ゲイツとジョブズ

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竹内一正氏の心に響く言葉より…


ビル・ゲイツはすごいプログラマーだったのか?

そうではない。

なるほどプログラムをすることは好きだった。

しかしある時、新しくゲイツと仕事を始めた若者が、すでに完成していたプログラムを見て、「誰だ?こんなひどいプログラムを書いた奴は」とバカにしてしまった。

もちろんそのプログラムを書いたのはゲイツだった。

ゲイツより優れたプログラマーはたくさんいたのだ。


ではジョブズは素晴らしいエンジニアだったのか?

そうではない。

アタリ社で一応テクニシャンとして仕事をしていたが、優秀とは言いがたいレベルだった。

アタリ社創業者ノーラン・ブッシュネルから「ブレイクアウト」というブロック崩しゲームの回路設計を請け負った時も、実際に設計したのはジョブズではなく、友人だった。

友人に頼んでやってもらい、あたかも自分で設計したようにブッシュネルに報告し、驚かせた。

むろん、その友人とは、エレクトロニクスの魔術師ウォズニアックだった。


ビル・ゲイツは天下一のプログラマーではなく、ジョブズも天才エンジニアではなかったのだ。

だが、たとえば指揮者のカラヤンも小澤征爾(おざわせいじ)も、バイオリンやフルートの名演奏家ではない。

それでも、オーケストラを率いて感動の演奏を生む。

優れた指揮者は、個々の楽器をうまく弾けなくても、問題はない。


ゲイツもジョブズも同じである。

ただし、二人は共に希代(きだい)の名指揮者であることは間違いないところだが、ビジネス術では決定的な違いがある。


ビル・ゲイツは商売を第一に考える。

だから、性能なんて後回しだ。

「天ぷらうどん」がなくても品札(しなふだ)を掲げ、お客が「天ぷらうどんをくれ」と言ったら、平気で素うどんを出す。

天ぷらの材料がなく、揚げ方もわからないが、仕入れて準備するより、手元にある素うどんでも出しておけば、ともかく「うどん」であることは間違いない。

「腹が減ってりゃ、客も文句は言わないはず」というのがゲイツ流だ。

マイクロソフトが開発したMS・DOSも、ウィンドウズも、そうだった。


それに対して、ジョブズは性能を追求する。

この目標だと決めたら、徹夜続きでぶっ倒れかかっているメンバーの首根っこをつかんででも、前に進み、目標を達成させる。

どれだけ客を待たせても、「素うどん」ではなく「天ぷらうどん」をつくり上げて客に届ける。

たとえば、マッキントッシュが設計目標をクリアして製品として完成するまでに、ジョブズは当初考えたより2年間も余計につぎ込んでいる。

ゲイツでは考えられない非効率ビジネスだ。

ゲイツが現実主義者とするなら、ジョブズは完璧主義者だった。


スティーブ・ジョブズ 神の策略 (リュウ・ブックス アステ新書)』経済界






竹内氏はこう語る(本書より)。

「ジョブズはPARC(ゼロックス社のパロアルト研究所)でパソコンの未来を発見したが、PARCを訪れた人々はジョブズ以外に数多くいた。

リンゴが木から落ちるのを見た人はたくさんいたが、そこから万有引力の法則を発見したのはアイザック・ニュートンだけだった。

また、ヤカンの蓋(ふた)が蒸気で持ち上げられるのを見た人は数限りなくいたが、そこから蒸気機関車を発明したのはジェームズ・ワットだけだった。

チャンスの女神は、往々にして私たちの手の届くところに潜んでいるようだ。

そして、人が見逃してしまいがちなチャンスを発見する力は、24時間絶えず考え続ける『持続思考』にあることは間違いない。

頭脳が問題を解こうとフル回転をしていると、チャンスのほうが手を振ってくれる」


同じものを見て、ある人はそこに大きな成功の種を発見し、多くの人はそれを見過ごしてしまう。

寝ても覚めても考え続けているかどうかが、閃(ひらめ)きの差となってあらわれる。

ある種の執念であり、勘違いにも似た思い込みだ。


とほうもない夢を実現する人には限りない魅力がある。



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リチャード・テンプラー氏の心に響く言葉より…


