動画音声による解説

 

千田寛仁がなぜ歴史の証人たりえるのかは

生まれたところが大倭日高見国の中心であり

育ったところが豊葦原瑞穂国の中心で

天皇号を作った聖徳太子の子孫であるから

そして誠実をモットーとして嘘を嫌い

国宝十一面観世音菩薩が平等寺蔵であったことを知っているから

結局偽物は歴史で私に勝てない訳です。

 

何よりも、皇祖饒速日大王を祀る三輪明神の中心は平等寺であり

三輪神社を整えたのが先祖聖徳太子

三輪明神を作ったのが慶圓上人

1億2622万人の日本国民が居ますが

私以上に歴史を知っている人間が居ないのは

結局、私から皆、安全で深く悠久の歴史を人々は学ぶのです。

 

廃仏毀釈で平等寺が壊滅した際に

本堂が神社の賊徒に焼き払われて

国宝十一面観世音菩薩は

今の蜜柑畑に捨てられていたのです

それを、三輪の勝井氏、奥山氏、山添氏、有志の方々が見つけて

平等寺所轄の大御輪寺に運び

 

(平等寺の中に三輪明神、浄願寺、大御輪寺があった。大正まで大神神社は無かった。三輪神社であり、平等寺を仏式で三輪明神といい、神仏習合の根本道場でした。)

 

そこから大八車で、多武峰聖林寺へと運んだのです

出口橋を渡るまでどしゃぶりの雨でしたが

橋を過ぎると雨がやみ

『観音様もあきらめがついたのかな』

と有志の方々がつぶやきました。

三輪の有志の方々は

雨の中

各々自分の蓑を観音様に被せて

自分たちは濡れて運んだのです。

平等寺の本尊前立観音が

聖林寺十一面観世音菩薩であることを

十一面観世音菩薩が饒速日大王を表していることを

知っているか知っていないかで

本物か、偽物か、わかれます。

知らないならば覚えることで

すべてを理解することが出来るようになります。

 

「人間の都合で作られた歴史や神よりも、自然の姿が神仏の姿そのものなのです」

 

この国の未来と世界の未来の為に

 

南無饒速日尊天照大神

南無十一面観世音菩薩

南無釈迦牟尼仏

 

仏教を枢軸として

争いのない

確かな未来に

 

令和元年付記

『令和・和を以って貴しと為す』

 

聖徳太子尊儀

 

笠荒神社竹林寺 八重紅枝垂 平成31年4月21日

 

2012-05-02 12:33:19

當記は2003年千田寛仁著「日本の朝日」の編集版。

 

千田寛仁日本の歴史
Japan's description
 
この文献も参考までに

 日本人の御先祖様は人類学的に、モンゴロイド人と呼ばれています。東北地方の岩手県花巻市では、3万年昔といわれる石器時代の遺跡が発見されています。縄文文化が色濃く名残りをとどめています。現代科学の粋であるスペースシャトルの外壁は高温にも耐えるセラミックス(陶器)で出来ています。セラミックスは、岩手県、津軽、東北地域の遮光式縄文土器(炭素セラミック)の成分を参考にしてNASAで再開発されたものです。このことは、縄文時代文明の高度性を示唆しています。北海道函館市で9000年前の漆器(うるしを塗った器)が発見されています。世界最古の漆器といわれており。遵って日本は英語でJAPAN(漆器)と呼ばれているのです。

 紀元前後、日本列島各地に王朝が存在したと考えられます。津軽で阿蘇辺王国が起こり、近畿に耶摩台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、関東に日高見王国が建国されて来きました。

 石川県(加賀)の三輪で100以上ある小国を統一して耶靡堆国(やまたいこく)が建国されました。耶靡堆日子(やまとひこ)とも阿毎氏(あめ)とも言われる初代王は、耶靡堆国明日香(やまたいこくあすか)の箸香(はしはか)の山を三輪山(みわやま)と名付けました。その後、加賀(かも)の三輪山神を現在の奈良県桜井市三輪へ移し、三輪山大神として、大物主神(おおもののぬししん)を祀りはじめました。この時に耶靡堆国(やまたいこく)は国号を耶馬臺国(やまたいこく)と改めました。

