安岡正篤師の心に響く言葉より…

 

 

 

東洋人、つまり日本人でも中国人でも心ある人々、民衆が敬慕するような人の奥深くには虚無的な人生観があります。

 

古来の名宰相と言われたような人を深く観察してみると、共通して良い意味の無常観がある。

 

 

例えば、宰相になって得意になるような人、宰相になって非常に派手にやるというような人は、名宰相の中には入らぬ。

 

東洋古今のこの宰相学というものを学んで みると、そういう宰相はだめだ、落第である。

 

本当の宰相は共通して、宰相たるこ とに淡々としておる。

 

 

満足とか得意とか、いわんや誇りとか名誉とかそういう主観を持っておらん。

 

極めて自然であって、そして余裕があり、どこか一抹の寂しさを持っている。

 

難しく言えば、虚無的なものがある。

 

満足とか得意といったことを意識しない。

 

東洋人の本能というのだろうか、多くの人々は本能でそういう宰相に共鳴する。 

 

 

日本の近代で言えば、明治維新を成し遂げた西郷南洲が最も代表的な人でしょう。

 

西郷という人は、名誉だとか地位だとか権勢だとか、そういうものを誇るということが一つもなかった。

 

淡々として、どうかすると、非常に虚無的であった。

 

こういう人こそ真実の人、真人であります。

 

 

地位だの名誉だの権力だの、そういう位階・声望というものはこれは世の中の事実だから、私もそのまま肯定するけれど、それに対しては、淡々としてなんらの私心を持たない。

 

廟堂に立っても、村巷におっても平常である。

 

いつも変わらない。

 

こういうのが東洋・和漢を通ずる真人の境地であって、そういう人の典型が宰相にふさわしい人物である。

 

これは東洋の政治哲学の一つであります。 

 

現代の日本の政治家とか経営者はその地位に就くと、嬉々として嬉しがる、幅を利かす、得意になる。

 

それで大臣や社長を辞めるときには、むやみに執着する、未練を残す、苦悩する。

 

 

しかし、これは東洋の宰相、リーダーたる資質じゃない。

 

淡々として、水のごとしというところがあって初めて東洋人の好む、仰望(ぎょうぼう)する人、宰相であります。

 

西郷さんなどは生活も自然で簡素である。

 

だいたい豪邸を造るなんていうのは本当の宰相の器量じゃない。

 

あれは成り上がり者のやることだ。 

 

 

そこへいくと明治の人は偉かった。

 

私は感心したんだが、伊藤博文などは、本来は成り上がり者です。

 

長州藩のまったくの小物から出世した人物で、高杉晋作や久坂玄瑞(げんずい)などは「俊輔、俊輔」と呼び付けて手先に使い、あまり期待しておらなかった。

 

彼らから言うなら、駆け出しの人物だったのですが、それでも明治の時代には あのような大宰相になった。

 

 

表面的にはたしかに贅沢な人であった。

 

世間はどんなにか財産を残しておるだろうと言うておったのだが、死んでみたら何もなかった。 

 

財産らしい財産というものは、大磯の別荘、有名な滄浪閣(そうろうかく)だけだったが、それも彼が造ったのではなく、誰かが献上したものである。

 

伊藤さんが亡くなったら跡取りには何も残らなかった。

 

 

すっかり貧乏してしまって、ずいぶん生活に困った。

 

それくらいあの派手な伊藤さんは資産を持たなかった。

 

持たなくたってあれだけ贅沢に暮らせれば、それはそれでいい。

 

死んで贅沢する必要はないのだからそれでいい。 

 

 

子供は迷惑かも知らんが、子供は子供でやるがいい。 

 

「子孫自ずから子孫の計あり」 という格言もある。 

 

達人から言えば、倅(せがれ)は枠でやるがいい。

 

やれんような倅じゃ仕方がない。

 

 

そこまで伊藤さんなんて達観しておったんでしょう。

 

子孫の計なんかほとんどやってない。

 

西郷さんはもとよりです。

 

 

現代活学講話選集5 酔古堂剣掃 「人間至宝の生き方」への箴言集 (PHP文庫)(すいこどうけんすい)』

現代活学講話選集5 酔古堂剣掃 「人間至宝の生き方」への箴言集 (PHP文庫)

 

 

 

 

 

 

 

伊藤肇氏は、東洋人物学では「出処進退」が重視されるという。

 

 

『「出処進退」では、特に「退」が重視される。


「退」には、ごまかしのない人間がそのままでるからである。


女々しい奴は、いつまでもポストに恋々(れんれん)とするし、智慧(ちえ)があって、男らしい奴は最盛期にさらりと退く。

 

「退」に人間の出来、不出来がはっきりと出る。

 

たとえば、「退」を人に相談したら、それは茶番劇となる。

 

誰が、相談を受けて「いい時期だから、おやめなさい」という奴がいるものか。

 

「まだまだ、おやめになるのは早いですよ」と、止めるに決まっている。

 

それをいいことに居座ったら、老醜をさらすことになる。

 

いうなれば「退」は徹頭徹尾、自らを見つめ、自らを掘りさげて行動しなければならぬから、自然に日ごろの心栄えが一挙手一投足に反映する。

 

だから、そこのところを凝視しておれば、ホンモノかニセモノかがよくわかる、という寸法である。』(帝王学ノート /PHP文庫)より

 

 

西郷隆盛を生んだ薩摩には「きれいご免さあ」という言葉がある。

 

名誉も、財産も、命にも執着がなく、いつでもそれを恬淡(てんたん)として捨てることができる身ぎれいな男をさす言葉だ。

 

それを「ぼっけもん」(快男児)という。

 

 

「命もいらず、名もいらず、官位もいらず、金もいらぬという人は始末に困る」

 

という西郷の言葉があるが、それこそが、東洋的宰相の器であり、人物である。

 

 

東洋的リーダーの資質を少しでも身につけたい。

 

 

 

現代活学講話選集5 酔古堂剣掃 「人間至宝の生き方」への箴言集 (PHP文庫)

 

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