前回のブログ『五木村の縁戚の方々と私の先祖が繋がる椎葉村』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12307536148.html

 

2017年9月4日

宮崎の宮崎神宮にお参りにお伺い致しました。

実は、私は産まれは宮崎県です。

父が「日本国中を飛び回る仕事」の国家公務員でしたので(暗号のような記述ですが・・)

宮崎県内での勤務の時に私が産まれた・・という訳です。

 

宮崎神宮には子供の頃、毎年初詣にもお伺いしていましたし

七五三も宮崎神宮でお参りさせて頂いています。

 

ただ、8歳の時に両親が離婚して、私は父方の球磨の祖母に預けられたので、それ以降お参りをした事がありませんでした。

 

球磨に戻り、主人と球磨の周辺、宮崎県内や鹿児島県内の様々な場所にドライブに出かける事が可能となり、思い出の宮崎神宮にやっとお伺いする事が出来ました。

 

40年以上ぶりにお伺いした宮崎神宮。

駐車場に着いて、参道を歩きはじめるなり

「こんなに厳かな空気に包まれた、場所だったのか・・・・・」と身が引き締まる気持ちになりました。

最初の鳥居をくぐると、広い真っすぐな長い参道。

この時点で、子供の頃の記憶が少しずつ蘇ってまいりました。

 

宮崎神宮 略記

 

 

「宮崎神宮」様の公式サイトより 宮崎神宮の創建

http://miyazakijingu.jp/modules/about/index.php?content_id=2

 

頂いた 「略記 宮崎神宮」 より

 

 御神紋は「三つ割菊に矢」です。

 

社伝によれば、本宮は神武天皇の孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)(熊本・阿蘇神社ご祭神)が九州の長官に就任した際、祖父のご遺徳たたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられています。

下って第十代崇神天皇、第十二代景行(けいこう)天皇の熊襲(くまそ)ご征討の際に社殿のご造営があり、ついで第十五代応神(おうじん)天皇の御代、日向の国造が修造鎮祭(しゅうぞうちんさい)せられた旨が旧記に伝えられています。

 「略記 宮崎神宮」 より

 

参道の遠い先には御楼門が見えました。

御楼門の写真

 

平日の昼間だった事もあり、この日、参道から先には誰一人いらっしゃらず

私と主人二人だけでした。(とても、珍しい状況だったと思います)

だからこそ、厳かな空気が全身を包み込むようで、尚更「ピン」と張り詰めるような気持ちになりました。

 

御楼門を抜けると、静寂な広い境内の先に御拝殿がありました。

御拝殿

 

     

                        

   

 

御楼門近くの参道の両脇には皇族の方々がお手植になられた、沢山の木が茂っていました。

写真では写さなかったのですが、御拝殿の先にある御神殿の前には

昭和天皇様がお手植なされた木を拝見する事が出来ました。

 

「宮崎神宮」様の公式サイトに「境内の天皇皇族方のお手植えになられた木々」についての詳しい記述がありました。

http://miyazakijingu.jp/modules/about/index.php?content_id=4

 

※大正天皇お手植(昭和天皇はじめ、境内には天皇皇族方のお手植えした木々が生い繁っている)

 

鳥居から続く長い参道の両側には、真新しい灯篭が続いていました。

 

 

今年に3月に建立された灯篭のようです。

 

 

宮崎神宮にお参りした後、続けて子供の時によく伺った平和台公園に行ってきました。

 

 

 

平和の塔には周囲に四神像が立たれていらっしゃいます。

           写真 正面右手前方

           四神像  商工人 和御魂(にぎみたま)

           写真 正面左手前方

           四神像  武人  荒御魂(あらみたま)

 

写真には写っていませんが

           正面右手後方には

           四神像  農耕人 幸御魂(さちみたま)

           正面左手後方には

           四神像  漁人  奇御魂(くしみたま)

 

 

塔の真下に扉がありました。

 

