茶道裏千家、千玄室大宗匠の心に響く言葉より…
茶道(ちゃどう)とは、つまるところ何なのでしょうか。
この問いに利休は、 「渇きを医するに止(とど)まる」 と答えています。
茶道とは、喉の渇きを癒(いや)す、ただそれだけのものである、
もし、本当にそれだけであるのなら、
なぜ、一碗のお茶を点てるためにあれほどの手間をかけるのか?
そう疑問に思われるのも当然です。
ただ喉の渇きを癒すだけならば、水があれば十分なのですから。
利休が言う「渇き」には、「心の渇き」も含まれています。
私たちが茶道の教えに従ってお茶を点て、それをいただく時、
目を閉じて想像してみてください。
あなたは今、小さな茶室にいます。
聞こえるのは、シューンという松風(しょうふう)
突き上げ窓から射し込む光が、室内を優しく照らしています。
さあ、あなたの目の前に一碗のお茶が差し出されました。
やわらかな光沢をたたえた黒い茶碗には、
両手でそのお茶碗をおしいただいて、ゆっくりいただきましょう。
どうですか、いい気分になったでしょう。
心が潤い、満たされ、清められるのを感じられたでしょう。
戦国の世に生きた武将たちも、こうして荒ぶる心を整え、
洋服のポケットにいつの間にかほこりが溜まっているように、
私とて例外ではありません。
誰もが汚れた心を抱え、その心を偽って生きているのです。
だから人は迷う。
なぜ自分だけが、と孤独を感じる。
仏教では、この世は「一切皆苦(いっさいかいく)」
生まれてから死ぬまで、すべては苦なのです。
苦しみを少しでも軽くするには、ありのままの自分を見つめ、
ただ、自分の力だけで成し遂げるのは難しい。
何かの力を借りる必要があります。
ある人にとってそれは宗教かもしれませんし、武道かもしれない。
個人的な趣味にそれを求める人もいるでしょう。
もし、何に頼ればいいのか迷ったなら、茶の湯をお勧めします。
茶の湯はきっとあなたの心の清浄に役立つでしょう。
《茶の湯は、人が進むべき道を照らす一筋の灯りです》
「茶道」は、裏千家と武者小路千家では《ちゃどう》と読むが、
江戸時代までは《ちゃどう》が普通だったという。
また、仏教でいう「苦」とは「思い通りにならないこと」をいう。
なぜ「苦」が生じるかというとそれは「諸行無常」だからだ。
諸行無常とは、世の中のものは、すべて移り変わり、
永遠に変わらないものはない。
千玄室大宗匠は、今年の4月(2024年)で101歳になる。
若い頃、
大徳寺は利休居士(こじ)も禅を学んだ寺で、表千家、裏千家、
岡倉天心は「茶の本/致知出版社」の中でこう述べている。
『茶道の本質は、不完全ということの崇拝――
不可能を宿命とする人生のただ中にあって、
まさに、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」の世界だ。
茶と禅の本質は一つであり、
日本人の心…
茶の心を学びたい。
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