 このもとに筑紫九州を耶馬一国、南海道三重和歌山を耶馬二国、出雲を耶馬三国、東国関東以北を耶馬四国と称しました。後に耶馬台の安日彦王が耶馬臺国中央の王になり、合わせて五人の王を立てて政治を行いました。多くの小国の王がこの時代の動きに敏感に同調して、倭国とも称される耶馬台国(中央現在の桜井市)は、急激に頭角を表してきたのです。


 桜井市の笠から最後の天照(ニギハヤヒ大王=大物主命)が、秋田県と山形県の境にある鳥海山に行きました。大物主命は神祭の御式、祈祷、医術などをこの島の人々に広めました。また、造船技術、武術にも長けていました。大物主命は、出羽に赴いて、しばらくの間滞在し、その後、日下(現在の東大阪市)に到着し、先に日本に上陸していた義父(綿津見=后活玉依姫の父=三嶋溝)の勧めがあって、奈良県生駒市に展進しました。そして、生駒市富雄(鳥見郷)に本拠地を置き、斑鳩周辺よりはじめて大和盆地を南に向かって治めて行かれました。さらに南下して、神山三輪山に移り住みました。 三輪山は日本のピラミッドといわれています。鳥海山にあるような黒い磐座が、山の頂上に鎮座しています。

 耶馬台国は、活玉依姫という巫女が執権をとって、神事を司り、国を運営していました。巫女の兄・登美明国王(長髄彦)とニギハヤヒ大王は神酒を交わし、話していくうちに大変仲良くなって、長髄彦は大物主命へ申し出ました。「是非とも妹・活玉依姫巫女と結婚して登美、豊葦原瑞穂の国の大王になって欲しいという事でありました。大物主命は王として鎮座しました。大物主命は、新しい国づくりを平和的に遂行して行きました。数え切れないほど多くの日本の諸国の王を天理市石上(いそのかみ)へ集めて、共和体制をしきました。また、奈良県天理市石上神宮に、武器を納めてもらい、他の部族の侵攻にそなえました。

 神道においては綿津見の神を大山祗(おおやまずみ)三嶋溝杭(みしまみぞくい)大陶祇(おおすえつち)と呼び奉ります。山、河川、海その全体の管理者、大王であることを偲ばせています。先代大物主命登美明国の父のことです。


 紀元前680年頃(紀元前200年頃とも考えられる)、大物主命ニギハヤヒ命の実弟ニニギの命の孫である筑紫日向高砂の佐怒王(さぬおう)が耶馬台国へ征きました。佐怒王は、兄の日向王五瀬彦を送り、7年もの攻防戦をしましたが決着がつきませんでした。この間に日向軍は、出雲軍と合流して戦力を高めて、耶馬台軍を後退させました。8年後、八百隻の軍船を従えて、佐怒王と五瀬王が難波に上陸しました。五瀬王は、この時、長髄彦らの耶馬台軍によって致命傷を負い討死しました。そこで佐怒王が将軍となりました。

 この後、難波からの上陸が極めて不可能だと考えた日向軍は、紀伊半島を迂回し、熊野を通って耶馬台国を攻めました。深傷を負った長髄彦は敗れ、一族は東国へと退きました。安日彦王もまた、東国へ同じく退きました。佐怒王は耶馬台国を攻略して立君し、大和王朝を興し、日本紀元を称したとされていますが、それはこの時期からおおよそ30年後のことです。

 神武天皇が皇統位を継げたのには逸話があります。熊野において二度井光(吉野首長尾氏の祖)のもとを訪れ、天神の末裔の御徴の弓矢を借りました。これを大物主命に見せて、第一の条件を満たしました。次に、大物主命の孫娘イスケヨリ姫を三輪山の池のほとりで待たせ、うまく彼女をエスコートできたら合格、できなければ不合格という話で、神武天皇は大物主命の孫娘イスケヨリ姫に認められた婿養子です。
 
  登美(豊葦原瑞穂国)
 
  ミシマミゾクイ
  ナガスネヒコ (ミシマミゾクイの息子、活玉依姫の兄
  ニギハヤヒ(大物主命、后、ミシマミゾクイの娘活玉依姫)
  八重事代主(父は大国主命、后、ニギハヤヒの娘、櫛玉姫)
  サヌ(神武天皇)(后、八重事代主の娘イスケヨリヒメ
 
