行徳哲男師の心に響く言葉より…

 

 

 

感性というのは等質性を持つんですね。

 

質を等しくする世界ですから、 違いは探さない。

 

ところが知性や理性というのは違いを探そうとします。

 

自分とあれはどう違うかと。 

 

 

例えば私たちのような年寄りが若者を見る時に、違いばかりを探していたら 「今どきの若い者は......」とぼやくしかないでしょう。

 

若者にしても「今どき の年寄りは......」となってしまう。

 

ここにはまったく融和がないですよ。 

 

 

ところが感性は質を等しくしますから、若者に違和感を持つことがない。

 

私自身そうですし、自分のその生き方に満足しています。

 

私は若者が大好きで、私の家は若者たちのたまり場になっています。

 

 

だから「今どきの若い者は・・・・・・」という言葉は、私にとっては禁句です。 

 

政治家の集まりで話す時でも、「今どきの若い者は、っていう言葉を使ったら政治家をやめるべきだ」と言っています。

 

同じく、経営者もやめる べきです。 

 

 

その点、幕末明治の日本がものすごく躍動していた時代のお年寄りたちは違いを探さなかったですね。

 

たとえば橋本左内という若者を見出したのは越前藩主の松平春嶽です。

 

年の差をまったく感じずに、二十歳そこそこの若者を自分の参謀に用いています。

 

そこに違和感はまったくないんです。

 

 

吉田松陰と周布(すふ)政之助の関係を見てもそれを感じますね。

 

ああいう先輩がいたから松陰が生まれてきたんですよ。

 

それに比べると、違いを探しすぎますよ、現代人は。

 

 

 

いまこそ、感性は力』致知出版社

いまこそ、感性は力

 

 

 

 

 

 

 

違いを探せば探すほど、「老」は「老」で、「青」は「青」で集まることになってしまう。

 

昨今、問題になっているのが、中高年の人たちの居場所だ。

 

仕事場と自宅との往復を何十年と続けてきた人たちは、他の世界を知らない。

 

すると、定年退職した後の居場所がなくなる人が続出する。

 

 

それは、「キョウイク」と「キョウヨウ」がないからだと言われている。

 

「キョウイク」とは、今日行くところがあること。

 

つまり、居場所のこと。

 

 

そして、「キョウヨウ」とは、今日用事があること。

 

用事があるとは、人から必要とされていることだ。

 

 

その居場所の現代版を「サードプレイス」という。

 

第一の場(ファーストプレイス)が自宅で、第二の場(セカンドプレイス)が会社、そして、第三の場(サードプレイス)を心がやすらぐホッとできる居場所のことをいう。

 

しかし、いくらサードプレイスがあっても、多くの年配者はなかなかそこに入ることができない。

 

 

なぜなら、「違い」を探してしまうからだ。

 

「違い」ばかりを探し、指摘する人は文句や批判しか言わない。

 

それは、年をとって柔軟性がなくなり、自分の意見に固執し、共感する感性が弱まっているということでもある。

 

感性が豊かなら「どこがどう違うか」を探すのではなく、「どこがどう同じなのか」を探すからだ。

 

 

「どこがどう同じなのか」を探す人は、何事も「面白がる」ことができる人だ。

 

「面白がる」ことができる人は、なんでもいったん肯定して、受け容れる。

 

そして、感動できる人。

 

 

感動とは、感じて動くことだ。

 

まさに感性の世界。

 

 

いくつになっても…

 

どこがどう同じなのかを探す人でありたい。

 

 

 

いまこそ、感性は力

 

 

 

 

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