●奇跡の作戦

 

 

 

今日は何を書こうかと、ニュースを見てみると、

 

 

一昨日の19日、外務省が今まで極秘扱いになっていた外交文書を22冊公開した。

 

 

これによって、沖縄返還交渉をめぐってのやり取りや、中曽根・レーガン書簡など、

 

 

今までベールの下に隠されていた外務省とアメリカ政府とのやり取りが、明らかになった。

 

 

こういう外交文書は、50年間は公開しないとしていた。

 

 

 

 

 


この様に、当時はどうしてアメリカが、ああいう行動をとったのか、

 

 

今まで謎だった部分が、戦後になって初めて明らかになる事があります。

 

 

 

 


今日は、私が最も感動した、東京裁判(戦争犯罪人を裁いた裁判)での、

 

 

あるアメリカの不可解な謎の行動には、戦後だいぶたってから明らかになった話を紹介したいと思います。

 

 

そこには今の日本の歴史の教科書には載っていない恐ろしい野望があったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

1888年、一人の男の子が淡路島に生まれます。

 

 

名前を、季一郎(きいちろう)。

 

 

5人兄弟の長男でした。

 

 

実家は代々続く船問屋でした。

 

 

所が、この時期(明治)以降、世の中は蒸気船が普及し始めます。

 

 

そして、季一郎の父の代で、船問屋は倒産。

 

 

両親は離婚しました。

 

 

季一郎、11歳の時でした。

 

 

その後、季一郎は母の実家に引き取られますが、生活は苦しく、

 

 

季一郎、18歳の時、養子に出されました。

 

 

当時、日清戦争が終わったばかりで、日本の勝利で終わった戦争でしたが、

 

 

ソ連(今のロシア)は、日本が戦争で勝ち取った遼東半島を自由に出来るのが気に入らず、

 

 

フランスとドイツと共に、遼東半島を返還する事を要求してきます。(三国干渉)

 

 

結局、日本はソ連の要求を蹴る事が出来ず、遼東半島を放棄したのでした。

 

 

季一郎は、この事を知りソ連に対して危機感を覚えます。

 

 

軍人となる決意をすると、迷わず陸軍士官学校に進学しながら、

 

 

東京外語学校でロシア語を徹底的に勉強したのでした。

 

 

その後、陸軍大学校を卒業すると、ロシア語が堪能だった事もあり、

 

 

季一郎は、すぐウラジオストク(シベリア)に派遣されます。

 

 

その後、満州やロシアのあちこちに赴任したのち、36歳の時にポーランド公使館付武官に任命されます。

 

 

しかし、当時ヨーロッパでは、日本人も下に見られ差別の対象になっていたのである。

 

 

そんな中で、季一郎に優しく接してくれたのはユダヤ人だけでした。

 

 

ソ連に赴任している時も、どうぞ私の家を使って下さい。と言ってくれたのもユダヤ人だった。

 

 

だからウラジオストックに滞在していた半年間も、ずっとユダヤ人の家の身を寄せてお世話になっていた。

 

 

ある時、季一郎がロシア領のグルジアを旅している時でした。

 

 

貧しい集落に立ち寄ると、一人のユダヤ人の老人に呼び止められます。

 

 

老人は季一郎が日本人だと知ると、急に顔色が変わりました。

 

 

そして、急いで家に招き入れ、彼に涙ながらにして話し始めたのでした。

 

 

「私たちユダヤ人は世界中で迫害されています。

 

 でも、日本の天皇こそが、そんなユダヤ人が困っている時に救ってくれる救世主に違いありません。」

 

 

実際、その直後の1933年、ヒトラーが総裁になると、ユダヤ人への虐待が積極的に始まったのです。

 

 

その中でも特に有名なのは、「水晶の夜」という事件です。

 

 

発端はあるユダヤ人の少年がドイツの大使館員を殺してしまった事件でした。

 

 

これは数ある事件の一つに過ぎませんでしたが、ヒトラーのナチス政権は、この事件を利用します。

 

 

全ドイツ国民に、ユダヤ人への報復を呼びかけたのです。

 

 

すると、それを聞いた国民がたった一夜の内に、ドイツ国内の全ユダヤ教の教会を破壊し、焼き、

 

 

7500店舗ものユダヤ人が経営する店のガラスを割ったのでした。

 

 

町中の路地は、教会のガラスと店舗のガラスの破片が散らばり、

 

 

その日の夜には、街灯の下で沢山のガラスの破片がキラキラと光り、

 

 

まるで沢山の水晶がばらまかれてるいる様に道が輝いていたと言います。

 

 

やがて、ユダヤ人はゲットーに送られ虐殺が始まったのである。

 

 

当時ポーランド国民の3分の1がユダヤ人でした。

 

 

みな虐殺を逃れようと子供を連れて命からがら、ソ連(今のロシア)に逃げます。

 

 

ソ連は当時、ユダヤ人達の入国を許可していました。

 

 

と言うのは、シベリア開発の働き手が大量に必要だったからです。

 

 

しかし、ソ連に逃げてきた人たちはひ弱なインテリや子供、老人、女性たちで、

 

 

とてもシベリア開発の担い手になりそうな人たちではありませんでした。

 

 

そうなるとソ連政府は、そんなユダヤ人達には興味が無く、援助する事はありませんでした。

 

 

ユダヤ人家族や子供たちは、電車を乗り継ぎ、ロシアと満州の国境までたどり着きます。

 

 