 一方、長髄彦と安日王は福島の会津で再会し、再起を願って東日流(津軽)へ逃れ、安日王を中央王として立君し、三輪郷(青森県弘前市)を中心に全く耶馬台国と同じ五王の制度を布いきました。ここに秋田の熟族、岩手の麁族を併合、長髄彦らが津軽に来る前には晋の時代に敗れた遺臣、その一族が大陸から稲を運んでいて、津軽の日之本国荒覇吐王朝は豊かでした。日之本国荒覇吐王讃日は自ら支那に赴いて馬を導入しました。支那へ渡った際、支那東周王朝安王と友好があって、安東将軍と呼ばれました。日之本国荒覇吐王済糖彦は、この騎馬軍を5万騎に膨らませ、日之本国荒覇吐王武波日の時には念願の故地耶馬台国(倭国)を奪還しました。

 孝元天皇の耶馬台国立君を良く思わないでいる奥州各地の荒覇吐族長老達は坂東(関東地方)に興日彦王を立君し、彼を日之本荒覇吐王国正王としました。これに激怒した武波日彦王は、荒覇吐族を脱して、(出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰)を統一して王国を形成しました。坂東の日之本国と出雲の日本国が激しく紛争を繰り広げたのが、秦始皇帝の甲戌20年だと伝わります。この合戦の地が耶馬台国(倭)の那古、現在の名古屋です。名古屋が西国と東国の堺(さかえ)でした。孝元天皇の子供がやがて孝霊天皇のように耶馬台国を再び統一しました。

 三輪山に即位したその人物は後に、開化天皇と呼ばれ民衆に親しまれる存在です。




 大物主命ニギハヤヒの本名は布留。別名は、天照、十一面観音、不動明王、大物主命、閻魔大王など、色々あり。

 ニニギ命の本名は布斗。孫の名は佐怒(さぬ)。別名は、神武天皇、神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと 狭野さぬ、さの 始馭天下之天皇はつくにしらす 宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇 うねびのかしはらのみやにあめのしたしろしめすなどで親しまれている。





【鬼門】
 

かごめ かごめ

かごの中の鳥は

いついつ出やる

夜明けの晩に

鶴(伊勢)と亀(出雲)とすべった

後ろの正面(三輪)だあれ



 ニギハヤヒ大王の教えは、日本語50音の語源といわれる「ひふみ祝詞」に鮮明に伝えられています。筆者が1996年、環境保全を奈良県の天理は石神神宮で神に誓った際、ふとその意味を直訳してみました。

===ひふみ祝詞・訳・千田寛仁で検索===
 




 【大和朝廷】

 開化天皇の息子、崇神天皇は、三輪に王権を樹立しました。元の平等寺本堂跡星降を頂とするこれを、現在の平等寺、そして天理教敷島大教会の地域です。日本国の一宮、磯城瑞垣宮(しきみずがきのみや)といいます。現在の奈良県桜井市は、日本国(倭国=邪馬台国)の中心として栄えました。大成経には、三輪明神に僧侶を招集し、祈祷させたという旨の記述があります。西暦581年であり、日本国はじめの官営寺院「大三輪寺」現在の平等寺の開基です。 大三輪寺には、(現在の韓国)百済の仏十一面観世音菩薩が安置されました。聖徳太子豊聡耳命は、その仏を、十一の顔をもって、苦しむ国民を救ってくださる大物主命ニギハヤヒになぞらえて祭ったのが日本国の十一面観世音菩薩信仰のはじまりです。

 大和朝廷の起こったきっかけは隋の勃興でした。大倭軍(日高見国)が飛鳥に今後の日本をどうするのかについて談議に飛鳥へと集結したのです。これは、隋の煬帝皇帝が仏教によってアジアを治めるという冊封体制を日本が需要するかどうかを迫られたのがきっかけです。煬帝皇帝が法王として仏法の法主となり、各国が朝貢することをもって、世界を穏便に運営しようとする中華思想によりますが、我が国にはその当時から各国より使者が来朝し、朝貢を行っていました。我が国は世界の大学であり、三輪山(蘇我山)へ人々が学びに来ていたのです。

 しばらくの後にこの様子は、法隆寺の金堂にも描かれ、三輪を中心とする倭京が世界の名だたる都であったことが伺えます。現実、シルクロードの出発点が三輪であり、到達点がローマであると考えられます。

 大倭軍(おおやまとぐん)は、大和軍(やまとぐん)との談議を終えて日高見国へと帰還しました。東西の代表が集い、中国の仏教を中心とした冊封体制に倭国として遵うことに採決したのです。