 

描かれている「内容」は、リーフレット等には書かれていませんでしたが

よく見ると、沢山の船が見えます。

 

平和台公園内にある「はにわ園」

 

 

リーフレットより

特別史跡公園 西都原古墳群から出土した重要文化財の「舟形はにわ」や

「子持家形はにわ」をはじめ、全国に見られる「はにわ」のレプリカ400基あまりが

この「はにわ園」に展示されています。

 

中でも、私が興味を頂いた「はにわ」さん?がこちら

「正装の男子」という「はにわ」です。

 

 

手刀らしき?物が見えます。  この手刀の形は・・・・?

 

神聖な場所にお伺いして厳かな空気に包まれ、

さらに、子供の頃の思い出が、かなりよみがえって来ました。

 

実は、当日、宮崎に行った目的の一つは

宮崎県立西都原考古博物館で9月10日まで開催の特別展

「日向諸県君(ひゅうがもろかたのきみ)と葛城氏」

を拝見したい!と言う理由もあったのですが、残念ながら休館日でした。

 

西都原古墳群は、通っていた幼稚園が西都市妻にあり、遠足や事ある毎に行って遊んでいた思い出の場所でもあります。

 

古墳群の中から

 

鬼の窟古墳の写真です。

 

 

鬼の窟古墳は、西都原古墳群の最後の首長墓と考えられます。

古墳の名前は、木花開邪姫(コノハナサクヤヒメ)に恋した鬼が、一晩のうちに窟(石室)を作った伝説に由来しています。

と記されています。

古墳群で唯一の開口した横穴式石室をもつとも書かれていますが

中に入ってみると、確かにどうやって古代の方々は切り出して、ここまで運ばれたのだろう?と考えてしまうような”巨石”が積み上げられていました。

中はとても広かったです!

 

 

 

ここからは「自分探しの旅」について書かせて頂きます(..)

 

私は故郷球磨に戻ってから、宮崎県内の神社様、数か所にお参りをさせて頂いているのですが

実は・・・母方の実家は宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」の宮司家一族となる家です。 
すなわち母方の先祖は宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」の宮司を務めた方であります。

この事は、父からも、母そして母の妹からも、子供の頃に聞いて知ってはいたのですが・・・・

もちろん、いつ頃「鵜戸神宮」の宮司家から分かれた(分家)したのかは定かではありません。

(子供でしたので、詳しく聞こうという発想は全くありませんでした。)

 

しかし・・なにせ、私の両親は、私が8歳の頃、離婚しましたので

母方の先祖については、「調べてみよう」と言う気持ちが湧かなかったのも事実です。

 

ところが

去年の秋、地元の宮原観音様の御開帳で、お参りに来られる方々の御接待をさせて頂いた時に、偶然、「高鍋町」から来られた親子の方がお見えになりました。

「高鍋」と言う事で、少し気になり、母方の実家の話をしてみた所

本当に、偶然なのですが、この方々が母方の実家の事をよく御存じでした。

母の実家の親戚には「杉田家」があり、両方の家をよく御存じで、大変驚きました。

聞くと「母の実家と親戚の杉田家は、蚊口に鎮座の『鵜戸神宮』での大祭の際には、宮司家の一族として他の一族の方々と共に中心的な役割をされている」との事でした。

この事を父に話すと

「お前がこの世に生を受ける事が出来たのは、家(宮原家)に繋がる先祖様、平川家・深水家の先祖様方の”おかげ”だけではなく、お母さんの先祖様方の”おかげ”でもある事は忘れてはいけないよ」

と言っていました。

 

しかし・・この約1年。やはり母方の事を調べてみようとはあまり思っていなかったのです。

(どうしても、母代りに育ててくれた祖母の事を思い出すと、気が引けていたのです)

それに、母方の実家の姓は「宮崎県内には非常に多い姓」なので、調べても解らないだろうという気持ちもありました。

 

