最近、マンジュシャゲのあの赤い花を見かけることが多いのですが、
梅小路公園に咲いていた、いっぷう変わったマンジュシャゲの花を
アップしてみました。
左のほうは、赤と白の混合のマンジュシャゲ、
朱雀の庭の鏡池の中道に、1輪だけ咲いています。
右は真っ白なマンジュシャゲの花です。
こちらは、芝生広場の外周の散歩道のそばに
咲いています。
クリックして大きくして見てあげてください(‐^▽^‐)
よく、赤いマンジュシャゲの花がたくさん集まって
土手やお墓の近くに咲いていたりするのを見かけましたが、
こうやって見てみると、むしろ
白いマンジュシャゲのほうが、彼岸へ渡っていかれた
近しいひとを偲ぶのには、似合っている気がします。
朝露がまだ白い花びらにのこっていて、
それが、差し込む日差しに、キラッと一瞬光るさまは、
大切なひとを想うひとの涙のようにも、見えました。(ノ_-。)
数日前に、海を渡る夢、という映画を見ました。
若い頃に、海へ遊びにいって飛び込みをしたときに
運悪く頚椎を損傷してしまって以後、30年ちかく、首から下がずっと
動かないまま生活してこられた男性のお話で、
この映画は、スペインに実際におられた男性の書かれた本をもとに
制作されたとのこと、興味がわいて調べたら絶版になっていたので、
図書館に行って借りてきました。
彼は長年にわたって、自分のいのちを終える決断を認めてくれるように、
そのときに、手を貸してくれるひとが罪を問われないように、と
裁判所に訴えていましたが、
いずれも、手続きの不備を理由に訴えは却下されて、
その後、自ら、思いを遂げられたのですが、
その間の自分の気持ちを、この<海を渡る夢>という本に
綴られていました。テーマは重いですが、とても詩的な
素晴らしい文章で、書かれています。
最後の一章は、残されたご家族にあてて、
これまでの長い時間への感謝とともに、どうか
いのちを終えるという自分の意志を尊重してほしい、という
遺書になっていました。
この本のなかで、著者が、どうか生きてほしいと頼む友達に
宛てて、手紙を書いているのですが、その一節に。。
○○○、考えてみて欲しい。
ひとが、現実の世界で、生きる、ということと、
誰かの心のなかに存在し続けて、そこで、ずっと生きつづける、
ということの二つを。
生きる、ことにおいて、現実のほうがまさっているだろうか。。
永遠に生き続けることは誰もできないというのに。。
と問いかけている部分があって、
少し前に聞いたもうひとつのお話を思い出しました。
それも、主人公が誰かに、彼岸に渡る、という
ことについて、語りかけている言葉だったのですが。。
△△△、ひとが、本当の意味で<死ぬ>ときっていうのは
いつか、わかるかい?
それは、この地上の誰の心のなかにも、そのひとがいなくなってしまったとき、
そのときに、初めて、ひとは、ほんとうに<死んで>しまうんだ。
だから、君がその心のなかで、ずっと彼を覚えているかぎり、
彼は、死んでしまう、ことは、決してないんだ。
彼を想うひとが、この地上にいるかぎり、
彼もまた、ずっとともに、生き続けることができるんだ。
わたしのココロのなかにも、
もう今は会えなくなってしまった、懐かしいひとたちが、たくさん
その温かい言葉やいただいた思いやりとともに、今も鮮明に残っています。
わたしがそうであるように、そのひとたちを懐かしく想うひとのココロのなかで、
みんな、ずっとずっと生き続けているのだと、思います。
<人間が生きる意味とは>というような大仰なこたえは、きっと
これから先ずっと生きていたとしても、私には見つけられるようにも思えませんが、
このお話のように、わたしが生きていることで、そんなふうに、
たくさんの懐かしいひとが今も生き続けていけるとしたら、
生きていく意味、生きていく甲斐、は、あるような、気がする、
生きていくことは、ある意味、感謝であり、義務でも、あるような気がします。
白いマンジュシャゲに偶然出逢えて写真を撮ったあと
広~~い芝生広場を歩いているあいだ、
そんなことを考えました(‐^▽^‐)