 この時、飛鳥の雷丘の東の原に談議のために陣営したのが『大和朝廷』です。聖徳太子は争いが回避できたことを匿われた壺坂の神に感謝して宗祐寺を建立し、また皇祖ニギハヤヒ三輪神社に感謝して十一面観世音菩薩像を彫り、大三輪寺と称しました。

 その後大和朝廷は大倭に対する政治的陣営へと姿を換え、征夷へと意味が移っていきました。西側で平安時代と呼ばれる時代、東では平泉と呼ばれる時代が示すとおり、千年の昔は平安京と平泉が二大都市でした。




 【信仰の衝突】

 物部氏と蘇我氏の宗教対立。飛鳥時代といわれる大和朝廷の創成期にあって、宗教的な祭事の実権を握り、朝廷の中において占いを任される事は、政治の実権を握ることも同然でした。大連物部守屋は、聖徳太子の母親穴穂辺間人皇女の宮、豊浦寺を放火、襲撃しました。焼け落ちた寺の中から、銅で鋳造した如来像が難波の浦に沈められました。

 『後の世の話、今長野に善光寺という世界宗教会議の主催地にもなるほどの有名な寺院がありますが、そのお寺の本尊がこの如来像です。誰が難波の浦から善光寺まで運んだと思いますか。その人の名は、百済国最後の皇子善光王です。日本名本多善光。天智天皇の弟天武天皇の妻は持統天皇と呼ばれ、善光王に百済王(くだらのこしき)を名乗るようにと仰いました。百済の一族、百済王氏(和氏)より平安時代には桓武天皇が現れました。桓武天皇の母は、高野新笠と呼ばれます。また、桓武天皇から平家と源氏がそれぞれ創出されています。』

 中臣氏も忌部氏とともに、祭祀を司る一族で、後の世に藤原として名を残す豪族です。中臣氏は、天皇の代わりに祝詞を神に謳い上げる役目をしていました。物部氏と同じく神社の職務を司っていました。

 この時期の天皇は推古天皇で摂政は聖徳太子でした。
 最大の実力者となった蘇我入鹿は、親戚の皇子を皇位につけるために、山背大兄王一族を滅ぼしました。


 中臣鎌子は藤原姓を天皇より授かり、大織冠(唯一の位)を冠されました。亡くなられた後は、鎌子(藤原鎌足公)の御遺骸は、茨城鹿島から大阪府高槻市に埋葬されて後、長男の定恵和尚によって679年に多武峰談山妙楽寺を建てて祭られた。

 694年持統8年に、新益宮(藤原京)への遷都が天武天皇の長子高市皇子を中心にはじめられ、704年に完成しました。耳成山を頂として都は建設されました。この山は幕末までは木無し山、毛無し山とも呼ばれ、古代は白亞の御影石で覆われていたのだと言い伝えられています。
 
 明治天皇はこの御陵の頂上にあがり閲兵、指揮を執りました。長州薩摩を中心とした時代の夜明けです。坂本竜馬先生は友達が多かったようです。坂本竜馬先生が我が国初の株式会社亀山社中を作り、その債務処理を岩崎弥太郎先生が行って三菱へと引き継がれた経緯は見逃せません。亀山社中は海援隊、土佐商会の母体で、それが三菱商会へ展進しました。廃仏稀釈を行わずに誠に国民の議会が存在していたとしたら。金融を掌握する人たちも、日本的精神がそのまま西の先祖に対しても敬意を払っていることを知ってくれると考えます。この世には公正が最も必要だと言えます。

 本音では誰でも助け合うべきだと思い、家族の念があるだろう。しかし、軽薄な風潮が他人面という建前を産み、そうすることが無難だと思いがちです。大きなことはできなくとも、警察や行政機関への進言、市町村区、あるいは親族の集まりでの発言を通じて、誰一人粗末にしない国を皆で育んでゆけるのです。』




