行徳哲男師の心に響く言葉より…

 

 

 

孔子は喜怒哀楽の激しい人だった。

 

「憤(いきどおり)を発して食を忘れ、楽しみて以(もって)て憂(うれい)を忘れ」と『論語』にもあるとおり、弟子の顔回が殺されたときには辺りはばからず泣きわめいた。

 

そのときの様子は「慟哭」という言葉のいわれになっているほどである。

 

四大聖人の一人と崇(あが)められるほどの孔子ですらこれほど感情を露(あらわ)にした。

 

喜怒哀楽してこそ悟りなのではないか。

 

 

 

蘇東坡(そとうば)が師匠の仏印禅師に「仏とはいかなるものか」と問うた。

 

すると仏印禅師 は「仏もまた一個有血的男児」と答えた。

 

つまり、血の気が多くなったときに仏性が出るというのである。

 

燃えているときには仏になる。

 

冷めている人間はサタンである。

 

燃えることが生きることなのである。

 

 

感奮語録 』致知出版社

感奮語録

 

 

 

 

 

 

 

「よく人は学問とか修業とかいう事を間違って、喜怒哀楽をしなくなることだと誤解するが、決してそうではない。

 

それでは学問・修業というものは非人間的なものになってしまう。

 

学問を為(な)す要は、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかというところにある。」(安岡正篤一日一言/致知出版社)

 

 

 

我々は、人間のできた人、尊敬に値するような人物は、喜怒哀楽などなく、どんなことが起きても感情をあらわにせず、悟りきっているような人だろう、とつい思ってしまう。

 

しかし、喜怒哀楽がないということは、感情の起伏がないロボットと同じだ。

 

どんなに情報があり知識があろうと、まったく感情がない人を好きになる人はいない。

 

 

人間の究極の魅力は、喜怒哀楽にある。

 

仏陀も今の我々からみると同じで、喜怒哀楽を表さないような冷(さ)めた人だったように思ってしまう。

 

しかし、あれだけ多くの人たちを惹(ひ)きつける仏陀が、冷めていて、喜怒哀楽がなかったはずがない。

 

 

まさに「仏もまた一個有血的男児」なのだ。

 

多感で、血の気の多い、燃えたぎるような熱き感性があるからこそ、そこに魅力がある。

 

冷めている人間はサタンだからだ。

 

 

 

燃えることが生きること…

 

喜怒哀楽多き、熱き人でありたい。

 

 

 

感奮語録

 

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