今日はものごとを成功と失敗に分けることについて書いてみたいと思います。
吃音の人は、吃らずに話したときに「話せた」と思い、吃ったときには「話せなかった」と見なします。
ここには、吃ったかどうかで成功と失敗を分ける考え方が背後にあります。
こういうふうに思っているうちは、実はまだまだなんです。
最終的な到達点は、話せたとか話せなかったといったことがもうどうでもよくなり、そのことへの関心自体が忘却の彼方に行ってしまうことです。
もちろん「話せた」という体験を喜ぶのはいいことです。吃音の人は「話せなかった」ことばかりに意識がいき、「話せた」ことをほとんど意識していないことが多い。
そういう人が「話せた」ことを体感するのは大きな意味があります。
しかし、そこに留まっていたら、あくまでも「吃ったかどうか」で判断する枠組み(パラダイム)の中にいることになる。
他方で、私たちは普段、例えば箸を何気なく持って使っています。今日はうまく使えたとか使えなかったとか、そんなことを気にすることはまずありません。ましてやそのことを気に病むことなどありません。
吃音もそんなふうに気にすること自体が無くなる、吃音であったことすら忘れるということが、最終的な到達点です。私達は便宜的に吃音を「治す」とか「治る」といった表現を使っていますが、あれは正確には「消える」というべきですね。