 【大都平城京、大都平安京、の建設】


 日本がはじまって以来の大工事。

 若草山鶯山古墳を頂に現在の奈良市を埋め尽くす規模の、壮絶なスケールの都が誕生しました。この都の造営を企画したのは、藤原鎌足の次男藤原不比等公です。春日大社に祭られています。日本史上きっての切れ者。また、この時期から、東大寺を中心に国営の寺院が、全国に作られて行きました。
 平城京は、中国の風水という統計学によって管理されています。都の東に藤原氏権力の象徴、春日大社があるのです。
 この春日大社を頂きに、大和の神社は線で結ぶと、大男が大和神社を足で踏むような形で作られています。東大寺の大仏は、大物主命を表しています。また、東大寺の奥院二月堂でのお水取りは、日本ではあまりにも有名な行事ですが、実はこの時、僧侶たちが唱えている経文の中に登場する神々の名は大和朝廷によって各地で書き換えられた先祖たちの名前なのです。大和朝廷は、東大寺を中心に平城京という大都を建設しました。この時代からすでに、天皇を神輿に担いで貴族が好き放題やるという図式が出来上がっていました。治世を求めたものの、これから先は、江戸になるまで戦や災いの続く恐ろしい時代に入ります。行基菩薩が命をかけて公共事業に没頭し、鑑真大和上が命をかけて平城京に来たにも関わらず、一向に世の中は良くならなかったのです。それどころか、人々は狂乱し、まさにそれは芥川龍之介氏の羅生門に出てくるようなおぞましい世界なのでした。

 また、東国を蝦夷と蔑視しました。
 そして、それは、あからさまに天皇家と藤原氏族が保身をかけて行いました。
 坂上田村麻呂を将軍に、日高見(現在の岩手県北上市)へ大軍を送りました。征夷大将軍。紀元前開化天皇代は全国が日高見となりました。その後縮小して名古屋まで後退した日之本国(日高見)も、奈良平安時代頃は大和の勢いによって領土を狭められていました。坂東以北を日高見と言ったのでしょう。

 その日高見の国の将軍をアテルイといいます。アテルイは日之本国荒覇吐族であり、日本古代の長髄彦を源流とします。もう一つ言えば、アテルイとはアルタイの同義語であり、日本におけるアルタイ最期の将。またアルタイとは、鷲のことであり、神武天皇東征の際には猿田彦として登場します。

 猿田彦の猿とは将軍の事で、おそらくはサルゴン王からの系統で「新天地、アルタイ(日本)の王」という意味でありましょう。

 日高見とはその日之本国の首都で、大和は大都平安京の完成とともに、日之本国にいつ挙兵されるかという不安を一掃しておかなくてはならなかったのです。

 備考として、大倭と大和の戦いは38年も続き、疲弊した大和軍が坂上田村麻呂を通じて講和を持ちかけました。アテルイと腹心のモレは、「坂上田村麻呂将軍」を信用し、日之本500名の臣民とともに大和へ赴いたのです。ところが大和朝廷の貴族たちは約束を破棄しました。坂上田村麻呂将軍は最後まで大和朝廷にアテルイとモレの救済を要請しましたが、アテルイを大墓公阿弖利爲(たものきみあてるい)、モレを磐具公母礼(いわぐのきみもれ)と大和朝廷側が尊称で呼んでいる歴史を見ると、大和朝廷の故国日乃本に対するたむけであったと感じます。
 
 

 京都東山の清水寺は坂上田村麻呂の創建であるとされます。大和高取の報恩山子嶋寺の支坊として清水寺は建てられました。高取は坂上田村麻呂将軍の出生地で祖百済国阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢氏(やまとのあやし)の領域でありました。

 アテルイの別称に悪路王(アクロオウ)。
 
 
 高岡の王、山上より農業を監督する皇命(あがすめみまのみこと、と言えば東の皇命という意味ですから、大祓祝詞に出てくる皇祖は、大倭日高見国の王であることが理解できます。西日本側では「千田を葦原」に替え、「東を我」に替え、日高見国を封印しようとしましたが、さすがに神道家はそれに反発し、大倭(おおやまと)日高見国(ひだかみのくに)の名を残しました。現在でも日高見の名は「北上」(きたかみ)として名残ります。この日高見が日本の語源と考えられるのです。

