お茶を習い始めて二十五年。就職につまずき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々。失恋、父の死という悲しみのなかで、気がつけば、そばに「お茶」があった。がんじがらめの決まりごとの向こうに、やがて見えてきた自由。「ここにいるだけでよい」という心の安息。雨が匂う、雨の一粒一粒が聴こえる…
季節を五感で味わう歓びとともに、「いま、生きている!」その感動を鮮やかに綴る。(「BOOK」データベースより)
歴史が好きなので、千利休がらみの歴史小説は、直木賞受賞作山本となった兼一さんの「利休にたずねよ」をはじめ結構読んでいる。当時の茶道は、戦国武将の嗜みであると同時に、今で言えば政治家が料亭を利用するような密会の場としての実利的な側面はあったのだろう。
それがいかにして現在の茶道に昇華されてきたのか。現在の茶道については、不勉強にしてほとんど何も知らなかった。がんじがらめの決まり事を、その意味を問うことなく、決まり事だからと言ってなぞる。茶の稽古は延々とその繰り返し、権力の道具から離れ、長い歴史のなかで研ぎ澄まされてきた様式美なのであろう。
藤原正彦さんのベストセラー、「国家の品格」に、日本人には日本の美しい四季を感じるDNAが組み込まれているといったような記述があった。DNAのらせん式の奥底に眠っていたものが茶道の様式美を触媒にして覚醒する、そんなことを思わせる記述が、本書のそこかしこにあった。
自分はマラソンが趣味で、四季を通じて月間200kmくらい走っていた時期があった。走っているうちに心が無になると、風とか、花とか、雨た大気も、季節によって違う、日本の四季を感じる瞬間がある。これも茶道同様に日本人の心が反応する瞬間なのだろうか。
力の抜けた、良い本に出合えた。