独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。
高野悦子、20歳。立命館大学に通う女子大生。学園紛争の嵐の中で格闘しながら、理想を砕かれ愛に破れた彼女は、1969年6月に自ら命を絶った。本を読み、恋をし、生きることについて真摯に考え続けた彼女の日記は、没後に出版されてベストセラーとなった。
青春の美しさと痛みに溢れた本作は、いまなお人々の心を打ち続ける――。(書評より引用)
高校時代に書店に平積みされていた単行本を、買って読んだ。細かい内容までは記憶していなかったが、彼女が死を選んだ理由を、当時は理解し、共感もしていたと思う。
でも、年齢を重ね、死というものが徐々に身近なものになりつつある自分と同世代のおじさん、おばさんが、予備知識なしにこの本を読んでも、死と遠い所にいるはずの彼女がなぜ死を選んでしまったのか、戸惑うばかりなんだろうな。きっと、彼女のご両親が当時そうであったように。
お正月には普通の女子大生であった彼女が、数か月後には、偏狭な反代々木系の学生運動家に変貌する。
当時、彼女が蛇蝎の如く嫌った国家権力が日本にとって必要なものであったことを、今なら理解できる。行政主導の市場主義経済と、それをもたらすための国の秩序の一側面が、彼女の言う国家権力なのだろう。55年体制下のあの政策がなければ、日本は低開発国のまま長い年月を過ごさなければならなかったはず。それによって日本国民が享受した利益を理解しようともせずに、矛盾点のみを言い立てる、若さゆえの視野の狭さと攻撃性は閉口ものである。
彼女が志向した階級闘争は文化大革命など悲惨な事態を巻き起こし、若者たちがあこがれた搾取のない平和な国、ソ連、中国、北朝鮮の社会主義国家の正体もその後の歴史で白日の下にさらされた。
代々木系(民青、日本共産党系)と反代々木系(全学連等)や反代々木系の内部での限度を知らない派閥闘争は、はヤクザまがいの殺し合いに発展していく。
自由と無秩序は違う。無秩序は何も生まない。今なら容易に分かることが、当時は自分も分からなかった。はしかみたいなものだったのかな。純粋まっすぐさんたちのやることは、根っこが正義感なだけに、何時の世も始末に負えない。その偏狭さゆえに家族と訣別せざるを得ず、恋人からも疎まれ、彼女は完全に孤立する。純粋で未熟な彼女が死の誘惑に抗えなかったのも、無理からぬことのように思える。
人間は、ちょっとくらいこずるくてなまけものなくらいがちょうどよいのかも。
何十年ぶりかにこの本を手に取ったのは、「新潮文庫の100冊」に選本されたから。毎年心の琴線に触れる本を選んでくれる新潮社に感謝!である。