人は「忙しすぎて」「ついうっかり」などと言い訳したり、「前に言ったことだからいちいち口に出さなくても察してほしい」と平気で開き直ることがある。

「お願いします」「ありがとう」が忘れ去られる場面はけっこうあるのだ。

これはひとえに旧来の悪しきマナーがなせるわざにほかならない。


基本的な人間としての品位や礼儀すらおろそかにしだしたら、私たち一人ひとりの存在意義がまったくなくなってしまう。

「ありがとう」も「お願いします」も言えないくらい礼儀知らずになったら、それこそ人間もうおしまいだ。


日に何回メモを渡されようが関係ない…そのたびに必ず「ありがとう」のひと言を。

日に何回も同じことを頼もうが関係ない…そのたびに必ず「お願いします」の気持ちで。

誰かが自分のために何かをしてくれたときも、それがどんなに日常茶飯の退屈なだけでたいしたことのない雑用だろと、「ありがとう」の言葉を絶対欠かしてはならない。


一回でも言い忘れたら最後、「感じの悪い無礼者」の烙印を押されてしまう。

人の気分を害さないためにも、「お願いします」と「ありがとう」は欠かさずに。


昔の同僚に、深夜勤務、休日出勤、残業ばかりか、書類を自宅に持ち帰って休日返上で週末も働くなど、人一倍仕事に精を出す部下が自然と集まる管理職がいた。

そこで彼の一挙手一投息に注目し、自分たちの行動との違いを探ったところ、それが部下の忠誠心の獲得にあることがわかった。

ここまで来れば、私が言うまでもなく、もうお気づきだろう。

そう、彼は「お願いします」と「ありがとう」の気持ちを忘れなかった。

心のこもった「ありがとう」は、まさに絶大な威力を発揮するのである。


ほめ言葉をもらったときに自分をけなさないようにする、というのもお勧めだ。

「よくやった」とほめられたとたん、顔を赤らめて「いや、それほどでも」と口ごもるのはやめること。

それでは、せっかくのほめ言葉が台無しになる。

そんな場合はむしろ「ありがとう」と言ったほうがいい。


なぜか出世する人の「仕事のルール」―「できる人」より、「ふさわしい人」になれ。』ダイヤモンド社





何かをしてもらったとき、いちいち「ありがとう」というのはわざとらしい。

ちょっと会釈するくらいでいいのでは、という人がいる。


小林正観さんは、それについてこう語っている。

「心の中で思う力(想念)よりも、『口に出した言葉の力』のほうが、はるかに大きなエネルギーを持っています。

ですから、『よき仲間』を増やすには、心の中はどんな状態であれ、『ありがとう』と『口に出して言ったほうがいい』と思います」


例えば、「かけそば」を食べたいと思ってお蕎麦屋さんに入ったのに、つい「カレー南蛮」と言ってしまったら、カレー南蛮が出てくる。

どんなに強く心の中で思っていても、言葉に出したものが出てくるのだ。

これは、心の中で、「コンチクショウ」「大っ嫌いだ」と思っていても、口で「ありがとう」と言えば「ありがとう」の気持ちが伝わるのと同じだという。

だから、会釈でなくて、「ありがとう」と言葉に出したほうがいい。


「ありがとう」と「お願いします」を一日に何回も言いたい。



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愚痴をいわない人

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櫻井秀勲氏の心に響く言葉より…


「あいつが入ると気が滅入(めい)るので、やめておこうか」

ゴルフのメンバーを集めるとき、幹事の間で、こんな会話がでることがあります。

雨だといっては文句をいい、前の組の進行が遅いといってはキャディを困らせ、一日中怒ったり、愚痴をこぼしている男がいませんか。

せっかくのゴルフ会が、一人の男によって暗くなるようでは、この男が仲間外れになるのは当然でしょう。


このタイプの男は、意外に多いのです。

食事に行っても、せっかく入った店ですから「うまそうだね」「いけそうですね」と、期待感を込めればいいのに、「なんかうまそうじゃないな」といわれると、それだけで味がまずくなってしまいます。

