(内容)
「バカ殿」島津久光を国父に戴き、生麦事件そして薩英戦争を引き起こしながらも、「攘夷」の無謀さに目覚めた薩摩。一方、「そうせい侯」が攘夷派を抑えきれず、ついには「朝敵」の汚名を着ることにまでなってしまった長州。のちに明治維新の原動力となった両藩がまったく異なる道を歩んでいた1862年から64年までの激動の3年間に迫る。
(感想)
「尊王攘夷」って、いったい何だったんだろうと思ってしまいます。時代の狂気、でしょうか。
そもそもが「尊王」と「攘夷」とは、まったく別の概念です。尊王思想は、幕府が推奨した朱子学が元で、天皇から征夷大将軍に任命されているわけだから、徳川幕府は尊王と矛盾しない。
武装解除とそれに続く長い平和で諸外国から立ち遅れてしまった日本、開国して軍備を近代化しなければ太刀打ちできない、これも間違っていない。
問題は、外国どころかほとんど御所から出たことのない、世界の情勢というものが全く分かっていない孝明天皇に攘夷の勅諚を出されてしまったこと。ならば天皇に攘夷が無理であること、開国せねばならないことをきちんと説き、勅諚を取り下げてもらえばよい。それをせずに、一部の公家と組んだ反幕府勢力に天皇を利用されてしまった。
徳川幕府は、「禁中並公家諸法度」で天皇と公家を政治から遠ざけていた。このシステムでずっと政治が回ってきたから、そのあやうさを理解してなかったのでしょう。また、信念をもって説得できる人材もいなかったのかな。
自体は徐々に幕府にとって悪い方に転がり、この1862~64年になると、長州藩や水戸藩は、集団ヒステリー状態です。なにしろ開国というと斬られてしまう。テロリズムが横行します。
それでも、この時点でもまだ、本気で明治維新のような倒幕を考えていた人はほとんどいなかった。長い平和で官僚化し、武力を失い、既成観念から脱せられない旗本に見切りをつけ、外様を含む雄藩連合で政治を動かす、言うまでもなく、雄藩連合の長は徳川家、そんな考え方が主流です。
この時点で、ペリーが来てから10年、明治維新まであと5年。
ここから歴史の激流は一気にスピードアップします。
次、21巻、いってみます。