●悪魔の様な豊臣秀吉
このお話は、一昨日のブログ(●武士の幽霊)の続きです。
従って、一昨日のブログ(https://ameblo.jp/hirosu/entry-12394260329.html)
を先にお読みください。
そしてから下をお読み下さい。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
[前回までのあらすじ]
武士の幽霊を見たという話は時々耳にするが、
話を聞くと、大抵は昔壮絶な戦いがあった戦場跡とか、お城の跡だったりする。
しかし、私の所に寄せらた相談は、武士の幽霊をホテルで目撃したという相談だった。
それは千葉県に住んで居る中山さんと言う年配の男性からの電話相談だった。
ふと急に、テレビを見ていると高尾山の事が取り上げられていて、
なぜだか分からないが、自分も高尾山に登った方が良いという気持ちになったという。
当初は、少し涼しい位の5月に登る予定を立てたのだが、
何かしら用事が出来て、登山の予定が結局6月後半にずれこんでしまった。
無理をしないで、八王子市のホテルに2泊する事にして、家を出たのが6月21日朝だったという。
中山さんは、こうして初日は高尾山登りを堪能して、予約したホテルにチェックインした。
ホテルの部屋は3階で、その日は食事をとり入浴後に、すぐ床につきぐっすり眠ってしまった。
中山さんが幽霊を目撃したのは、ホテルに泊まってから3日目の朝方だったという。
時間にすると、真夜中の2時から3時頃。寝ていると、窓に何か当たる音がして目が覚めたという。
当時、3階からの眺めが良かったので、カーテンを閉めずに眠ったという。
そんな星空が見える窓を、身を起こして見たという。すると、窓の外に、
武士らしき姿の人が薄らと映っていて、じっと中山さんの方を見ていたと言うのである。
中山さんが宿泊していたのは、3階だったので、誰かが通り過ぎる訳も無く、
中山さんはそれを見た瞬間、幽霊だと思ったという。
怖くて目を背けようとしたらしいが、首がなぜか動かなかったらしい。一種の金縛りかもしれない。
目が合ったまま、3分位すると、武士の幽霊は段々と消えて行ったと言う。
その後、しばらく経つと体が動けるようになり、
彼は部屋中の電気を点け、テレビを点け、その後再び眠る事は出来なかったという。
帰宅後、家族にその事を話したのだが、朝方寝ぼけていたのではと誰も信じてくれなかったらしい。
しかし、彼は間違いなく武士の幽霊を見たという。あれは何だったのか?どして、私の元に現われたのか?
ホテルの部屋が関係しているのか?そんな相談だった。
中山さんはホテルに2泊しています。でも、最初の日には、幽霊は現れていません。
何で最初の日には現れなかったのでしょうか?何で現われたのが、2日目だったのでしょうか?
そこで、私は中山さんに2日目の昼間はどこへ行かれたのですか?と尋ねました。
すると、中山さんは、2日目には八王子霊園にお墓参りに行ったと言うのです。
実は中山さんの本家の方のお墓が八王子霊園にあるそうなのですが、
以前から、いつかは一度は本家のお墓参りに行きたいと思っていたそうなのです。
そんな時、登る予定の高尾山の地図を見ていた時に、近くに八王子霊園があるのに気づき、
それなら良いチャンスだと思い、2拍3日の旅行の予定を立てたと言うのである。
つまり、中山さんは、八王子霊園にお墓参りに行き、宗関寺に参拝した後に武士の幽霊が現れたのである。
では、今回の中山さんの場合も、お墓参りか宗関寺に参拝した時について来たのか。という問題ですが、
中山さんの場合、説明しに現れたのでは無い感じがしました。
と言うのは、説明しに現れたなら、枕元に来て話すはずです。
それなのに、窓の外に現われてそのまま段々居なくなるというのは、なんか違う感じがします。
では、中山さんの所に現われた幽霊は何の為に来たのでしょうか?