愚痴をこぼす人に限って、いい生活をしていない、と聞いたことがあります。

ゆったりとしている人ほど、何でも楽しもうという気持ちが強い、というのです。


作家の小田実(おだまこと)は、『何でも見てやろう』という本で世に出たのですが、世界一周によって、富と貧、上と下、裏と表など、世の中の明と暗を知ったのです。

愚痴をいわない人は、この両方を知った人ともいえそうです。

つまり好奇心が強ければ強いほど、自分の知らない世界にのめり込んでいくことになり、体験したよろこびが先立って、そのためにした苦労など吹き飛んでしまうのです。

愚痴る人の多くは、苦労のほうが先立って、よろこびが吹き飛んでしまうのかもしれません。


尾崎放哉(ほうさい)という俳人がいました。

彼は放浪の俳人・種田山頭火と違って、小さな庵に住み、42年の短い人生を終えた人ですが、彼の句碑(くひ)には「いれものがない 両手でうける」という文字が書かれています。


私は「何もなくても、よろこびはあるのだ」と、この句を解釈しています。

仮に、「コップがない。しょうがないな」と文句をいう男がいたら、「両手で飲めばいいじゃないか」とニッコリ笑って、いってやりたいと思うのです。


小田実には、そういう気分が横溢(おういつ)していたと思いますが、愚痴をいわない人ほど、話題が豊富だったり、体験も積んでいるような気がしてなりません。

考えが重層的であり、そこが味方してあげたくなる点だと思うのです。


人を味方につける男、敵にする男: 仕事がうまくいく人の「不思議な魅力」 (知的生きかた文庫)





愚痴ばかりこぼす人を友達にしたいと思う人はいない。

何も楽しくないからだ。

愚痴をこぼす人は、人の話をきかない。

自分のことばかり話している。

つまり、我慢ができない人。


相手を楽しませ、明るい気持ちにさせ、喜ばせる人は好かれる。

相手の話をじっくりと聞くことができる。

自分に余裕があるからだ。

だから、味方や応援者がどんどん増えて来る。


どんなときも、愚痴をいわない人でありたい。



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聴くことと笑うこと

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玄侑宗久氏の心に響く言葉より…


よく、「君はまだ若いから解らないかもしれない」とか、「経験してみないと、これは解らない」なんて、年齢や経験をひけらかして話す人がいますけど、どうも私たちは「今は不完全だけど、いつか完全になるための努力する」という考え方が染みついているんですね。

学校でも職場でも、そうでしょ。

努力して頑張って、あるところに到達しようとする。

そういう価値観から、マイナスのことを反省したりさせたりするんじゃないですか。


しかしそれなら、いつ完成するんですか?

いくつになったら完全なんですか?

あの人はもう年とりすぎて呆けてきたんじゃないか、なんて言われたら、いつが一番イイんですか?


やはりみんな、現在すでに完全なんだと思いますよ。

ある特定の価値観から見てじゃありません。

天から見て、ですから納得しにくいと思いますけど。


みんな本当は完全なのにその完全さが出てこない。

試しにでいいですからそう思ってみてほしいんです。

そしてどういう状況ならそれが出てくるのか、と。


完全さというのは輝きと言ってもいいと思います。

その人がパッと輝いて見えるのはどんな時か、ということです。

これは仮説かもしれませんが、私は笑いの中で出せる自分ほど幅広くて輝かしいものはないんじゃないか、と思っているんです。


たとえば職場で仕事の話しかできない、なんてのは、酷い職場だと思いますよ。

人間はもっとトータルな存在だし、そのトータルさが出せる場であってほしいですよね、職場も学校も。

たしかにどんな場所にも、あいつは本当に困った奴だってのがいるもんだと思います。

人が嫌がるようなことをワザとしたり、っていう人もいるかもしれません。

そんな人に説教して反省を促すのはあたりまえと考えるかもしれませんが、その人をよーく観察してみてほしいんです。


先ず、その人は滅多に笑わないんじゃないですか?

