小林正観さんの心に響く言葉より…

 

 

悩み・苦しみというのは、こうでなければならないとか、ああでなければならない、こうすべきだ、という「とらわれ」や「こだわり」が自分の中に色濃く残っているがゆえに、自分自身を縛りつけて苦しんでいるということになりそうです。 

 

「仏」という言葉は、すべての束縛からほどけた人、自由になった人という意味でし た。 

 

「ほどけた人」から日本語の「ほとけ」が始まったらしいのです。 

 

 

ある方が、私にこんな質問をしました。 

 

「私は夫が死んでから、7年間納骨していない(墓に入れていない)のですが、別にこだわる必要なんかありませんよね?」 というものでした。 

 

いろいろなことにこだわらなくてよいのではないですか、という話を私はしてきましたので、その方は安心してその質問をされたようです。 

 

私の答えはこういうものでした。

 

「こだわらなくてよいのですが、では、なぜ『納骨をしないぞ』と7年間もがんばり続けているのですか? こだわらなくてよいのであれば、納骨をすればよいではありませんか?」

 

 

予想外の答えが返ってきて、その方はショックだったようです。 

 

たまたまその場に(これも偶然といえば偶然ですが、偶然でないといえば偶然でなく)墓石屋さんと僧侶の方がいらして、「まったくそのとおりです」と、おふたりとも笑顔でおっしゃいました。 

 

質問されたその方も頭のよい方なのでしょう。

 

「よくわかりました」ということで、 笑顔で話が収まりました。 

 

 

「いろいろなことにこだわらなくてよい。

 

執着しなくてよいのではないか。

 

そうすれ ば悩み・苦しみがなくなるのではないか」ということは、本当に悩み・苦しみの根源を絶てるという意味で、重要なことだと思います。

 

しかし、こだわらなくてよいのだということを逆手にとって、常識的でないことをずっとし続けるということも、逆にこだわりなのではないでしょうか。 

 

 

 

ある高校生の女の子が、親の反対を押し切って髪の毛を染めました。

 

親が「なんで そんなことをしたんだ?」と問いただし、とにかく元に戻せと言ったらしい のですが、子どもの答えというのはこういうものでした。

 

「髪の毛の色によって、人格や自分の価値が変わるわけではないのだから、そんなことでああだこうだ言ってほしくない」

 

 

たまたまその問答を、私は目の前で聞いていました。

 

別に高校生が髪の毛を染めようが染めまいが、私にとってはどうでもよいことで、それによってその人の価値が変わるとは思っていないのです。

 

が、その高校生の女の子の発言が、ちょっと気になりました。

 

 

そこで彼女に聞きました。

 

小学生のころからよく知っている子なので、直接笑顔で話もできるのです。

 

「今の言葉をもう一度言ってくれる?」と、私は笑顔で聞きました。

 

彼女はもう一度言い直しました。

 

「髪の毛を染めたからって、それによって人格や価値が変わるわけではないのだから、そんなことでとやかく言われたくないと思うんです」

 

 

「もう一回確認するけれど」と私は言い直しました。

 

「髪の毛の色によって、人格や価値が全然変わらないって言ってるんですよね。そういうことでいいですね」

 

「そうです」と彼女は答えました。

 

 

そこで私は聞きました。

 

「じゃあ、なんで髪の毛を染めたんですか?」

 

私の問いに対して、彼女は目を白黒させて、2、3分間黙っていました。

 

口をモゴモゴはさせましたが、言葉が出てこないようで、そのまま自分の部屋に帰っていきました。

 

 

これは、私が半年に一度ほど訪れている、行きつけの宿の娘さんのことです。

 

半年ほどたって同じ宿に行きますと、親が大変喜んだ顔でこう言いました。

 

「小林さんのあの話の3日後くらいに、あの子は髪の毛を黒く戻して、普通の子になりました。ありがとうございました」

 

 

私は髪の毛を染めるのがいいとか悪いとか、そういうことを言っているのではありません。

 

ただ、こだわるということ、そういうものにとらわれているということが、実は悩みや苦しみのもとになっているのではないか、ということを言いたいのです。 

 

「髪の毛を染めることがいいとか悪いとか、そういうことでとやかく言われたくない。人格や価値にはまったく関係がないじゃないか」と主張するのであれば、それなら染める必要はないのです。

 

染めるのがおもしろいと思ったから染めたのであれば、私は何も言いませんでしたが、「染めることによって何も変わらないのに」という反論をすることについては、私は「とらわれ」とか「こだわり」ということからの観点で、 整合性の部分を言ったのでした。

 

そういうひとつひとつの「こだわり」や「とらわれ」がなくなったら、人間は本当に楽になることができるのです。

 

 

小林正観さんの心がすーっと晴れていく言葉』主婦の友社

小林正観さんの心がすーっと晴れていく言葉

 

 

 

 

 

 

 

仏教では、「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉があります。

 

世の中はすべてが「苦」である、という意味です。

 

世界は苦しいことで満ちているという、悲観的で救いようのない話ではありません。

 

 

仏教でいう「苦」とは、思い通りにならないことです。

 

「老いること」、「病気になること」、「死ぬこと」は、自分の思い通りにはなりません。

 

また、「生きること」の中にも、人間関係の苦しみや、お金や地位や名誉のこと、親しい人との別れ、等々があり、これも思い通りにはなりません。

 

この四つの苦(生老病死・しょうろうびょうし)を「四苦」と言います。

 

 

お釈迦様は、『「苦」の本質は「執着」である』と説きました

 

「若さ」に執着するから、「老い」を苦と思うのです。

 

「健康」に執着するから、「病気」を苦と思うのです。

 

「生命」に執着するから、「死」を苦と思うのです。

 

 

執着とは、「こだわり」や「とらわれ」。

 

その執着をなくすには、すべてを受け入れることです。

 

現実を受け入れ、すべてを肯定すること。

 

 

「ああ、そうなりましたか」「そういうことだったんですね」と淡々と受け入れる。

 

起こることのすべては、「必要、必然、最善」、だからです。

 

 

あらゆることを、肯定的にとらえることができる人でありたいと思います。

 

 

 

 

小林正観さんの心がすーっと晴れていく言葉

 

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