17、メジャーへ(5)
恵が家に帰ると、父がいつものようにビールを飲んでいた。
「ただいま」恵は元気なく、居間にやってきた。
「おう、おかえり。徳永君は巨人に行けそうか?」
しかし恵は、そんな父の問いかけも無視して「ねえお父さん。ロサンゼルスってどんな街?」と聞き出した。
「いきなりなんだよ」
「知ってるなら教えて」
「俺は行った事ないんだけど・・・」
「知ってる限りでいいの」
「俺の会社の取締役に聞いた話だけどな。治安が悪い街らしいな」
「そうなの」
「ああ、夜寝ていたら遠くから何発か銃声が鳴り響いてきたらしい。それに1992年にロス暴動というのが起きてな」
「ロス暴動?」
「白人警官が、黒人に暴行を働いたのがきっかけで、怒った黒人達が、暴動を起こして街を破壊したらしいんだな」
恵は黙り込んでしまった。
「それに殺人事件が年間400件ぐらい起こるらしいしな」
「400件!ひとつの街で?」
「ああ、そうらしいぞ。まあ住めば都なのかもしれんがな」
恵は完全に怯えてしまった。
恵はその晩ベッドの中で、ずっと考えていた。
旅行で行くならまだいいけど、恐くてとても住めない。
それに仕事どうやって探したらいいの?
それどころか言葉も通じない。
陽一、それだけは無理だよ・・・。
10月に入っても、陽一のプロ志望届けは出されなかった。
そしてマスコミ各社が、遂に騒ぎ出した。
陽一は一体何処に行く気なのだと。
学校の周りには連日報道関係者が取り囲み、記者達は生徒を捕まえては、こっそりと陽一の進路を聞こうとした。
しかし、どの生徒も「わからない」としか答えなかった。
陽一の進路について知っているのは、陽一以外には恵しかいなかった。
そして恵が車椅子の由香子を押して通学してきた。
すると一人の記者が「徳永の彼女だ!あの子なら知ってるかも」と言った。
その言葉に、報道関係者は一斉に恵に詰め寄った。
「ねえ、君知ってるでしょ教えて」
「知りません」
「うそでしょ?知ってるでしょ?」
「本当に知らないんです。すみません、学校に入れてください」
しまいには由香子が怒り出した「どきなよ!邪魔だよ!いい加減にしろよ!」
しかし、二人は報道陣にモミクシャにされてしまった。
校長先生が飛んで出てきて、なんとか恵も由香子も脱出できた。
そして二人は校長室で、しばらく休憩させてもらった。
「なんて奴らだ」由香子はグシャグシャにされた髪型を、ブラシで整えていた。
しかし恵はソファーに座って呆然としていた。
すると由香子が「恵、元気だしなよ」と言って、恵の髪をブラシでときだした。
由香子に髪をとかれていると、恵の目から涙がポロポロとあふれ出た。
「ごめんね由香子・・・私のせいでこんな思いさせちゃって・・・」
「恵・・・」
「もう嫌だ・・・」
警察がやってきて、報道陣はなんとか排除された。
そしてその日の晩、恵と陽一はヴェルニー公園に待ち合わせた。
「陽一、もう結論を出したい・・・」
「そうだな」
「あのね・・・ロサンゼルスの件なんだけど・・・」
陽一は黙って海を見続けた。
「諦めて欲しいんだ」
恵のその言葉を聞いても、陽一はひたすら海を見続けた。
「私、料理の仕事もしたい。でもアメリカで働く自信がない。第一言葉が通じないじゃん・・・陽一の言う事ならなんでも聞く。でも、それだけは諦めて」
すると陽一は「無理だ」と一言だけ言った。
「どうしてなの?私の一生のお願いを聞いてよ」
「無理だ。もうメジャーに行くと決めた」
「じゃあ私どうすればいいの!」恵は感情を高ぶらせた。
「ついてきて欲しい」
恵の目から涙が落ちた。
「陽一!勝手だよ!私、今まで陽一の事を中心に考えてきた!自分よりも陽一の事を考えてきた!なのにどうして!どうしてたった一つのお願いを何で聞いてくれないの!」
「他の事なら、なんでも聞く。でもそれだけは譲れない」
陽一はそう言うと、横須賀駅の方へと一人歩いていった。
恵はその場で泣き崩れた。
「陽一・・・ひどいよ・・・ひどいよ・・・」
喧嘩もした事がなかった。
物凄く仲良しだった。
いつも二人一緒に居た。
誰からも羨ましがられたカップル陽一と恵。
そして今その二人の関係に、大きな亀裂が入ろうとしていた。
それは進路問題という大きな障害のせいだった。