私の経験上、幽霊が現れても、長い間目が合ったままで、何も起こらず、段々と消えていった。
こういう場合、中山さんにお礼を言いに来たのではないだろうかというのが、私の考えだった。
残る疑問は、それがなぜ武士の幽霊だったのかである。
私は中山さんに、
「ご先祖が武士だったとか、聞いた事ありますか?」と聞いてみた。
すると、中山さんは幼い頃、祖父から、
先祖は、戦国武将の北条氏照に使えていた武士だったと教えられた事がある。と言う。
それから何年か経って中山さんが中学生になった時、
お祖父ちゃんから教えてもらった事が気になって、北条氏照の事を自分で調べた。
すると、北条氏照は、戦国時代に八王子城の城主となって、
最後は小田原城で、豊臣秀吉に破れて亡くなった武将だという事が分かったという。
今から約430年前の出来事である。
当時、豊臣秀吉は焦っていた。
天下統一まで、あと一歩の時だったのだ。
しかし、天下統一を達成させる為には、
最後の抵抗勢力である北条氏を滅ぼさなければならないのだが、
北条氏一族は、小田原城を拠点として籠城を決め込んでいたのである。
北条軍5万6千に対して、秀吉軍はその約4倍の22万。
数は圧倒的だったのだが、小田原城は頑強で戦国時代屈指の城だった。
かつて上杉謙信や武田信玄の攻撃さえ跳ね付けた城だったのである。
城の中には、城下町が丸ごと入ってしまうほどの大外郭も完成している上に、
城内には畑まであり、持久戦にはびくともしない城だったのである。
それでも秀吉はあらゆる手を使って、城を責めた。デマ情報をばら撒いたり、水攻めをしたり、
持久戦にならぬようにと、秀吉は小田原周辺の米を買い占めた。
その額なんと黄金1万枚と言われる。
これは30万人の民が1年間食べていける程のお米を買い占めたと言われる。
しかし、小田原城を攻略する事は出来なかった。
天下統一まで、あと一歩。最後の一歩。なのに足踏み。
中山氏いわく、
この時、豊臣秀吉は、天下統一と引き換えに、魂を悪魔に売り渡したのだと思ったという。
豊臣秀吉は、ある極秘情報を耳にする。
それは、現在小田原城に立て籠もっている武将達の妻や子供達は、現在八王子城に居る事。
そこで、豊臣秀吉は部下の前田利家に、悪魔の作戦を実行させる。
それは、八王子城を攻め落とし、小田原城に立て籠もっている妻や子供達の首を取って来い!
1590年6月22日、秀吉の命を受けた 前田利家勢と上杉景勝勢は元八王子へ到着した。
その数、1万5千。それに対して、八王子城の守りはわずか2000名。
しかも、主力部隊は全て小田原城に出向いていたので、ここ八王子城に残っているのは、
農民や野武士や、神官や山伏、女や子供達で戦いには不慣れな者達がほとんどだったのです。
そして、6月23日早朝より八王子城の攻撃を開始。
ところが、八王子城もさすが北条氏が作った城。
関東でも最も頑強な山城だったのです。
なので、なかなか攻略出来ません。
しかし、八王子城の作りをよく知る1人の家臣・平井無辺が裏切り、塀を城内に入れてしまいます。
これによって、八王子城は大混乱。
この時、前田・上杉群を相手に1人で立ち向かったのが、
八王子城を守っていた北条氏照の重臣・中山家範だった。
中山家範は、馬術や槍の名手と言われ、北条家において数々の手柄を立ていた武将だった。
彼は降伏せずに、一人で最後まで大群を相手に戦った。
それを見た前田利家は、その見事な戦いぶりに敵ながらあっぱれと、部下に殺してはいけないとまで言ったという。
しかし、中山家範は最後の最後まで戦い続け、最後は息子2人と妻を切ってから自害したという。
(後にこの武勇伝を知った徳川家康は、小田原城を陥落させた後、
無事だった中山家範の息子2人の手当てをして保護し、徳川家康の小姓に召し抱えた。)
その後、八王子城はたった1日で陥落。
この戦いで、女・子供を含めて1200人を虐殺もしくは自害させた。
城の前に流れる川にある御主殿の滝の水が3日間血の色に染まったと言われる。
秀吉の命を受けた前田・上杉群は、八王子城の攻撃で殺した北条の兵の妻達の首を、
小田原城に持ち帰り、小田原城に立て籠もっている兵たちに見せつけて士気を弱めたという。
記録では、前田勢が280首、上杉勢が273の首をあげたと言われる。
小田原城で篭城していた北条氏照は、その時、床を叩いて号泣したと伝えられる。
結局小田原城は3ヶ月の籠城虚しく降伏し、これで1590年の豊臣秀吉の天下統一となる。
実はこの悲劇の八王子城跡の麓に建っているのが、
中山さんが昼間に参拝した宗関寺だったのです。
中山さんいわく、自分の先祖が八王子城の戦いで死んだ北条氏照の重臣・中山家範かどうかは分からないけど、
そうだったらいいなぁ。と思いながら参拝したという。
そのお礼に現われたのか、それとも北条氏の霊が家臣の子孫にお礼をしに現れたのか。
それは分からない。
しかし、1つだけ言える事がありますよ。と私は中山さんに言った。
それは、八王子城が陥落して多くの人が亡くなったのは、6月23日でした。
そして、貴方が武士の幽霊を見たのが、奇しくも同じ6月23日です。
つまり、多くの人達が八王子城で亡くなった人達の命日です。
これは偶然では無いと思います。
