小林正観さんの心に響く言葉より…
ある人からこんな質問をされました。
…落ち込んだり有頂天になったりして、
コントロール ができない。
落ち込んだあとにはまた有頂天になり、
この気分の起伏というものをなんとかできないものだろうか…。
よくありそうな質問ではありますが、解決策はかなり簡単です。
落ち込んでしまうのは、自分が「大したものだ」
逆に有頂天になるのは、自分が「大したものだ」
どちらも同じ心の 状態がそういう心の起伏をつくっているということになります。
その心の状態とは、「自分が大したものである」「
自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「
ちゃんとした人、
不完全で不十分で未熟。
やることなすこと完全にはできず、ミスばかり。
そういうものの積み重ねの結果として人間があるのだと思います。
「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「
実際に大したものじゃないのですから、「大したものじゃないね」
大したものじゃないところにもってきてほめら れたりしても、自分は「大したものじゃない」
つまり、落ち込むのも舞い上がる(有頂天になる)のも、
それは自分が「大したものである」「ちゃんとしたものである」「
自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」
すべてのことが周りの人々…目に見える4者(友人、知人、家族、
ですから、自分のことを「大したものじゃない」「
落ち込む人、同時に有頂天になっている人というのは、すべて「
もしかすると、その心は、 驕(おご)り、高ぶり、うぬぼれ、傲慢(きょうまん)
本当に謙虚になると、
『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?私がいちばん伝えたかった幸せ論』イースト・プレス
誰かに、ああだこうだと指摘されたり、
それは、自分が「大したものである」「なかなかのものである」
怒りも、嫉妬も、驕りも、威張りたい心も、自分が「こんなにすごい」のに、なぜそんなに下に見られるのか、
それが、「謙虚」でないという状態。
謙虚さを失うと、人の話を素直に聞けなくなり、
すると人間としての成長がそこで止まってしまう。
松下幸之助翁は、晩年になってからも、部下や、
また、
「いや、私は、あんまり賢くありませんからな。
そして、「もっと、私に問題があるんでしたら、
「おだてられれば いい気になるし わるくちいわれりゃ 腹たつわたし」
「花は ただ 咲く ただひたすらに ただになれない 人間のわたし」(相田みつを)
ときに…
自分は「ろくなものじゃない」と考えることも必要だ。
なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?私がいちばん伝えたかった幸せ論
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