前回のブログ『 球磨弁とヘブライ語 』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12410694963.html

 

前回の最後に「「免田式土器」の分布地を知った事により驚愕してしまった!・・と言うお話を書かせて頂きます。」と書いたのですが

突然、閃いたと言うか、以前よりずっと気になっていた事があり、今回は

「五七の桐紋」と球磨についてを先に書かせて頂きます。

 

先日、ひぼろぎ逍遥 様(古川様)の315 人吉盆地の懐深く最高格式神社に再訪 

“熊本県多良木町の王宮(オウグウ)神社“

を拝読した際に

『確かに神日本磐余彦命を祀る宮である事を表すかのように、五七桐の神紋が打たれています。』

『社殿(神殿)に打たれた神紋も五七桐であり、祭神と神紋はすっきりと一致を示しています。』

との記述が目に留まり、ずっと気になっていた事がありました。

(古川様、勝手に引用させて頂き申し訳ございません)

 

私は、人吉・球磨内の神社様で『五七桐の神紋』を二度拝見した事がありました。

当時、どうして、球磨の神社様で多く見かける「並び鷹の羽紋」ではなくて

『五七桐の神紋』なのか?と感じて、ずっと心の中に「この事」が

深く残っていました。

 

最初に「五七桐の紋」を見たのは「岡原霧島神社」の御神殿の中での事です。

3年前、岡原霧島神社の「大祭」の前夜祭に参加した時に、御神殿の中に入りました。

岡原霧島神社の御神紋は「違い鷹の羽」紋です。

所が、御神殿の中の大きな柱の中央には「五七桐の紋」が施されていて、数本の柱に

「五七桐の紋」を確認しました。

この時に「何故?違い鷹の羽紋」ではなく「五七桐の紋」なのだろう?と不思議に感じた事を今でも鮮明に記憶しています。

 

それから、1年程経った「ある日」。

人吉の「老神神社」様に伺ったのですが、御神紋が、こちらも「違い鷹の羽」ではなく

「五七桐の紋」で、非常に驚いたのです。

理由は球磨地方の神社様の多くが、青井阿蘇神社をはじめ、殆どが「違い鷹の羽」紋であるからです。

この時、先に書いた「岡原霧島神社」の御神殿に施されていた「五七桐の紋」の記憶が

わぁ~っと甦ってきました。

 

以前は無かったのですが、今朝(2018年10月14日)、ネットで調べると文化遺産オンライン様のサイトで「人吉老神神社」様の本殿の写真が公開されていました。

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/124577

 

画像アップ 文化遺産オンライン様サイト 老神神社 本殿

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/124577/0/1

 

私が、驚いた「五七桐の紋」を御神紋とする本殿。

私は、こちらの空気感?にも、お伺いした際に息を飲んだ事を記憶しています。

 

老神神社については、麻郡神社私考で

老神大権現 日州諸縣郡霧島神社同體勧請年紀未考

延徳年中再興 藤原長毎公造営

より遷宮されたと記されています。

古老語田此地昔ハ無人ノ境ニシテ樹木茂り山深イ 地であったと記されています。

 

勧請年紀未考とありますが「麻郡神社私考」には「市房社」(市房山神宮)の霧島神宮勧請の年紀を参考にするようにとの「補足」が記されていました。

霧島神宮と同體と記されて、大同元年(806年)に創建された神社様は球磨にもう二社。

私の住む集落旧球磨郡久米郷宮原村「宮麓」に御鎮座の「中嶋大権現(中嶋霧島神社)」と

岡本の「大炊神権現(大炊霧島神社)」です。

 

ただ、以前、私が利用させて頂いているスレッドで、関東在住の歴史研究家の方から御指摘がありました。

>中嶋大権現・大炊神権現 御祭神は霧島神宮と同體。
正確には、霧島岳の別峰夷守岳の夷守神社(雛守神社)のこと。
火山で火神。
夷守は断じて旧説の鄙守のことでは無い。

 