ところが・・・

宮崎神宮様にお伺いして、少し気になる事があり

家に帰り、これも何かの「御縁」なのか?と考えて母方の事を調べてみました。

 

まず、宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」を調べたのですが・・・・

最初に目にとまったのが、なんと、先にも書いた「宮崎神宮」様の公式サイトにその記述がありました。

「宮崎神宮」様の公式サイトより

宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」

(こちらは宮崎県日南市に御鎮座の「鵜戸神宮」とは別で、高鍋町の「鵜戸神宮」です)

http://miyazakijingu.jp/modules/gnavi/index.php?lid=5

 

鵜戸

鵜戸は神武天皇ご東遷の際御駐輦された所として顕彰されている。

鵜戸神社の創建は年代が詳かでないが、古来鵜葺草葺不合尊御上陸の旧地に、社殿を建設したと伝称し、境内本殿の西側にある高さ三尺、縦横九尺五寸の小丘は、尊、御上陸の旧址と伝えられる。当社は景行天皇熊襲征伐の際、海陸安全、全戦勝祈願の為、天皇十二月十月行幸あらせらると伝えるも拠るべき史料なく、確証し得ざるを遺憾とす。古来海上鎮護の神とせられ、社伝旧記には其の鎮座地を、日州高鍋領内河口村と記している。

昭和二十六年十一月、現在の本殿、幣殿、拝殿が再建された。

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宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」の御由緒を拝見しました。

しかし宮司家についての記述がなく、本当に母の先祖は古くからの宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」の宮司様だったのか?と半信半疑で調べたのです。

(母の先祖様には申し訳ない事だとは思っていますが・・・)

 

すると・・・ついに・・・母方の実家に繋がる先祖様についての情報を見つける事が出来ました。

こちらのサイト様に記述が載っていました。

 

鵜戸神宮 (宮崎県児湯郡高鍋町蚊口上)

http://nanjaroka.jp/siseki/t-udozingu/index.html

 

勝手ながら転記させて頂きます。

 

寛政4年(1792)3月、高山彦九郎が当地を訪れている。
「筑紫日記」に次のように書かれている。「鯨橋なる板橋を渡る。かぐち湊なり、7百軒ばかり。鵜戸大明神、海辺松森の所に立つ。午未(うまひつじ=南南西)の方へ向かう。ふくあわせずの尊を祀る。艮(うしとら=北東)の方、土佐国也。夜明けに見ゆる事あり。百里もあるべしといふ。」
鵜戸神社の鎮座する境内には、神武天皇が大和に向かう途中に旅の平穏を祈願したところという伝承がある。
松尾芭蕉の句を刻した自然石「芭蕉句碑(潮塚)がある。旧藩時代に当地の俳人たちの中心人物であった鵜戸神社神官岩切副寛が慶応2年以前に立てた碑とされている。元禄3年(1690)芭蕉が二見が浦の絵を見て読んだ句と刻されている。

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※旧藩時代に当地の俳人たちの中心人物であった『鵜戸神社神官 岩切副寛』が慶応2年以前に立てた碑とされている。

 

昨年、地元高鍋の方に

「母の実家と親戚の杉田家は、蚊口に鎮座の『鵜戸神宮』での大祭の際には、宮司家の一族として他の一族の方々と共に中心的な役割をされている」

と聞いた母の実家の姓は・・・岩切です。

 

子供の頃に聞いていた事に繋がる記述を目にして、さすがに驚きました・・・・・

 

岩切氏はウィキペディアによると

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%88%87%E6%B0%8F

 

