「娘への手紙」
陸軍特別攻撃隊 第45振武隊快心隊 隊長
藤井一中尉(のちに少佐に昇進)29歳
昭和20年5月28日
沖縄戦にて戦死
藤井一氏は、熊谷陸軍飛行学校の教官に就任し、少年飛行兵の生徒隊中隊長として、精神教育を受け持っていました。
「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と、藤井一中尉は、特攻作戦が始まる前から口癖のように言っていました。
特攻作戦が始まると、教え子たちが次々と特攻出撃していきました。
藤井一氏は、教え子たちの戦死を報告を受けるたびに、胸が苦しく責任を感じていました。
教え子たちが、次々と特攻隊で散って行くのを見て、教官として耐えられなかったのでしょう。
藤井一氏は、教え子たちとの約束どおり、自ら特攻隊に志願しました。
しかし、却下されてしまいました。
なぜかと言うと、藤井一氏は、妻子持ちの将校であり、パイロットでもなかったからです。
藤井一氏には、妻とまだ幼い二人の娘がいました。
願いが叶えられない藤井一氏でしたが、諦めることなく再度嘆願書を出しました。
しかし、また却下されてしまいした。
夫の硬い決意を知った妻の福子さんは、昭和19年12月15日、晴れ着を着せた長女の一子(3歳)と手を紐で結び、次女の千恵子(1歳)をおんぶして、親子三人で、熊谷陸軍飛行学校近くに流れる、冬の寒い荒川に入水して自害してしまいました。
「私たちがいたのでは、後願の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っております。」
と遺書を残して。
この報告を聞いた藤井一氏は、三人の遺体の前でうずくまり嗚咽しました。
藤井一氏は、妻子の死を無駄にしないためにも、再度、小指を切り血書の嘆願書を提出。
日本陸軍も、このような事情を考慮して、ついに特攻志願を受理しました。
昭和20年5月28日、藤井一氏は、隊員10名と共に、知覧から沖縄に向けて出撃。「われ突入する」の電信を最後に、散華しました。
先に逝った長女一子ちゃん(3歳)、千恵子ちゃん(1歳)への遺書。
「冷たい12月の
風の吹き荒ぶ日、
荒川の河原の
露と消えし命。
母と共に殉国の血に
燃ゆる父の意思に沿って、
一足先に父に殉じた、
哀れにも悲しい
しかも笑っているごとく
喜んで母と共に、
消え去った、
幼い命がいてほしい
父も近くお前たちの
後を追って行ける事だろう
嫌がらずに
今度は父の膝の懐で、
抱っこして、
寝んねしようね
それまで泣かずに
待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら
よくお守りしなさい。
では、しばらくさようなら。
父ちゃんは、
戦地で立派な手柄を立てて、
お土産にして参ります。
では、一子ちゃんも千恵子ちゃんも、
それまで待っててちょうだい。」
参考図書
「特攻の町知覧」佐藤 早苗著