神経やホルモンなど体の分泌物←性格←精神←想い(矢印は逆向きでもいい)
…という具合に影響を及ぼし合うというのは、生きててふつーに感じるよね。
あるいは
出来事や経験(見えること、体で体験すること、実体)から→思い出、記憶、トラウマ、思い込み(もはや手に触ることはできない、見えないもの、実体の無いもの、幻、思いや心の中だけで感じられること)へと、移行する
それは過去―現在―未来という時間の流れと一緒で、一連に繋がってるじゃんね。見えるものは必ず、見えないものへと、繋がってて、お互いに影響し合ってる。
ふつーに暮らしてたって、わかるやん。
みんな実感してるやん。
…
こんなことを書いたのは
最近時々、見えない世界とかスピリチュアル(←もうこの言葉もだいぶ使い古されたよね)を、当たり前の当然のこととして生活している人が周りにとても増えてはいるのだけれど、
「そう見えるのは、私の世界が狭いからなのかな?社会、世界全体の流れとしてはどうなんだろう?まだまだ全然そんなこと意にも介さない人も居ることは居るけれど、なんというか、そのギャップ?について考えるのって、どうなんだろう、おこがましいのだろうか?もうそんなこと、啓蒙だなんて、考えるのは、必要ないことなのかな?」と、思ったからです。
自信をなくすとまでは言わないけれど、ちょっと揺らぐものが、私自身に出てきたからです。
(揺らぎが問題で解決したいのではありません。(※アドバイス不要です) まあ最後まで読んでみて下さい。)
「こんなこと当たり前じゃん?なんで今さら疑問に思う?そんな人いるの?」っというか、
実は、そういう人は、見えない世界や精神世界をいまだに信じない未開人なのでは無く、
あまりにも当たり前のことだからわざわざ事挙げしないだけなんじゃないか?
いちいちスピリチュアルだの龍だの神だの不思議だぞ光だぞすごいぞなどと、いちいち騒いで、「まだの人たちに私たちが教えてあげる」的なスタンスで釈迦力になっているような人の方が、実は遅れてるんじゃないか?
そういうふうに、感じているからです。
私がそんな風に感じるのは、「当たり前が高じて」、みたいな感覚なのかな?
なんか私、間違ってるかな?っと、すごく自問自答しました。
一人悶々と考えつつ、誰にも言えず(一歩間違うと、相談した相手にとっても、紙一重で批判に聞こえてしまうから。批判する気は無い、皆それぞれ信念に従っていろいろ体験するのが一番良いと思う、でも、なら同じように、私のことも「それぞれよね」と、放っておいてほしい、巻き込まないでほしいんだ。今ようやく言っちまったけどさ。)、でも、どうしてもそう思ってしまう。以前のように、スピリチュアルイベントとかに出たり、セッションの募集とかして、釈迦力に活動なんかする気が、どうしてもしない。
焚き付けられることもあったりして、あら私やる気がないだけかしら?と悩んだけど、どう感じ直してみても、(活動は)違う気しかしない。(私は、ね。他の人は知らない。やりたい人はそれが今必要なんだから、別に「やめときゃいいのに」とかは思わない。自分自身に関してそう感じるだけです。)
なんか、吐露してしまいました。
同じように感じている人、居るかな?っと。
発してみました。
別にコンタクト取らなくていいし
傷を舐め合うじゃないけど、共感し合いその思いに重みを持たせる作業を、いちいちする必要は無いように思う。でも、「あ、そういうの、あるんだ!」っと気がつくことで、自分の中でぼやけたうっすら漂う感覚に、はっきり輪郭を持たせて感じることにはなると思う。自分の感じていることを見出だし、見つめて、感じ切ってみる、きっかけにはなると思ったんだ。
背中を押すわけでもないんだけど
そういう道もあるな、と思える
可能性のひとつだよね。