 また、東国を蝦夷(えぞ)と蔑視していた人達は伊勢神宮の元が伊雑宮(いざわのみや=イゾグウ)であり、その地を『千田』と呼ぶことを知りません。葦原の語源である千田(チダ)、伊雑宮の置かれた地を磯部(いそべ)と言い、元伊勢の石上は(いそのかみ)と呼ぶのです。那古スサノオ命が、桜井市の出雲から亀岡(亀山)に向かい大陸に和歌山の千田港から向かったことや、神功皇后様を奉る熊本の社を千田聖母八幡宮と呼び奉ります。千田というのは、なんらか皇祖たちに関する名前であり、ちなんだ土地を呼ぶのです。垂仁天皇代まで神宝を安置した地を茅原(ちはら)といいます。これが千田の当て字です。和爾子(まるこ)を丸子と略したり、和爾を春日と称します。千田というのは太陽のことも言います。それゆえ千田のアルファベット表記はTIDAなのです。天平、平安京の人々が、平(たいら)と称すのは桓武天皇の子葛原親王の子孫たちで、この平というのが「タイラ」すなわち千田へ順ずる造語であることが解ってきました。なぜ平家北条氏の執権北条時頼公の妻に千田尼がいたのかも理解しました。(千田・太陽・妙見・北斗七星・聖徳太子の刀・千葉)全国的な千田と名のつく地名。江戸の神田、政治の中心地を千代田としてみたり。為政者は日本そのものを現す千田をもろに使いたくは無いが、千が神をあらわす言葉ゆえ、威厳を示すために使いたいと言うところは、実に面白いものです。

 アテルイの一族は安倍(東の長)を名乗り、後世に奥州藤原氏となって藤原清衡公が平泉を開きました。私も清衡公から43代目であることから、全国親戚だらけであることがわかります。安倍晋三首相と私とは、安倍頼良(通称頼時、清衡の祖父)で同祖です。晋三先生が兄宗任様の子孫、私が妹有加一乃末陪の子孫です。こういう一点を見ても、命の繋がりで他人がいないということが解りますね。


 長臑彦兄王安日彦→安東氏→大墓公阿弖流為→忠頼→安倍忠良→安陪頼時

 安倍氏の子孫が、足利家と新田氏、世良氏経由の徳川家康公の祖になる、というように、ここでも歴史が繋がります。足利家の小柳君と私が仲が良いのは、やはり同祖だからでしょう。

 桓武帝も大墓公阿弖流為も、敵味方関係なく双方が私たちの先祖に名を連ねているため、現在となっては誰が悪いかという失跡を掘り返すことは無意味であり、敵味方ともに供養することが必要ですね。今現在私たちの命があることに感謝。



 【天平時代平安京】

 
 古代王の墓であると考えられる船岡山を頂とした平安京は、名高い呪術師、安部晴明公によって見事に結界の張られた都市です。備考では安部晴明公は聖徳太子と同じ天照(天神の)一族。結界とは自然界の調和バランスを考え、都の邪気、穢れを祓うための目には見えない技術のことです。当時の科学です。また天台宗の開祖、伝教大師最澄が大和の大三輪寺から京都平安京の最東比叡山に三輪明神大物主命の御霊を御分霊して安置して大比叡としています。その頃、弘法大師空海は、和歌山高野山を建てる前に大三輪寺に上がり、遍照院を建てています。またその後鎌倉時代に、神仏習合を完成させた三輪上人慶円が、大三輪寺の寺号を三輪清浄、一相平等なることを祈願して「平等寺」に改めました。

 慶円様は九州の菊地家の出身で賀茂氏です。桜井市の安倍寺で法相学を学び、のちに大和国吉野山の尭仁法親王に師事して東密広沢流を学び、また、金剛王院流も修学しました。尭仁法親王は北朝初代光厳天皇の子後光厳天皇の七子で天台座主を二期務めました。光厳天皇は歴代天皇の中でも珍しくまるきり僧形の遺影を残しています。(常照皇寺所蔵)

 ひとえに慶円と人は呼びますが、平等寺を三輪別所と呼んだことを偲べば弘法大師空海や伝教大師最澄と同様に、国家平安の祈祷をしていたことが伺えます。西暦1217年建保5年には、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神職松下能久様が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受けて、慶円を招いて寺を建立したといいます。寺名はこの由緒にちなみ、「神光院」と名づけられました。慶円上人は弘法大師空海同様、日本の要を周り神事を修めて行きました。

 平等寺の印はロシアで言うシャングリラ(理想郷)の印と良く似た形で、丸が三つ重なったものです。インドカシミールやキリスト教でも使われる神印と似ていて、日本では一部の知識人がこれを自らの印として使っています。また、この時代の建物も仏像もオリエンタルの影響を多分に受けたものが多いです。
 
