吉法師は母の愛情に恵まれず、いつも独り外で遊んでいた。長じて信長となった彼は、破竹の勢いで織田家の勢力を広げてゆく。だが、信長には幼少期から不思議に思い、苛立っていることがあった―どんなに兵団を鍛え上げても、能力を落とす者が必ず出てくる。そんな中、蟻の行列を見かけた信長は、ある試みを行う。結果、恐れていたことが実証された。神仏などいるはずもないが、確かに“この世を支配する何事かの原理”は存在する。やがて案の定、家臣で働きが鈍る者、織田家を裏切る者までが続出し始める。天下統一を目前にして、信長は改めて気づいた。いま最も良い働きを見せる羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、柴田勝家、滝川一益。あの法則によれば、最後にはこの五人からも一人、おれを裏切る者が出るはずだ―。(「BOOK」データベースより)
垣根涼介さんの歴史小説は、「室町無頼」「光秀の定理」に続いて3冊目。直木賞候補にもなった「室町無頼」は痛快な時代エンタメ小説だったが、本作は、タイトルから考えて「光秀の定理」と対なのかと想像して読み始めた。
「光秀の定理」は、いわば信長株式会社に鳴り物入りで中途入社した光秀が、社長である信長の期待どおり成果を上げ、順風満帆に出世をしていく様を描いているが、肝心な本能寺の変については描かれていない。
そして、この小説にでてくるのが「モンティ・ホール問題」といわれる確率の問題である。
1. 親が4つのお椀のどれかに石を入れる。
2. 石をどれに入れたか知らないプレーヤーが、どこかのお椀に賭ける。
3. それをみて、親は、はずれの空の二つのお椀を開ける。残るお椀は、プレーヤーが賭けたお椀ともう一つ。
4. プレーヤーは、最初に賭けたお椀のままか、もう一つのお椀に変更するか、選択する。
この問題、一見お椀を変更してもしなくとも確率は50%/50%のように錯覚するのだが、実は違う。最初に賭けたお椀に石が入っている確率は25%。ということは、残りの3つのどこかに入っている確率は75%。その75%の3つのうち2つを開けてしまうのだから、残りの一つに入っている確率はそのまま75%、ゆえに「変更する方が確率が高い」というのが結論である。でも、だから何なのだ?これが本能寺の変とどういう関係にあるのかということは分からずじまいであった。
この「信長の原理」では、本能寺の変に至る光秀の変節について描かれてはいるが、それが特に「光秀の定理」の問題提起に対する返答になっているわけでもない。やはりこの2冊は別の小説だと思った方が良いのかな。
「信長の原理」の原理はパレートの法則、働き蟻の法則である。蟻のコロニーでは、良く働く蟻:適当に働く蟻:サボっている蟻の比率が2:6:2だが、良く働く蟻だけを集めてもサボる蟻が現れ、結局同じ比率になってしまうと言うもの。パレートの法則は、いわゆる8:2の法則と呼ばれる経験則で、その組織の成果の8割は、良く働く2割の人によって上げられているというやつ。働き蟻の法則とは、似ているけどちょっと違う。
信長株式会社が、内紛⇒尾張統一⇒美濃攻略⇒畿内統一⇒全国制覇とそのステージを上げていくに伴って、求められる人材の質が変っていく。当初は成果を上げていた人間も、やがて新進気鋭の人材に窓際に追いやられることになる。このブラック企業では、有能な人材は褒賞と引き換えにとことん働かされ、社長命令で担当替えや異動も一方的かつ頻繁に行われ、不要になった人材は苛烈な仕打ちを受ける。天下布武という目的に向け一直線の信長の合理性に徹した考え方を、彼と同レベルで理解できる者は中々いない。
働き蟻の法則を知る信長は、次はだれが離反するか、確率論に基づき部下に疑いの目を向ける。信長の最大の欠点は、その傲慢さゆえに、部下の立場に立って、部下が何を考えているかという想像力に欠ける。そんな信長に対し、部下はすり減り、彼が何を考えているかを深読みし、絶望し、やがて働き蟻の法則さながらに離反者が出る。
もはや日本に信長に対応し得る勢力はない。にもかかわらず、内からも、外からも、彼に反旗を翻す勢力は絶えず、ついに信長は本能寺の変を迎えてしまう。
極端なものを復元する力、それが天道だということか、なんかちょっと違うような気もしないでもない。
信長のやり方を傍で見ていた秀吉は、明智光秀を討ち、柴田勝家を滅ぼし、信長の遺児らを権力の埒外に放り出し、家康の頭を押さえ、信長の後継者の地位を獲得すると、瞬く間に日本を統一してしまう。秀吉にとって、信長は良き反面教師であったということなのだろう。