と御教示を頂いた事があります。

 

頂いた御教示から、当時私は「夷守神社(雛守神社)」を調べたのですが・・

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~運営:宮崎県神道青年会
http://m-shinsei.jp/modules/gnavi/index.php?lid=426 

霧島岑神社 霧島六社権現巡り
http://www.kirikoku.co.jp/blog/5763/ 

霧島岑神社
http://www.geocities.jp/engisiki/hyuga/bun/hyg660301-01.html 


御祭神
瓊瓊杵命 木花咲耶姫命 彦火火出見命 豐玉姫命 鵜鵜草葺不合命 玉依姫命 
【祭祀対象】本来は高千穂峰を祀る 
【祭祀】江戸時代は「霧島中央権現」と称していた 


霧島岑神社由来略記 往古、霧島岑神社は高千穂峰の中腹、瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊・木花咲耶姫命・彦穂々出見尊・豊玉姫命・鵜葺草葺不合尊・玉依姫命の六柱の神々である。
承和4年(837)、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預りのち従五位上を授けらる「続日本後紀」。天安2年(858)従四位下に叙せらる「三代実録」。とあり、「延喜式神名帳」には日向の国式内四座の一であると記されている。
天慶・天暦(10世紀)の頃、性空上人が霧島岑神社に参籠の折り、山麓四方に夷守神社他四社を創建し、本社である霧島岑神社(別名、霧島中央権現)を合せて霧島六社権現と称した。
天永3年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。
文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。
その地に座すこと480余年、享保元年(1716年)新燃岳噴火、社殿は焼失 御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが新瀬戸尾の地は全く荒廃したので享保14年(1729)、夷守岳中腹に社殿を再建、明治初頭まで鎮座された。その地を今に築地と言う。明治5年(1872)県社に列せられ、翌6年細野村に合祀の世論起り夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷して今日に至っている。

 

と言う事までは、調べてはいました。

 

>中嶋大権現・大炊神権現 御祭神は霧島神宮と同體。
正確には、霧島岳の別峰夷守岳の夷守神社(雛守神社)のこと。
火山で火神。
夷守は断じて旧説の鄙守のことでは無い。

 

つまり、私の住む「地」には黒原山の麓に「火神」 火の神様をお祀りの神社が鎮座していた事になります。

それだけではありません。

同じ「宮麓」集落「黒原山」の麓にはには、大同年間にこちらも創建されたと言われる

「切畑大明神(切畑神社)」も御鎮座でした。

こちらは「阿蘇神社」同體。

つまり、つまり・・・私の住む集落「宮麓」には

霧島連山の「火」の神様と、阿蘇の「火」の神様をお祀りの神社様が御鎮座であった・・

と言う事になります。

さらに、黒原山の麓、平野部に入ってすぐの、「黒原山の真正面」には

「天之御中主神」を御祭神とされる「稲積妙見(稲積神社)」が御鎮座。

 

すごく、不思議な地に私は住んでいるのだなぁ~と考えました。

 

火の神様。

火と言えば・・・氷川・・火の君・・・

「宮麓」と共通するのは「宮原の一族」

 

火の君・・火の国で、実は、ずっと気になっていた事があるのです。

ここから書く事を不謹慎だとお思いになられる方もいらっしゃるかと思いますが御了承下さい。

 

火の国の由来に繋がる肥後風土記に記載の「白髪山」を「八代の白髪岳」に関係付けされている記述を目にする事があります。

でも、私は五木村から氷川宮原に抜ける山道から「こちら」の「白髪岳」を遠目に見た事があるのですが、「こちら」の「白髪岳」からは、阿蘇の火山に伴う「火」は見えるはずはないのだが・・と、その時に思いました。

でも、球磨の「白髪岳」からは、霧島連山の「火山に伴う火は見える」・・と

この時、二つの「白髪岳」の「謎」に気が付いたのですが、「こんな事を考えるのは私だけかな・・(?_?)」と思い、文章に書く事は控えてきました。

所が・・今年に入って、私と同じ疑問を江戸時代に抱いた方がいらっしゃった事に気が付きました。

太宰官内志を書かれた 江戸時代の国学者 「伊藤 常足」 この方です。

 

