを認め降伏書に調印したのは9月2日だから、

 

 

それまでは、自由に攻め込んで領土を獲得できるんだという考えなのです。

 

 

 


しかし、日本軍は全軍が武器を放棄し、戦闘しないようにと連絡を受けていました。

 

 

しかもソ連とは日ソ中立条約を結んでいたから、終戦になってから攻めてくるとは考えていません。

 

 

ところが、8月15日から3日後の朝2時半、ソ連軍は宣戦布告もしないで攻め込んで来たのです。

 

 

実は、ソ連はドイツが降伏すると、ヨーロッパ戦線で戦っていた精鋭達を、

 

 

千島列島に集結させていたのです。集められた精鋭約8824名。

 

 

ソ連のスターリンには、ある野望があったのです。

 

 

それは、守りの薄い千島列島を次々に攻撃して、領土化して、

 

 

北海道をソ連領にして、終戦を迎えてるという計画でした。

 

 

日本軍は降伏し、武器を海に捨てて、戦車を解体して武装解除をしました。

 

 

ソ連は卑怯にもそれを待っていました。だから3日後の8月18日まで待って攻撃してきたのです。

 

 

攻撃してきた所は、千島列島の先端、占守島でした。

 

 

 


この時、戦闘をするなと大本営から命令されていた守備隊は、どうしていいか分かりません。

 

 

砲弾が飛んでくる中、北海道に居る樋口季一郎中将にどうしたらいいか連絡します。

 

 

すると、樋口季一郎は、独断で「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出したのです。

 

 

実は当時、占守島には、本土から400名の女性たちが缶詰工場に働きに来ていました。

 

 

樋口はソ連兵達が、満州や樺太で女子供をレイプする様子を知っていたので、

 

 

このままでは400名の女性たちが危ないと思い、人道的立場に立って、戦う選択をとったのです。

 

 

樋口は大本営にも現状を報告。大本営はマッカーサーにスターリンへの停戦の働きかけを依頼したが、

 

 

スターリンはこれを無視。戦争を続けた。

 

 

 


ただ、スターリンには、1つだけ誤算がありました。

 

 

それは、樋口季一郎の存在である。

 

 

 

実は、季一郎が北海道に赴任した時、もし北海道が攻められるなら、

 

 

それは占守島だと確信していたのである。

 

 

大本営は、樺太から攻めてくると読んでいた者が多かったのだが、

 

 

季一郎は、占守島以外にはありえないと断言して、占守島の守りを固くしていたのである。

 

 

満州から撤退した精鋭の戦車部隊代11連隊を占守島に置いていたのだ。

 

 

8月19日には、大々的な戦闘があり、空にはソ連の爆撃機が飛んでいて、

 

 

船で逃げようとしていた400名の女性達も脱出出来ないでいた。

 

 

すると、不思議な事が・・・

 

 

午後になると、霧が濃くなり始め空からの爆撃が難しくなったのだ。

 

 

400名の女性たちを26隻の独航船に分乗させ、ソ連軍機の爆撃を受けながらも

 

 

濃い霧に紛れて脱出に成功。1隻を除いた25隻が無事北海道に帰還したのだった。

 

 

無事女子供を脱出させた部隊は、ソ連軍に激しい戦闘を挑んだ。

 

 

占守島守備隊は、それはもう命がけで戦った。

 

 

それは勿論北海道を守ろうという使命観もあったのだが、

 

 

普通なら、もう日本は降伏して戦争は終わっているのだから、ここで戦って死ぬ必要は無いのだ。

 

 

実は、もう1つ大きな理由があった。

 

 

占守島守備隊は、あのキスカ島で、九死に一生を得た兵隊達だったのである。

 

 

助けてもらった樋口喜一郎中将の為ならと、決死の覚悟でソ連に立ち向かったのである!

