私はこう見えて、上手く言葉で自分を表現することが出来ない。
文章は、出す前に推敲して書き直せるからまだ少しはマシ。でも、とっさに目の前の人、それもよく知らない人に、自分の状態をできるだけ正確に、しかも要点をかいつまんで端的に、解っていただけるように表現することなど、不可能に近い。よほどのことがない限り、出来た試しがない。
特にはっきりこれを感じるのが、お医者さんにかかるときです。
お医者が必要なくらいなのだから、まず私は弱っているし、痛かったり混乱していたりして、なおのこと話は上手くまとまらない。
結局いつも、お医者さんのペースに巻かれるというか、お医者さんの思い込みややりたいやり方に巻き込まれる。
それが当てはまる場合は良いけれど、これまでの経験上、4分の1は、その治療が嫌で違う病院に行ったり、治療を放棄してそのままにしていたりしてしまっています。
時間が掛かってもいずれ自然治癒するとか、我慢できてごまかしてやり過ごせるくらいなうちは良いけれど、いよいよアカンようになれば、背に腹は代えられない状態になれば、必要なことが有無を言わさず、選択の余地なく起こるのだから、それでもういいし、それで仕方ないと思う。
といっても、お医者さんの先生も、プロで経験豊富ならまあ大抵パターンに当てはまるのだから大丈夫だけれど、
微細で難しい微妙なことになると(特に心療内科など)根本的治癒に辿り着くことは、むしろラッキー、有り難いこと(滅多に起こらないこと)と言えてしまうかもしれません。
ちょっと難しいことを書いてしまいました。
今日書きたかったのはそういうことがメインなのではないのです。
治りたくて行った医療機関で思いがけず、行く前よりもかえって気分が悪くなり、行かなきゃ良かったかな、なんて思いをちょっとしたあと
(じわじわと結構ダメージ大きいことに気づきつつ、何とか良い方に考え、糧にしようと試みている。でないと立ち直れないから)
その過程で感じたことを
自分を立て直すために
書いてみました。
(From Facebookに投稿した記事)

はあ―…
緑っていうのは、優しいねえ。

いいねぇ。癒されるねぇ🍀🌱

人間は喋る。言葉っていうのは、ほとんど、魂からは多かれ少なかれ、距離がある。
どんなに仲の良い人や信頼している人でも、時によって、ちょっとした行き違いや誤解はある。
言葉のチョイスや言い方なんて、本当は形に過ぎなくて、それを越えた向こう側、魂が本当に言わんとしていることは何なのかを、注意深く、慈悲深く、忍耐強く、拾ったり見据えたり、しなきゃいけない。
自分にも相手にも、愛を以て見つめなくちゃいけない。
でないと、しなくていい仲違いをすることになる。
仲が良いとか相性が良いとか信頼しているというのは、こうした行き違いや誤解の発生がそもそも少ないことも指すけれど、誤解しそうになったときにそれを解す根気よさと忍耐強さ、許し合う気持ちが、互いに持てることをも、指すのだろうと思う。
しかし、それでも、それがしんどいときもある。ある程度、他からのサポートがほしいときもある。
とはいえ、第三者に話すのも、誤解の飛び火や、更なる新たな拗れ(こじれ)を誘発する危険がある。
そんなときは、自分で何とかするしかない。自分の中で解決したり、折り合いをつけるしかない。
そういうときに。
植物の緑は、不思議な、声なき言葉で、静かに寄り添って、力や知恵を、与えてくれている気がする。
優しさ。受け入れ。調和する感覚。平和。
そういう波長に、私達を、静かに何かを発しながら、静かにいつのにか、調整してくれているような気がするのです。
疲れた。
生きてりゃ疲れることもある。
疲れるのが悪いことな訳じゃない。
疲れたなら癒せばいいだけのこと。
そしてまた歩き出せばいいだけのこと。
休もう。
参ったら、休もう。
時には、いつもの場所を離れて。