皆様、国立国会図書館のデジタルコレクション- 太宰管内志. 下巻
コマ番号 215 の最後の一行から216にかけて八代郡の「白髪山」について書かれています。

ぜひ、じっくりと、御一読下さい。

コマ番号 215

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766662/215

 

コマ番号 216

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766662/216

 

白髪山

肥後風土記に昔崇神天皇之世云云・・・

中略・・・名義は白頭の如くみゆる故に負せたるなるべし。

中略・・

今八代郡白髪山といふは今球磨郡ノ内にして日向諸縣郡の堺に近き白髪嶽をいふにあらぬか 諸縣ノ地よりみればえもいはず高くそびえて名高き山なりといへりき又思ふに

八代郡釈迦院の境地に大白峰と云ふ物有りといふ

なほよく考ふべし

 

★肥後風土記に昔崇神天皇之世云云・・・

今八代郡白髪山といふは今球磨郡ノ内にして日向諸縣郡の堺に近き白髪嶽をいふにあらぬか 諸縣ノ地よりみればえもいはず高くそびえて名高き山なりといへりき

 

伊藤 常足、この方も「白髪山」とは、実は球磨の白髪岳ではないのか?と言う疑問を抱いていらっしゃった事が解りました。

私の疑問と同じです・・・

 

なほよく考ふべし  By 江戸時代の国学者 伊藤 常足

はい解りました(..)  2018年10月 ひろっぷ 

 

崇神天皇様と言えば・・・

昨年12月に書いたブログ『 球磨の入り口「八代」について 』 で書かせて頂いた

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12336355091.html

 

崇神天皇様の皇子、後の「垂仁天皇」(伊勢神宮を御建立)

ウィキペディア参照

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、

『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」とありますが

何故?「久米(くめ)」なのだろう???・・・

と2017年12月ブログを書いた当時にも疑問でした。

 

さらに

仁徳天皇の曾孫様となられる清寧天皇。

ウィキペディア参照

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AF%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87

御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は

白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。

 

※白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

白髪の岳広国と読んでしまう球磨郡在住の私です・・・

白髪岳は何度もご紹介させて頂いている通り、球磨郡とえびの市・小林市に跨る山で、

高千穂峰や韓国岳の霧島連山からは真正面に見えます。

と、やはり、ブログを書いた当時・・私は疑問を抱いていたのでありました(-.-)

 

 

再度、旧久米郷である私の集落から見た「白髪岳」

白髪山 名義は白頭の如くみゆる故に負せたるなるべし。

球磨郡内に住んでいる人なら「うんうん(^'^)」と必ずおっしゃるはずです。

冬の白髪岳は、頂上に雪が積もり、まるで白髪頭のようになります。

不敬にあたる事だとは思いますが、しかし・・

「垂仁天皇」 ・・・「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」

「清寧天皇」 ・・・白髪武広国押稚日本根子天皇

          (しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

やはり、御名がとても気になります。

と2017年12月に書きましたが、2018年10月の現在、去年よりもさらに・・・

とても、とても、御名がと~っても!気になります\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

なほよく考ふべし  By 江戸時代の国学者 伊藤 常足

 

霧島連山火山帯の火の神様と阿蘇山の火の神様がお祀りの集落に住む私は

ここで・・・ど素人ながら考えました。

 

火の君の御一行は、肥後を南(球磨)から北上して、氷川辺りに「都」を造られたのでは?

縁故の地には其々「宮原の一族」が住している・・

この事も無縁じゃないのでは!?

