小林正観さんの心に響く言葉より…

 

 

人生が楽になる方法・幸せになる方法として、次のような考え方もあります。

 

「当たり前の思想」というものです。 

 

仮に、「晴れるのが当たり前だ」というように考えている人が、毎日天気予報を見るとすると、曇りだと「つまらない、いやだ」と思い、雨が降ったら「もっといやだ、とってもいやだ」というレベルになると思います。 

 

 

逆に、「雨が当たり前」だと思っていると、曇りのときはちょっとうれしく、晴れのときはとてもうれしい、ということになります。 

 

すべて自分の目の前のことが思いどおりにならなければいやだと思っている人は、「いやだ」か「当たり前だ」しか来ないわけです。

 

実現することが当たり前であり、実現しないことがいやなわけですから、「当たり前」か「いやだ」の二つしかありません。 

 

 

逆に、思いどおりにならなくて当たり前と思っている人は、思いどおりにならなくて当たり前なのですから、それでゼロです。

 

そして、少しでも自分の思いどおりになったり思いがかなったりしたときには、それが「うれしい、楽しい、ありがたい」ということにな ります。

 

ですから、「思いどおりにならなくて当たり前。だけど、かなってくれたらうれしいな」と思っている人には、ゼロか「うれしい、楽しい、幸せ」しかやってきません。 

 

そういう構造になっています。 

 

 

自分の思ったことがかなうことが当たり前なのではなく、かなわないことのほうが当たり前であり、かなったときにはありがたいし、感謝できる、という心の置きようが実現できたときには、人生がとても楽しく明るいものになります。 

 

何が当たり前で何がうれしくて、何がありがたいのか。

 

この三つの心の置きどころというのをよく考えてみてください。

 

 

晴れることが当たり前であったならば、曇りや雨はつらいものになり、雨が当たり前ならば、曇りや晴れることはとてもうれしいことであり、感謝になる。

 

自分の心の原点・水準ラインによって、それほど私たちのとらえるものが一つひとつ変わっていくのです。

 

 

なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』イースト・プレス

なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?

 

 

 

 

 

 

子どもの頃、家が非常に貧しかった人が、大人になって大成功するという例は多くある。

 

子どもの頃貧しくて、1日1回の食事をすることさえままなかったというような「貧乏が当たり前」になっていた人は、大人になって三食を食べることができるだけでありがたいと思う。

 

働く場所があること、洋服を買えること、雨漏りしない家に住めることだけで、幸せを感じる。

 

 

反対に、豊かな家庭に生まれ、何不自由なく育った人は、「豊かな生活が当たり前」となっている。

 

だから、ちょっとでも生活の水準が下がると不平や不満が多くなり、感謝がなくなる。

 

当たり前の水準が違うのだ。

 

どんなにお金や資産があろうと、毎日を不平不満で暮らしている人は不幸な人だ。

 

 

《「当たり前」の水準が幸・不幸を生み出す》 

 

どんなことにも感謝できる人でありたい。

 

 

 

なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?

 

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