 

 

一度は死んだ命。占守島守備隊は強かった。

 

 

その結果、ソ連軍は大損害を被る。

 

 

日本軍の死者256名

 

    負傷者762名。

 

 

ソ連軍の死者516名。

 

    負傷者と行方不明者1051名にのぼった。

 

 

ソ連軍の大敗である。

 

 

これはソ連が満州や朝鮮、樺太などの戦い全部を含めても、最大の敗戦だった。

 

 

ソ連の新聞は、「8月19日は、ソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と書いたほどである。

 

 

もし、樋口季一郎と勇敢な占守島守備隊が居なかったら、

 

 

400名の女子供達はどうなっていた分からないし、

 

 

北海道は確実にソ連に侵攻され、朝鮮半島の様に2つに分断されていたという。

 

 

 

1945年、9月2日、日本は東京湾上の米戦艦ミズーリにおいて、

 

 

降伏文書に調印。これでソ連も文句の言えない正式な終戦となった。

 

 

 


しかし、ソ連のスターリンは、自分の野望が崩れたのに我慢が出来なかった。

 

 

夢を奪った樋口季一郎中将を、A級戦犯として死刑にしろと名指しで指名してきたのである。

 

 

それだけではない。樋口季一郎中将をソ連に引き渡せと要求してきたのである。

 

 

ソ連に連れていき、この手で殺してやるという意味だった。

 

 

戦争に勝ったソ連のスターリンに、日本は逆らう事は出来なかった。

 

 

樋口君には悪いが、日本には守ってやれる事は出来ない。

 

 

アメリカとて、たった一人の見ず知らずの男の為に、スターリンを敵に回すことは出来ない。

 

 

樋口季一郎の命は、もう風前の灯火だった。

 

 

 

 

 

 

しかし、ここで不思議な事が起きる。

 

 

マッカーサーは会ったことも無い、樋口季一郎を徹底的に守ったのである。

 

 

ソ連に引き渡すのを、断固拒否しただけでなく、

 

 

普通なら、中将といえばA級戦犯になってもおかしくないのだが、

 

 

樋口季一郎が東京裁判にかけれらる事さえ無かったのだ。

 

 

 

 


なぜマッカーサーは、一面識も無い樋口季一郎を守ったのか?

 

 

この事は長らく、謎のままだった。

 

 

 

 

 

 


ところが、1950年、アインシュタインが来日した時だった。

 

 

アインシュタインはご存知の通りユダヤ人である。

 

 

だから、同行していた人の中にもユダヤ人の方が多くいた。

 

 

そしてその中の一人が樋口が満州で多くのユダヤ人を助けるのを傍で目撃していた護衛だったのである。

 

 

彼いわく、ヒグチ・ルートで脱出できた多くのユダヤ人はその後アメリカに渡りました。

 

 

そして中にはユダヤ協会の幹部になった人もいます。

 

 

そんな時、Mr.樋口がA級戦犯になるかもしれないとの情報が入ったのです。

 

 

すると、多くのユダヤ人達が、樋口を助けろ! 

 

樋口を死なせてはならない!と立ち上がったといいます。

 

 

ニューヨークにある世界ユダヤ協会が、米国国防総省に働きかけ、

 

 

各地で樋口だけは死なせるなというロビー活動を展開した結果、

 

 

米国国防総省がマッカーサーに、樋口季一郎救出を指示していたのでした。

 

 

 


あの時、言いましたよね。

 

 

「ありがとう。ありがとう。Mr.樋口。

 

 この御恩は、きっといつか、きっといつの日か、お返しいたします。」と、

 

 

 

約束が果たせて良かったです。」

 

 


それに対して、樋口は静かにこう言ったという。

 

 

「私は人間として当然やらなければならない事を、やっただけ。」

 

 

 

END

 

 

 

参考:
Wikipedia樋口季一郎https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E
Web歴史街道 アッツ島玉砕https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3934
Wikipediaキスカ島撤退作戦https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%B3%B6%E6%92%A4%E9%80%80%E4%BD%9C%E6%88%A6
樋口季一郎 1/2 ユダヤ人を救った日本人・ソ連の北海道上陸を阻止した日本人 https://www.youtube.com/watch?v=UD7-wxj7UNQ
産経ニュース https://www.sankei.com/column/news/170926/clm1709260007-n2.html
地図に見る日本の侵略 (太平洋戦争編)  http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col47898-2.htm
まめ柴の見る世界  戦後、知られざる戦い(占守島の戦い)http://blog.livedoor.jp/mameworld/archives/7971647.html