どうして笑えないのか?

たぶんその人の話が、ちゃんと聴かれていないんじゃないでしょうか?


「聴く」というのはとても難しいことですよね。

案外、人は他人の話を聞いていない。

聴かれないことが習慣化すると、ちょっとした言葉にも敏感になって、話すのを辞めてしまいます。

「そんなこと、あたりまえじゃないの」とか、「あっ、それ誰かも言ってた」とか、「だから何なの?」とか、「あなた、以前にも同じこと言ってた」とか、何気なく言っているつもりでしょうが、そうした言葉はピタリと彼らの口を閉ざしてしまいます。


ほんとうは誰もが完全であるのに、人は「聴かれない」ということだけで自らの完全さを忘れます。

その時その時で完全な自分というのは、ちゃんと聴かれる状況で、しかも笑える状況で、初めて実現するんじゃないかと思います。


まわりみち極楽論―人生の不安にこたえる (朝日文庫)




「相手の話を聴くこと」も「笑うこと」も相手の存在を認めること。

この逆の、「相手の話を聴かず、無視する」や「冷笑したり、ばかにしたりする」と、相手の存在を否定することになる。


人は誰もが完全な存在であるとは、欠点も長所もひっくるめて相手の存在を丸ごと認めること。

あなたがいてくれてよかった、と。


聴くことと笑うことはとても大事だ。



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孝行を尽くす

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伊與田覺氏の心に響く言葉より…


「三者備(さんしゃそな)わる。然(しか)る後能(のちよ)く其(そ)の宗廟(そうびょう)を守る、蓋(けだ)し卿大夫(けいたいふ)の孝(こう)なり」


三者というのは、法服、法言、徳行。

その三つが備わって初めて宗廟を守ることができる。

「宗廟を守る」とは、先祖祀(まつ)りができるということです。


高い地位に就いたのは結構であったけれども、その地位を失うと先祖祀りもできなくなる。

そうすると家が絶えるということになる。

だから、先祖祀りができるというのが「蓋し卿大夫の孝なり」で、卿大夫あるいは大臣としての孝行であろうというのです。


日本もそうですが、中国では特に先祖祀りが非常に重視されています。

それが孝行のひとつの大きな条件になっています。


曾子(そうし)が『論語』の中でこういっております。

「終わりを慎(つつし)み、遠きを追(お)う」


「終わりを慎む」とは、親が亡くなったときに葬儀を丁寧にするということです。

そして「遠きを追う」とは、その先祖の遺徳を偲(しの)んで先祖祀りをするということです。

これが孝行として非常に大切なことだと曾子はいうのです。

生きた親に孝行することはいうまでもなく大切だけれども、同時に「終わりを慎み、遠きを追う」ことを忘れてはいけない、と。


先祖を思うということは自分を大切にすることにもつながります。

今日ここに我々があるのは、先祖のお蔭によってあるのです。

また、それだけに自らも子孫にとってよき先祖となることが大切である。

子孫からよき先祖であったといわれるように、自らを慎んでやっていかなければなりません。


だから、先祖祀りをするということは、同時に自己自身を修めていくことにもつながっていくんですね。


「孝経」人生をひらく心得』致知出版社





「田中角栄さんが総理大臣になったとき、老いたる母親から『総理大臣を辞めないかんかったらいつでも帰ってこい』と言われたそうだ。

『庇(かば)うてやるから帰ってこい』と。

これが親の姿だ」(同書より)


子どもがいくら一国の総理になったとしても、親が子を思い心配する気持ちは一般庶民と変わらない。

子どもの頃から自分がどれほど親に世話になったか、大事にされたかを忘れている人は、恩を大事にできない人。

恩を忘れた人は、周りの人にも薄情だ。

人はそれをよく見ている。


先祖を大事にし、親への孝行を尽くしたい。



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