と・・・

でも、これはあくまでも「ど素人の私」の推測ですが・・・

しかし、記紀の裏側には、”本質”がチラチラと見え隠れしているのでは・・?とも私は考えているので、

日本書紀 景行天皇紀によれば

十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文(乾、此云賦)、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以・納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」

 

※熊襲梟師(クマソタケル)の娘「市乾鹿文」と「市鹿文」を景行天皇は
幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)に迎え入れ、
不孝(オヤニシタガワヌコト)の酷い様子を憎み、市乾鹿文を誅殺し
妹の市鹿文(イチカヤ)は火国造に(を)与える・・
『仍以弟市鹿文賜於火国造』

 

何かチラチラ見える物がないでしょうか・・?

さらに熊本県八代郡氷川町栫小越の古墳群からも「免田式土器」が出土しています。

それに・・最大の???(?_?)は松野連系図でして

「市乾鹿文」と「市鹿文」、この方々は、系図に記された方々ですよね・・・(?_?)

火の君の御一行は、肥後を南(球磨)から北上して、氷川辺りに「都」を造られたのでは?

縁故の地には其々「宮原の一族」が住している・・

この事も無縁じゃないのでは!?

もしくは・・・

火の君の母方が「市乾鹿文」・・・???

(ど素人の私なので、皆様どうかお許しを(..) )

 

 

江戸時代の国学者 伊藤 常足が『なほよく考ふべし』と後世に課題を投げかけられているので、皆様方もよろしければ、「白髪山」について御推考して頂けませんでしょうか。

そして、何か閃く事がおありになったら、ぜひ、御教示を賜りたいと心よりお願い申し上げます。

 

所で、先に書いた「夷守神社(雛守神社)」の記述にあった

※細野村岡原 ・・・・細野村

実は、私、今年の初めに伺っていたのです。(偶然にも)

主人が「小林産のキャビアを食べに行こう!」と連れて行ってくれたのですが・・

この場所でめちゃくちゃ驚いた事がありました。

現在の小林産のキャビアの名産地こそが、記紀に記された『夷守兄弟』の方々がいらっしゃったと伝承された地でありました。

記紀では、隠そうとされた事と、どうしても遠まわしで書く必要があった事がごちゃごちゃに

なり、整合性を測る為にさらに混乱して・・でも本質がチラチラ見え隠れしていたりして・・・

 

松野連系図によると・・・『夷守兄弟』とは、『熊縣の熊津彦』の子息となっていて・・

その名は「難升米」と「掖邪狗」。

細野に御鎮座の「夷守神社」の御祭神と私の住む「宮麓」に御鎮座の「中嶋大権現」は

御祭神が同體である・・と御教示を頂いた事があり

火の神をお祀りされた神社である・・・

 

がグルグル回ってしまいそうですが・・結局、今思えば、この時も「主人の発案」で

偶然にも「夷守兄弟御縁の地」に食いしん坊の私はお伺いする事になったのでした。

 

主人の発案で行く場所は・・何故?こうも色々私が調べている事に繋がるのだろう・・?

主人の父方が「天草の 鬼塚家」だからなかぁ~(?_?)

天草や芦北では「鬼塚」と言えば「古墳」の事だし・・・(?_?)

独り言でした(..)

 

今回は

老神神社の『五七桐の御神紋』と岡原霧島神社の本殿に施された『五七桐の御神紋』から 『白髪岳』・『細野・夷守』 まで 私の頭の中でグルグル回る疑問を書かせて頂きました。

ただ(p_-)

細野は免田式土器の出土遺跡がある場所でもあります・・・

さらに熊本県八代郡氷川町栫小越の古墳群からも「免田式土器」が出土しています。

何だろう(p_-)

私ノ進ム先ニハ「免田式土器」有

と言う感じですね・・・・

 

やはり・・書かなければ・・・

 

最後に独り言を(..)

私の地元の神社様の御祭神様  本質は・・・火の神様

じゃあ・・・

老神神社様の御祭神様は・・・本質は・・・????

独り言です。皆様、御聞き流し下さい(..)

 

次回、(今日は一日に2件も書かせて頂きます)

 『 続けて 追記 久米郷黒原山 』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12411960925.html