貴方が、八王子城の惨劇を知り、そして宗関寺に参拝してくれたお礼に、
亡くなった人の誰かが、お礼をしに現れても不思議では無い日なのです。
もっと言えば、貴方が最初に5月に行く予定だったのが伸びて6月23日になったのも、
高尾山に登ろうと思い立ったのも、地図を見て八王子霊園に行こうと思ったのも、
もしかしたら、全て導かれたものだったのかもしれませんよ。
中山さんは、それを聞いて少し納得した様子だった。
これでこの相談案件は終了となったが、
この話とは別に、中山さんは私に彼の持論を私に熱弁し続けた。
それは、豊臣秀吉は、八王子城落城から悪魔の所業を繰り返す様になったという。
八王子城落城の翌年、天下人となった豊臣秀吉は奥州仕置きと称して、東北地方で唯一彼にたて突く
岩手県の九戸政実を打ちに、後継者の豊臣秀次を向わせます。
九戸政実の反乱によって、秀吉の天下統一は再びお預けとなります。
そして、秀吉の天下統一の最後の相手はこの九戸政実になりました。
総勢6万5千の兵が九戸城を包囲します。
それに対して、九戸政実軍はわずか5千。
圧倒的な兵力の差ですが、九戸政実軍は城に籠城して出て来ません。
これではなかなか勝負がつかず、天下統一がまたあと一歩で停滞です。
ここでもまた豊臣秀吉の悪魔の顔が現れます。
豊臣秀次に命じて、九戸政実と話し合いで解決させようと指示。
しかし、九戸政実は交渉を拒否、頑として城から出て来ようとしません。
そこで、九戸政実の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を、仲介役として向わせます。
自分の菩提寺の和尚が来たとなれば、無下に追い返す訳には行きません。
和尚を城に入れると、和尚は秀吉軍の講和条件を伝えました。
「降伏さえすれば一命は助かり、その功により、所領はそのまま安堵されるだろう。
開城するなら、女・子供と兵達は助けてやる。」という条件でした。
九戸政実は降伏を受け入れて、家臣らと白装束姿に身を包み出家姿で降伏しました。
しかし、その直後、
籠城していた者は女も子供も全員なで斬りにされ、燃やされたのです。
その炎は、夜空を三日三晩焦がしたと言われます。
九戸政実ら家臣たちは首をはねられ、京都でさらし首にされました。
この時をもって、豊臣秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げる。
豊臣秀吉は翌年、色々と親身に使えてくれてた茶聖とまで言われた茶人の千利休を、
一方的に難癖をつけて、切腹させます。
その翌年から、愚策だった朝鮮出兵を2度も行い失敗。
それもあって、豊臣秀吉は、未だに韓国人が嫌いな武将NO1に輝いています。
朝鮮出兵を停戦させた翌々年、今度は自分の息子で奥州仕置きを行なった天下取りの功労者・
豊臣秀次に謀反の疑いありというウソの罪を着せ、切腹させます。
そして、豊臣秀次に使えていた家臣30名以上を殺し、
豊臣秀次に使えていた側室の女性や女の子、妻・妾・子供など女ばかり合計30人を京都の三条河原に連れて行き、
そこで全員を見物人の前で惨殺。処刑した亡骸を次々に穴に放り込んだと言われています。
この時、可哀想だったのは、当時「東国一の美少女」と歌われた、最上のお姫様・駒姫です。
彼女はまだ15歳で、豊臣秀次の所に行く事が決まっていましたが、
まだ豊臣秀次に会った事もありませんでした。
これには秀吉の妻・淀殿茶々様もまだ幼いのに可哀想だと助命を嘆願しましたがダメでした。
駒姫の父親の最上義光は、徳川家康に助けを求め、赦免に奔走したのですが、
逆に義光自身も謀反への関与を疑われる始末で、娘を助けるどころか自分の命まで危うくなってしまいます。
結局、娘・駒姫の死体の引き取りもできなかったばかり、埋められた穴の上には、
「畜生塚」と刻まれた碑が立てられたという。
現在、そこには、瑞泉寺が立っている。
そのわずか3年後でした。
豊臣秀吉病死。秀吉の天下はわずか8年で終了となったのです。
秀吉の最後まで付き添っていた宣教師のロドリゲスが書いた手記に寄ると、秀吉の最期は、
「干からびたかのように衰弱しておりボロボロになっている。
まるで悪霊のようで人間とは思えない」と記されている。
最後に、
その後の八王子城はどうなったのかですが、
天下取りに貢献した功績により、関東にある八王子城は、徳川家康のものとなりました。
しかし、徳川家康は、豊臣秀吉の命で行った八王子城の大量虐殺のタタリを恐れて、
八王子城一帯を幕領にして禁制地とし、一般人の立ち入りを禁止した。
それは家康が築いた264年間続いた江戸時代の幕末まで続いたという。
現在、多くの人が亡くなった川や滝の側では、
時々血だらけの女性の霊が目撃されたり、
刀と刀がぶつかる様な音がしたり、甲冑姿の武士と人魂が目撃されるという。
毎年6月23日には、そんな怪奇現象が起こる事が多いので、
この日だけは、近くに住んで居る住民さえも、この八王子城には近づかない。
参考:戦国武将列伝https://senjp.com/hachi2/
セレクト日本史http://pleasure-bit.com/1118.html
yamacomi: http://www.yamacomi.com/6768.html