シベリア鉄道の満州への終点・ オトポール駅です。(現在のザバイカリスク駅)

 

 

しかし、満州国に入る為のビザがありません。

 

 

ユダヤ人達は、オトポールの駅で-20度という寒さの中、途方に暮れていました。

 

 

極寒の中、凍死する者や餓死する者が出始めます。

 

 

当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでいて、ナチスから逃れてきたユダヤ人達に

 

 

ビザを発給する事が出来なかったのです。

 

 

満州国に居たユダヤ人会の仲間たちは、色々な方面にお願いしますが、

 

 

誰もビザを発行する危険をおかす日本人を探すことはできませんでした。

 

 

何しろ軍部の方針に逆らう事は、即クビが確実だったからです。下手したら銃殺です。

 

 

そんな時、ユダヤ人会が最後の頼みの綱として頼ったのが、

 

 

当時ハルビン特務機関長になっていた樋口季一郎でした。

 

 

極東ユダヤ人協会の会長、カウフマンは季一郎に難民の救済を訴えました。

 

 

「仲間たちが、オトポール駅で凍死しそうになっています。

 

 どうか、どうか助けて下さい。」

 

 

季一郎は、迷うことなく、直ぐにオトポールに居るユダヤ人達に食料と毛布、燃料を届けます。

 

 

そして独断で、ユダヤ人達にビザを発給しただけではなく、彼らの為に特別列車まで用意したのです。

 

 

助かったユダヤ人達は、季一郎とそれを手伝った安江氏の事を列車から、

 

 

見えなくなるまで手を振って感謝していたといいます。

 

 

「ありがとう。ありがとう。Mr.樋口。

 

 この御恩は、きっといつか、きっといつの日か、お返しいたします。」

 

 

当時、季一郎の妻は娘(四女)にこう言っていました。

 

 

「お父さん、クビになって日本に帰るかもしれないの。だから荷物の整理しましょう。」

 

 

実際、この事件を耳にしたナチスは激怒して、日本に抗議します。

 

 

「ユダヤ人達を助けた樋口を処分しろ!」

 

 

ナチスの抗議は、当時の東条英機の耳にも入ります。

 

 

そして独断で軍部の規則に違反したとして、関東軍司令部に出頭し、東條英機参謀長と会います。

 

 

季一郎はクビを覚悟していました。

 

 

しかし、相手が東条英機といえども、一応言いたい事は言ってから辞めようと思いました。

 

 

「日本はドイツの属国ではありません。

 

 ドイツが ユダヤ人達を迫害し死に追いやるのであれば、 それは人道上の敵と言うべきです。

 

 それに日本が日露戦争の時、困っていた時に助けてくれたのは、ユダヤ人です。」

 

 

実は、日露戦争の時、日本は資金難で戦争するお金が無くて困っていた。

 

 

当時の日銀副総裁だった高橋是清(これきよ)は資金調達の為にアメリカに渡り、

 

 

外債を引き受けてもらうと奔走するが、どこも日本の公債を引き受けようとしなかったのである。

 

 

高橋是清は最後の綱として、日英同盟を結んでいたイギリスに渡ってお願いしたのだが、

 

 

ロスチャイルドに融資を断られ、八方塞がりの状態だったのである。

 

 

そんな時、日本を救ってくれたのがユダヤ人の銀行家だったのである。

 

 

これによって、日本は戦時国債を発行する事が出来、日露戦争に勝つ事が出来たのである。

 

 

実は後に分かるのだが、当時ユダヤ人達にとっても日本は救いの神だったのである。

 

 

その頃、ソ連(ロシア)ではユダヤ人迫害が始まっていたが、

 

 

どの周辺国も大国ソ連に戦いを挑む国など無かったのである。

 

 

のちに投資したユダヤ人銀行家は、こう書き残している。

 

 

「ロシア帝国に対して、立ち上がった日本は、神の杖(つえ)である!」

 

 

その後、日露戦争に負けた帝政ロシアが崩壊したのは言うまでもない。

 


いずれにしろ、樋口季一郎の言い分に納得した東条英機は、

 

 

樋口季一郎の行為を不問として許しただけでなく、

 

 

彼を処分せずに、逆に参謀本部第二部長へと栄転させたのでした。

 

 

そして、東條英機はドイツの抗議にたいして

 

 

「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ!」と一蹴しました。

 

 

後に、樋口季一郎はこう語っています。

 

 

「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる。」

 

 


その後、このユダヤ人救出ルートをユダヤ人達はヒグチ・ルートと呼び、

 

 

次々にこの命の脱出ルートを聞きつけて、ユダヤ難民達が助けを求めてやってきたのでした。

 

 

このルートで上海に逃げる事ができたユダヤ人は、4370人に上ります。

 

 

また極東ユダヤ人会によれば、助かった人達は2万人にもなるはずとも言われます。

 

 

1942年、季一郎は、札幌に司令部を置く北部軍の司令官となり、

 

 

北東太平洋陸軍作戦を指揮する事になり、満州を立ちました。

 

 

しかし、ハルピンを出発する日、数千人のユダヤ人が季一郎を見送ったと言われています。

 

 

 

 

 


さて、北海道に赴任になった季一郎ですが、

 

 

ここで、人生最大の難問が彼を襲います。

 

 

 

続きは、→ ⇒ https://ameblo.jp/hirosu/entry-12427301059.html

 

 

 

前のページ(奇跡の作戦のつづき)に戻って読んで下さい。

(1つ前にすでにアップ済)