発生と起源
その祖は日向・日下部氏である。日下部氏は古代より続く有力豪族であり、薩摩隼人の末裔とも言われ、日向真幸院の郡司を務めた家である。その日下部氏の系図に、血縁から発生した土持氏や八木氏・海江田氏ら約80の氏族の中のひとつとして「岩切」姓が記述されている。
岩切姓は上代から中古までは史料に見られず、一説によると、平安時代末頃から土持氏と縁戚関係を強めていた日下部氏が、戦国時代の黎明期に伊東氏の勢力拡大によって打撃を受け、日向国諸県郡国富荘本郷岩切(現在の宮崎県宮崎市郡司分岩切)へと移り、そこで「岩切」姓に改姓したのが始まりと言われている。
島津氏9代忠国の三男・久逸が伊作家を継ぐ際に召し付けられた庶流は、戦国時代から安土桃山時代にかけて島津日新斎に軍師として仕えた岩切信朗やその子の善信などを輩出した。

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※その祖は日向・日下部氏である。

※日向・日下部氏は古代より続く有力豪族であり、薩摩隼人の末裔とも言われ、日向真幸院の郡司を務めた家である。

 

日向日下部氏を祖とする、岩切氏は、宮崎県内に多数の方々が住されていますが

母方はその中で

宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」の宮司家であり『鵜戸神社神官 岩切副寛』という方を中祖とする一族であるという事が、今回”これも何かの「御縁」なのか?”と考えて母方の事を調べてみて解りました。

 

さらに調べたのですが「岩切氏」を神官とする神社様は宮崎県内に他にもみられ

例えば

こちら(..) ①

http://www.kanko-miyazaki.jp/shinwanofurusato/interview05.html

 

さらにこちら(..) ②

http://jinmyocho.jpn.org/jinja/42_miyazaki_hokubuheiyabu/1521/1521.html

 

も宮司様は「岩切氏」のようです。

上記の②の神社様の宮司様は

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~  様のサイトの以下に記されていました。

http://m-shinsei.jp/modules/nano/index.php?id=2

 

 

 

ここで・・・・・

一つ気が付いたのですが

私の住む球磨に鎮座の神社様では多数の神社様の宮司家は

本姓 大神氏 の尾方家 が多く

家の親戚にも 代々宮司家である 本姓 大神氏の「尾方家」があり、さらに、他にも

以前、ブログにアップしていた江戸時代の先祖様が神官を務めた親戚も「本姓 大神氏」でした。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12280176184.html

 

球磨の神社は 「本姓 大神氏」 の神官の方が多く・・・・

日向の神社は祖を 「日向日下部氏」 とする系の神官の方が多くいらっしゃる・・・・

 

偶然、母方の先祖を調べた事により

また一つ発見した事でした。(p_-)

 

しかし・・・

宮崎県高鍋町 蚊口に鎮座の「鵜戸神宮」の御由緒によると

※鵜戸は神武天皇ご東遷の際御駐輦された所として顕彰されている。

※景行天皇熊襲征伐の際、海陸安全、全戦勝祈願の為、天皇十二月十月行幸あらせらると伝えるも拠るべき史料なく、確証し得ざるを遺憾とす。

とあり、こちらの宮司家一族が「母方」で・・・

さらに・・・

※私の住む「球磨」は上記にあった「熊襲」(私は球磨曽於と呼ばせて頂きたい)と呼ばれた 古代豪族の縁故の地であり

※その「球磨」に平安中期から鎌倉時代・南北朝時代にかけて遠江国や他国からやって来た

球磨の新しい新興勢力?「新球磨人」が、父方や親戚一族であり・・・・・

何か「複雑な因縁?」を感じてしまいます・・・・

父と母は恋愛結婚でした・・・

何が合わなかったのか・・・・都市伝説のようです・・・(p_-)

 

結局解ったのは

私は こってこての「新球磨人」と、こってこての「日向日下部氏」のハーフ?だった!

という事です。

(最後はおっちょこちょいの私らしく締めくくらせて頂きました <m(__)m> )

 

(^'^)

 

2017/09/11 19:30

内容、追記 編集しました。

 

次回『古(いにしえ)からの球磨の祭礼』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12311199366.html