致知出版社社長、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…

 

 

新潮社を創業した佐藤義亮(よしすけ)氏に、 浅草で商いを手広く営む知人があった。 

 

ある晩、その人の店が全焼した。 

 

翌日、佐藤氏が見舞いに駆けつけると、 なんと、知人は酒盛りをして騒いでいるではないか。 

 

気が触れたか、とあきれる佐藤氏に、 知人は朗らかに言った。 

 

 

 

「自棄になってこんな真似を しているのではないから、 心配しないでください。 

 

私は毎日毎日の出来事はみな試験だ、 天の試験だと覚悟しているので、 何があっても不平不満は起こさないことに決めています。 

 

今度はご覧のような丸焼けで、 一つ間違えば乞食になるところです。

 

しかし、これが試験だと思うと、 元気が体中から湧いてきます。 

 

この大きな試験にパスする決心で 前祝いをやっているのです。 

 

あなたもぜひ一緒に飲んでください」 

 

 

 

その凄まじい面貌(めんぼう)は男を惚れさせずにはいない、と 佐藤氏は言っている。 

 

知人は間もなく、 以前に勝る勢いで店を盛り返したという。 

 

 

明末の大儒(たいじゅ)、呂新吾(ろしんご)は言う。 

 

「精神爽奮(そうふん)なれば則ち百廃倶(ひゃっぱいとも)に興る 

 

肢体怠弛(たいし)すれば則ち百興倶(ひゃっこうとも)に廃(すた)る」

 

 

 (精神が健やかに奮い立てば、 もろもろの廃れたことが一斉に興る。 

 

手足身体が怠け弛(ゆる)むと、もろもろの盛んなことも一斉に廃れる)

 

 

運とツキを招き寄せる法則は古今に不変である。

 

 

 

人間における運とツキの法則』致知出版社

人間における運とツキの法則

 

 

 

 

 

 

 

井原隆一氏が書いた『「言志四録」を読む』(プレジデント社)の中にこんな文章があった。

 

 

『「憤(ふん)の一字は、これ進学の機関なり。舜何人(しゅんなんぴと)ぞや、予(われ)何人ぞやとは、まさにこれ憤なり」

 

発憤するということは、学問を勧めるためには最も肝要なことである。

 

孔子の最高の弟子といわれた顔淵(がんえん)が舜(中国古代、理想の帝王といわれた聖人)も自分も同じ人間ではないか。

 

なろうという志さえ立てれば舜のような人間になれる、といったのも、まさに発憤ということになる。』

 

 

 

一寸先が見えない動乱の時代には、「野生の感性」が必要となる。

 

戦争、病気、貧困、飢え、と言った死と直結する究極の状況と向き合わなければならないからだ。

 

追いつめられ、崖っぷちに立たされたとき、多くはそれが発憤の動機となる。

 

 

しかし、現代のように豊かで過保護な社会においては、ギラギラした「野生の感性」は鈍ってしまう。

 

ぬるま湯に浸(つ)かった危機感の薄い人間が、発憤することはない。

 

 

発憤する人は、「なにくそ、負けてたまるか」という、狂にも似た激情を持っている。

 

それは、「気迫」であり、「闘志」であり、「狂気」と言ってもいい。

 

ここぞ、というときには、「憤の一字」が必要だ。

 

 

奮い立った人には天が味方してくれる。

 

そして、運とツキがやってくる。

 

 

運とツキを招き寄せる人でありたい。

 

 

 

人間における運とツキの法則

 

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