「べき」(~すべき)ではなく「たい」(~したい)で生きる
「やりたくないことでも、やるべきだから、やらなきゃいけないことだから、我慢してでもやる」

という姿勢は、昔は美談、美徳でした。

“一握りの権威・中央のために自らを犠牲にして提供する”という生き方が美徳として定着すれば、生きやすくなるのはその“一握りの中央”です。

「中央がしっかりしていてくれさえすれば社会全体が安泰になるんだ」という神話(思い込み)は、幻想です。

だって社会って個の集まり。社会を構成する要素は一つ一つの個。大切にされないような構成要素一つ一つが集まって、何が構成されますか? 

俺一人さえ犠牲になれば全体が良くなる、損して得取れ、犠牲、っていう考え方は、構成部員として誤りだと思います。誤りと解っていても、自らの覚悟と選択でそうすると言われたなら止めることはできませんし、その選択はその選択で、尊重するものかもしれません。

でも、そこを巧みに利用した「コントロール」が存在するすることを、忘れてはなりません。

「自ら」という隠れ蓑、「自ら選んだんだよね?」そう言わせること、そう思い込ませること、「私が自ら選んだんです」と言わせるように巧くコントロールして誘導することで、その人を都合上良く利用しようとする、巧妙な悪の意識も、居ることは居るのです。

紙一重に、巧く隠れ蓑にして、責任を逃れて、自分達のエゴの欲のために、人をコントロールする勢力も、中には居るのです。

紙一重、本当に薄氷一枚なのです、真の「自ら」と、コントロールされて他人に作らされた偽物の「自ら」とは。


「やりたくないことでも、やるべきだから、我慢してやる」のではなく。

たとえば、「やりたいことがあるけれど、子供を育てることに(親を介護することに/家族を養うためにお金を稼ぐことに)今は集中すべき時だから、今は(ほんとはとっても嫌なんだけど自分のことは曲げて我慢して)やるべきことをやる」っという考え方は、幸せのためとしたら間違いです。(自分にとってはもちろんのこと、そこまでしてやってもらいたいとは相手も思っていません。なんなら後でとばっちりを食らうのは自分ですから。直接でなくとも、ツケは回ります。)それを言うなら「私は子育てを(介護を/お金を稼ぐことを)今は先にやりたいから、こっちのほうを優先したいと思うから、それが私の望みだから、今はこっちを取る。」と言い換えましょう。

同じことだけど、意識が違います。覚悟が違います。責任の所在が違います。主体性が違います。

前者は他人のせいにしています。
主体性がありません。

後で不満が爆発したら「お前のせいで」「こんなに我慢してやってやったのに」と言って人を責めて怒りをぶつけかねません。

後者は、自分に引き取っています。
外側からやらされているのではなく、
自分の内側からやっています。
取りに行っています。

だからといってここで、他人にぶつけるのと同じように「自分を」責めて、「人のためなんて言って、我慢を重ねてこんなにいろいろ犠牲にして、こんなに枯渇してこんなに不幸になってしまったのは、馬鹿な自分のせいなんだ、あんなことしなければ良かった、馬鹿な私、不幸な私、ああ可哀想な私。よよ」だなんて、自責の念で落ち込んで自滅してしまっては、矛先が違うだけで同じことです。

だから、前の記事で、最後に書いたのです。

「これでいいのだ」が大事だと。

後悔や怒りや責めや悲しみの矛先を、誰にも向けない。

というより、矛先もなにも、矛自体、無くしてしまえばいい。

「不幸?いやいや。これで良かったんだ、っていうかまだ先がある。まだこれで終わった訳じゃない。完結なんかずっとしない。ずっと波のように変化していくだけ。今はまだ途中。幸せになる途中。まだなってないだけ。不幸なんじゃない。幸せになる途中。人生万事塞翁が馬。ていうか、幸も不幸もない。ただ波があるだけ。判断と認識があるだけ。勝手に幸だとか不幸だとか感じる、感受性があるだけ。」

そういうふうに思ってみましょう。

そう思って、希望を持って、続けて行きましょう。人生という旅を。魂の旅を。魂の旅ですから、肉体を離れただけで終わることもありません。この地球上でのこの肉体を持った時代のこの人生は終わるかもしれませんが、それでもまだまだ、意識は在り続け、旅は続きますから。


結果なんて永遠に来ない。