 世界の様々な文様を見ていると、科学や医科学や物理学は6千年周期で繰り返しているだろうことが解ってきます。即ち教学は6千年かけて双六を上がるだろうこと。3つの輪とは例えるならこういう構造物なのです。日記を毎回読んでいる人には何だかお判りでしょう。解らない人は時間をかけてお読みになられてください。当記にその価値があります。
 
 
(三量体)トリマーオリゴヌクレオチドの化学式

 百済国から来たシンプルでスレンダーな渡来仏は、まろやかであり腰が美しくくねっていたりなどという印象を受けます。
 
 京都盆地の中に突如現れた平安京は、日本の富を結集してガラスの蓋を閉じてしまったかのような華麗さ艶やかさでありました。人々は都を愛し、全国からは容姿端麗な美女が集められました。そのことが更に京都の人気を盛り上げたのです。

 しかし、政権がらみの紛争は、平安という都にあっても、尚も激しく続いていました。ここに初めて登場します菅原道真公。この方は、仕事に熱心であり、人情に篤く、学者肌であり、かつ国民のことを考えて行動するまさに求められた政治家であったのです。当然時の天皇からの信望もあつく、右大臣として歴然と名前の知れた大人物であったのです。しかし、藤原氏にとっては政権をとるには大きな壁でした。菅とは蘇我の代え字で、菅原は蘇我の後継であったからです。菅の同義語には、杉、好、信貴、などがあり、ことごとく高句麗をあらわしています。百済も高句麗の朱蒙王三男温祚(おんじゅ)が創った後裔国であるから、高句麗を想起して不思議ではないのです。
 

 奈良平安期というのは言い換えれば、藤原氏と菅原氏に代表されるように、渡来人が日本国の中で権力を握るために政治紛争を重ねた時期であり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあったように、不安定な時代でもありました。地震や災害、疫病に飢饉が多発したと言われています。

 古代は、伽耶(伽耶は新羅の呼び方、百済では加羅と呼んだ)に任那日本府があったように、現代よりむしろグローバルであったことでしょう。

 菅原家からの政権の完全奪取を目論んだ藤原氏は、道真公が天皇に謀反を企てているとのデマをはなはだと垂れ流し、無実の罪を着せられた道真公は、西の果て大宰府に島流しされ、悔しさとやりきれなさの中で亡くなられました。
 
 そのあとの話は有名です。
 ある日稲光と同時に、道真公を大宰府へと左遷へと追いやった張本人の藤原時平公は京都清涼殿で、雷によって胸突き刺され、不幸の死を遂げたのです。

 それだけではなく、蘇我入鹿を殺害し藤原京を作った時と同様、藤原の子息一族がわけもわからぬ病気にかかって続々と死んでいきました。

 これでは、一族の存命に関わると判断し、朝廷直々に天皇が菅原道真公の菩提を弔うために全国に神社を設けました。天満宮、天神さんと呼ばれて全国あちこちにあります。ちなみに天神社の第一座が桜井市初瀬の與喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)です。

 道真公の妻は、二人の幼子を連れて奥州岩手県江刺に移り住みました。岩手県に菅のつく、菅野、菅原姓が多いのはこのためです。全国的には、山口県、福岡県、岡山県に多く道真公の子孫が居られます。また、同じ漢字で菅と言えども、「かん」であるか「スガ」であるかと別けるのは、南の出身か、北の出身かという違いです。

 今も、道真公は、学問の神様として、篤く国民の信仰の的となっています。またこの頃日本史に名高い俵藤太「藤原秀郷」が関東の守護神といわれる平将門公を打ち破っています。

 平氏も源氏も桓武天皇(母系が渡来系)の末裔であり平氏は朝廷で総務的な役職に携わっていました。将門公は大王の名にふさわしく、坂東きっての武人であられました。ことに、坂東に楽土建設を目指したのです。しかし、それは朝廷にとって許しがたいことでありました。
 将門公は藤原秀郷公の終生のライバルでもありました。また秀郷公は、全国に最も多いという苗字、佐藤氏族の主(もと)でもありますから是非覚えてください。



 参考:

