行徳哲男師の心に響く言葉より…

 

 

二千年も前に、ローマ帝国は観客が五万人も入るコロシアムを造った。

 

また、当時、街の中には上下水道が完備していたというんですね。

 

ということは金属のパイプを造る術も知っていたんですね。

 

そのローマ帝国さえ滅びていくんです。

 

 

それから四千年も前に、スフィンクスやピラミッドを造ったエジプト文明、あるいは、中世になってポルトガル、スペインといった文明国が無残にも衰えていっています。

 

さらには、イギリスにあらずんばとまでいわしめた大英帝国でさえ、今はロンドンで何十万という人が職にあぶれている。

 

こういう盛衰がなぜ起こってくるのか。

 

これは、私が思うに、国が豊かになって恵まれてくると、だんだん、人間は感激というものを失ってパワーがなくなってくるからだと思うんですよ。

 

だから、「感動なき民族は滅びる」と。

 

 

私は十九年間、山にこもって、「頭を使わない」訓練、つまり、人間に感動を呼び起こすことを長くやってきて感ずることは、感動はパワーを生み出すということです。

 

山の中では一切、頭を使わない。

 

そうしたら、生き生きしてくる。

 

だから頭は命ではないんです。

 

頭は逆に命を鈍らせる。

 

 

もう亡くなられましたが、柴田錬三郎という作家がおりましたでしょう。

 

『眠狂四郎』を書いた、あの柴田先生が、戦争中、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を輸送船で渡ろうとしていたとき、アメリカの潜水艦にやられて、仲間は皆死んで柴田先生だけ生き残ったらしいんです。

 

そこでイラストレーターの横尾忠則さんが、ある時、「あなたは物書きでしょ。第二次大戦中にバシー海峡で船が沈められて、皆、死んでいったのに、あなたは助かった。そんな貴重な体験をしていながら、物書きのくせになぜそのことを書かないんですか」と、柴田先生に聞いた。

 

そうしたら、柴田先生が言ったそうです。

 

「わしは漂流した時のことを、よく覚えていないんだ」と。

 

 

それで、横尾さんが、「そんなばかなことはないでしょ。漂流した時に『助かりたい』とか、いろいろなことを考えたでしょ」と言い返した。

 

その時に柴田先生が言った言葉がね、「いや、そうではない。わしはあの時、何も考えなかった」と、「考えたやつは皆死んでいったんだよ」と言った。

 

 

つまり、「頭は力ではない」んです。

 

だから、さっきの偏差値の話ですが、偏差値を磨けば磨くほど、人間の生きる力は弱くなる、それは私たちは十九年間、山にこもって実感したことです。

 

頭を使わないから元気が出るんです。

 

だから「下手な考え、休むに似たり」ですよ。

 

われわれは逆をやっています。

 

頭を磨き過ぎて生きる力を失ってきた。

 

 

理屈っぽくなった時は生きる力がなくなっています。

 

まず、理屈っぽくなると人間は行動しません。

 

頭を使う時は行動しない。

 

もともと頭というのは行動のブレーキの役目をするものなんです。

 

だから、石を投げるときに「この石はどこに落ちるんだろう」と考えたら、石は投げられませんよ。

 

「石はどこに落ちるかわからない」と思った瞬間に行動はできる。

 

つまり、頭は迷いをつくる場なんですよ。

 

 

だから、「感動」という字を見るとわかります。

 

感じさせるから動いているわけです。

 

考えさせたら動かない。

 

感じるから動くんです。

 

だから感動が行動の起爆剤なんですよ。

 

感動できない人間は行動もできないし、気骨も生まれてこない。

 

 

道元は「仏の道とは行動することだ」といっている。

 

「行」しかないとね。

 

 

感動と感性は「エモーション」という英語になるわけです。

 

ところが、エモーションというのは、もともとエモーチュといラテン語からきているんです。

 

で、ラテン語で「エ」というのは「外」のことです。

 

「モーチーオ」は実は「動き出す」ということです。

 

だから、「外に動き出せるもの」が「感動」なんです。

 

情が豊かでないと人間は行動しないと、言葉自身が教えてくれているんですよ。

 

 

随処に主となる―自分の人生を自分が主人公として生きる (活学叢書)』致知出版社

随処に主となる―自分の人生を自分が主人公として生きる (活学叢書)

 

 

 

 

行徳哲男師は「感性」についてこう語る。(感奮語録)より

 

 

◆『長生きの人は皆「我がまま」に生きている。自分が自分で生きているから長生きできる。』

 

◆『理性や知性を磨き過ぎることは命をすり減らすことと等しい。』

 

◆『人間の衰退は感性の摩耗(まもう)から始まる。』

 

◆『理性が強すぎると自由を止める。笑いを抑え、自分自身をがんじがらめにしてしまう。理性とは体裁(ていさい)を作り出す。しかし自然を遠のけてしまう。感性は嘘いつわりで固めることができない。』

 

◆『感性が鈍くなったと思えば行動すればいい。行動によって感性は誘導されてくる。』

 

◆『感動とは「論語」の教え。「感即動」が語源。感ずることは即ち動くこと。』

 

 

頭ばかり磨いている連中は行動ができない。

 

そして、情や思いやりがない。

 

 

このコロナ禍では、多くの人は行動を制限され、行動が鈍くなった。

 

リアルな仕事や、旅ができなくなり、思いもかけない新たな感動するという、ワクワクする機会が減ってしまったからだ。

 

つまり、日本中が今、感性が鈍った状態になっているということだ。

 

 

たとえば、政治の世界においても、政敵の体のハンディキャップや、難病のことを揶揄(やゆ)するような、敬意や情や思いやり、といった感性のない、とても人間とは思えない発言をしてしまう。

 

感性が鈍ると、自分の言葉にトゲや毒という、人を傷つける刃物があることにも気づかない。

 

 

「感動なき民族は滅びる」

 

今こそ、行動や実践を活発にし、感動や感性を取り戻したい。

 

 

 

随処に主となる―自分の人生を自分が主人公として生きる (活学叢書)

 

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