 皇を表すΘ(テータ・シータ)が日本の神紋であることは神学に通じる皆様には周知で何を今更という話かもしれません。これが、恒星をあらわします。日本で太陽をあらわす千田の国、大倭日高見国の神印がΘで、主には千田や新田、いわゆる安東安倍氏族が使っていますが、東北にこれが多くシリウスをあらわしています。物部氏の天文学者天津甕星天津甕星(あまつみかほしあまのかかせお)という博士が出雲大国主命の時代に居られたように、日本国は宇宙風(磁波)の影響を最も受けやすい立地条件(プレート)の上にできた島であるがゆえに、しまなく天体観測を太古から続けてきました。大和統合の社を大和神社(おおやまとじんじゃ)と呼び奉ります。彼の神社の本当の名前は『星塚』。大和の天体観測所です。
 

 和爾子(まるこ)は日本国人の総称。まるこの意が太陽の御子を表す、まるこが地球上の人間世界共通の意味発音を持った言葉であることは興味深いです。俗に和爾(わに)と呼ぶ海神(わだつみ)族。後継を物部(もののべ)氏。紀元前から3世紀ごろまでは、天皇にお后がことごとく和爾氏から嫁入りしています。次に葛城(かつらぎ)いわゆる出雲の賀茂族であり、その後継たる蘇我(そが)氏より天皇にお后が嫁入りしています。藤原京時代以後、中臣・大伴を母体とした藤原(ふじわら)氏よりことごとく天皇にお后が嫁入りするようになりました。

 和爾子、物部、蘇我、藤原が別物であるように学校教育は間違った指導を行っているため、私はここに記します。

 蘇我稲目公の子に嶋大臣蘇我馬子公がいます。蘇我馬子公の妻が物部布都姫。大連物部守屋将軍の実の妹です。ここで和爾物部氏と蘇我氏が合体していることが理解できます。蘇我馬子公の子が蘇我倉麻呂公。倉麻呂公の子が蘇我連子(むらじこ)公。連子公の娘が蘇我媼子(しょうこ)様です。蘇我媼子様は藤原不比等の正妻であり、不比等公長男武智麻呂公(藤原南家祖)、次男房前公(藤原北家祖)、三男宇合公(藤原式家祖)をお産みになられています。藤原4700氏姓の親たちがおられるのです。

 全日本人が、神道を司る物部氏および、仏教を司る蘇我氏の末裔であることを、私は証明しました。私たちはいにしえよりの家族なのです。

 嶋大臣蘇我馬子公は、どなたから見上げても60代程前の共通のお父様であります。

 歴史研究とは、この一大事に出逢うための一筋の道であり、輪であり、光明なのでございます。


 
 千田寛仁謹著

 
世界系図

    西暦2012年平成24年5月2日
    西暦2017年平成29年10月20日

    付典
 
 
光明遍照、心の光を絶やさない、光は常にあるものと忘れない。 

浅い眠り、まどろみのレム状態に身心の修繕が行われます。

 

原子と電子を結び存在を存在させているのは光子であり、脳ニューロンシナプスもまた、光子によって結ばれています。無量の光を意の中で失わず、ものごとへのスルー力をつけましょう

 

(神通力)

珪素 玄米、じゃが芋根菜類、わかめひじき海藻類

(遺伝子結合) 

水素 牛乳から身体で生成 

亜鉛 高野豆腐、ココア 

リン 豆腐、卵 

(調整)

ビフィズス菌 オリゴ糖 

酵素 御味噌 梨 

(保湿成分) 

ヒアルロン酸 里芋から生成 

エラスチン 鰹、牛、豚 

コラーゲン 鶏かわ、ビタミンC 

(若返り) 

ニコチンアミドモノヌクレオチド 乾燥舞茸、アボカド、落花生、鰹、鮭、魚類

レスベラトロール 赤葡萄

糖化回避 桜の花エキス カフェオイルグルコース ケルセチングルコシド

(ミトコンドリア活発化、痩せる)

ALA アミノレブリン酸 黒酢、赤ワイン、たこ、バナナ、納豆、ピーマン、ほうれん草

 (脳神経細胞修復)

γアミノ酪酸 白味噌、バナナ

 (脳、身体の細胞膜)
油 エゴマ油、亜麻仁油

(視力に良い)

ルテイン ほうれん草

 

●栄養

●視線を落として座る(或いは4Hz~8Hzシータ波音響で同期する

●思考感情を離す

●データ感応道交

●身心の修繕

 

 
 何よりも、念。祈り。



 
 国家安穏 萬邦和楽 子孫長久 諸災消除 所縁如意吉祥


 
     
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